読書について 他二篇 – ショウペンハウエル

読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。衝動的なつながりはもちろん、気分的なつながりさえ感じない、いろいろなことを次々と考えていかなけれならないのである。しかし自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束はうけても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押し付けず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。重圧を加え続けると撥条(ばね)は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。

読書は思索の代用品にすぎない。

すなわち精神gが代用品に慣れて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人踏み固めた道に慣れきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。

貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。

さらに読書はもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

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