イーロン・マスク 世界をつくり変える男 – 竹内一正

ロボットが通りを歩いて人間を殺戮するのを実際に目にするまで、人々はどのように反応すればいいのか分からない。こうした脅威に対して現実感が非常に希薄であるように思える。

新しいことをやろうと思ったら、失敗を許容しなければならない。

まず言いたいことは「超多忙であれ」ということです。

デザインの小骨話 – 山中俊治

河北秀也のデザイン原論という僕の心に残る一冊があり、デザイナーを志したばかりの頃に読んで何をする時間も放っておいて、ものづくりを楽しむ姿勢や独特の文章に心奪われた。デザインのテクニックなどについては書かれていないが、そんなものは大して大事ではないと思う。時間をかけて、勉強をして経験を積めば、大抵のことはできるようになるのだから。

このデザインの小骨話は、久しぶりに大切な1冊になった。著者の山中俊治氏の奥様がツイッターに観察スケッチの記録をあげていて、観察スケッチは上手くなくてはいけないものではないが、この方の画力は他の方に比べて秀でていたことで気を引かれて、この本に辿り着いたのだ。

そしてデザイン原論もデザインの小骨話も行間が広く取ってあり、ひとつひとつの項(と呼ぶべきものか)が短く、非常に読みやすく、的確で正確な言葉が使われる。かっこいいよな。

ちなみに、小骨話はこぼれ話をもじっているそう。

さらには、アイデアの出し方や造形のスキル、いつ仕事をし、どう休みをとるのか、なぜその仕事に価値があると思うのか。

ようやくもらえる仕事を少しずつではあるが、自分にとってやる必要があるかを選べるようになった(会社が安定してきた)ので、仕事の価値を考えてみる。はじめからそういう姿勢でいるべきだが、まずは生き残らなければいけない。

しかし、自分、あるいは人は特別な存在ではなく、食物連鎖のひとつのピースに過ぎないという相対感覚は自然科学の基礎となる。それは多分、人と人工物の関わりを観察しながら構想する今の私のデザインを支えている。

環境が変わるたびに既存の器官を流用して適応した結果、初めからその環境に最適な設計をしていればそうはならないだろう、と思われるような過剰なデザインも少なくない。その末裔には脊索(せきさく)を巨大な情報処理器官に発展させた、私たち人間もいる。

フクロウは、その大きな頭ゆえに知恵の象徴とされるなど賢いイメージはあるが、運動が得意なイメージはない。親しみやすい風貌と、映画の影響もあって飼う人が増えているそうだが、実は飼育しやすい動物ではなく、人に慣れない孤独な、そして非常に優秀なハンターである。

正中線

20世紀型のものづくりにおいては、そして今も一般的には、基礎研究とデザインは別の職能である。だが、人そのものと深い関わりを持つ最新のテクノロジーはアートやデザインと不可分であり、デザイナーは初期段階から関わってゆく必要がある。その共同作業を通じて社会実装の方法が検討され、研究者たちも、研究の方向性についての新しい視点や方向性を得ることができる。

私が上のようなことをつぶやいたのがきっかけで、「生物が車輪を持っていないのは何故か」ということについてツイッター上で議論が盛り上がった。
「血管を持つ生き物が、360度以上回転する部位を持つことは構造上難しい」とか、「車輪は直径の1/4以上の段差は登ることができないので、でこぼこの世界に住む小さな生物には意味がない」とか、車輪を持てなかった理由についてさまざまな意見が集まった。

私たちは、遠い昔から品種改良によって、さまざまな生き物を自分たちの都合が良いように改良してきた。そしていよいよ遺伝子を操作し、生物そのものも改変しようとしている。善かれ悪しかれ、いずれ私たちは、生物を自在にデザインすることになるだろう。

精度にこだわってものづくりすると、そのしゃきっとした感じは必ず見る人にも伝わる。でも面白いことに、しゃきっと見える理由が精度にあることは案外気づかれない。

そのあたりの検証は専門家に任せるとして、いずれにしても暦は、人が太陽の軌道上に定めた便宜上の目盛りであって、それが宇宙の営みに影響を与えることはない。しかし人という「知識を糧とする生き物」にとっては、周期の原点を定めることは、長さや重量の基本単位を定めることと同様に、自然を知り、理解し、治験を伝え合うための出発点であった。

近頃妙に冷めてしまうのは、社会性のないフリーランスが長かったせいかもしれぬ。などと考えているうちに、このどうでもいい日についてずいぶん書いてしまったが、年に一度ぐらい自らがちっぽけな存在であることを確認するのは悪いことではないわな、などと思ったりもする。

興味本位という言葉は普通良い意味で使われない。でも私は好奇心こそが真理と美に至る根源的な動機だと思う。その意味で対象にきちんと敬意を払い真摯な態度で臨む限り、興味を本位とすることは王道だと思う。

私たちは確かに、「美しくて機能的なデザイン」とか「良いデザイン」というような言葉をひんぱんに使う。よく考えるとそう簡単に定義できることではないのだが、それらの言葉が想定しているのは、人々のベネフィットだ。使う人にとっての快適性や愛着、社会に対する貢献、あるいは売る人にとっての利益など。いずれにしても作られたものが誰かにベネフィットをもたらすことを信じて、良い、あるいは美しいという言葉を使う。つまり、「美しさは人をハッピーにするものだ」という暗黙の了解のもとにデザインがなされている。

スケッチは、言葉に似ている。習得には時間がかかるが、ストレスなく使えるようになると、思考の道具であり、対話のツールである。世界を理解する方法ですらある。

このような道具としてのスケッチは芸術的な表現手段というよりも、日常言語に近い。人を感動させる文章を書くのには文才が必要であるのと同時に、人を感動させる絵を描くには才能がいるが、「グラフィック言語としての絵」には書式や文法があり、外国語と同じ様に、才能の有無にかかわらず習得が可能である。

しかし、私たちはその料理をちゃんと見ただろうか。家に帰って自宅の台所で再現しようとしてみても、材料すら思い出せないことは珍しくないし、出合った動物の耳の形も覚えていない。そういうときのための写真のはずだが、1枚の画像ではどうも心もとない。一方で、しょっとしたスケッチとメモを残しておくとちゃんと再現できる。一度スケッチしてしまえば、案外細部まで覚えているものなのだ。
スケッチは単なる記録ではない。対象物のあらゆるところを見なければ描けないが、一方で見えるもの全てを描くことはできないので、重要なところや特徴的なところをその場で選択することになる。その意味でスケッチは、観察の方法であると同時に情報を整理する方法でもある。

デザインに正解はない。観察と試作、分析を重ねればそれなりの道筋は見えてくるが、多くの場合それでも選択肢がありすぎる。部分的には最適解が見つかることはあるとしても、それらを統合して一つのプランなり形なりに帰結させるのは、結局、人の価値観であり意志である。デザイナーは少しでも好ましい解を求めて、さまざまな可能性の中から選択を重ねて一つの道筋を決定する。

実際、アイデアスケッチにおいて影を描くことは、プレゼンテーションとしても効果的である。モノが床や地面に落とす影から、構造、奥行き、向こう側の形、床からの距離、地面ん平滑さなど、私たちは無意識のうちにさまざまな情報を得ている。シンプルな絵においてこそ、正確に影を描くことは、案外たくさんの情報を伝えることになる。

ポール・セザンヌは友人への手紙の中で、「自然を円柱、球、円錐として扱え」と書いたそうだ。

製作途中のものを人に見せて意見を聞くと、しばしば新しい試みがばっさり否定される。しかし多くの場合、単に洗練が足りないだけなので、安易にそのアイデアを捨ててはいけない。

仕事場兼住居の場所の広さを仮に決める。デザインのための道具や家具、パソコンなど仕事環境に必要なものをリストアップし、仕事場のランニングコストを計算する。さらには、どんな服を着て、どんな食事をしたいか、1週間にどれくらい働くかなどについても、突き詰めた生活ストーリーをつくり、自分たちの給料を算出する。そうやってできたライフプランをもとに積算して、自分の仕事の単価を設定した。

練習は本番のつもりで、本番は練習のつもりで

フリーランスにとっては、すべてのビジネス相手は対等である。しかしだからこそ、出会いの瞬間から力比べが始まる。

フリーランスに向いている性格というものは確かにあると思う。孤独に耐えられること、何をするか自分で決められること、自分の意志で何かをしていること自体に喜びを感じること。フリーランスの仕事にはムラがあるから、仕事がないときにのんびりと過ごせる精神力も欠かせない。さらに言えば孤独はオリジナリティのある仕事の源泉でもあるとも思う。

それは、スティーブ・ジョブズの言う「人は自分が欲しいものを知らない」という言葉にも呼応する。

ザ・ゴール コミック版 – エリヤフ・ゴールドラット

書籍版が、かっこいいカバーで本屋の棚で目を引いたのだが、その分厚さから手にとることはなく、先日紀伊国屋へ行くと、似た装丁でコミック版があったので。

生産ラインが滞るのは渋滞の原理と似たところがあり、どこかにボトルネックがある。自分の仕事にも活かせるのだろうかと考える。全てをひとりでやっているので、順番に片付けていくしかないのだが、時間のかかる作業をどう処理していくかは考えてもよいし、そろそろ外部に出せる人を見つけても良い頃だろう。回せる仕事で時間を取られるのはもったいないし、その時間を別の仕事なり運動なりに使ったほうが、絶対に良いだろうから。

帯の「日本人がいま読むべき伝説の書!」というコピーに心が動かされた。すぐにありきたりの表現で、大したコピーではないと気づくのだが、同時に何れにしてもこういうコピーにやられてしまうのかもしれないとも思い、この後早速adwordsに取り入れてみることにする。

読書について 他二篇 – ショウペンハウエル

読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。衝動的なつながりはもちろん、気分的なつながりさえ感じない、いろいろなことを次々と考えていかなけれならないのである。しかし自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束はうけても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押し付けず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。重圧を加え続けると撥条(ばね)は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。

読書は思索の代用品にすぎない。

すなわち精神gが代用品に慣れて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人踏み固めた道に慣れきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。

貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。

さらに読書はもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

半島を出よ〈上〉- 村上龍

どの国でも同じですが、既得権益層をつぶし、経済を復興させるのは大変に困難です。日本の場合、金食い虫である官営組織の特殊法人をつぶすのが急務でしたが、それは結局できず、それよりはるかに簡単な憲法改正をに向かおうとしています。商工の会社にたとえると、利益が上げられなくなった会社が利益を上げようとしないで社則を改正するのと同じです。日本は治療する勇気を持てなかった死にゆく巨象です。

中高年の自殺者は昨年六万人を越えた。

敵対しているわけでもないのに何事にも非協力的でお互いの足を引っ張り合って挨拶もしないし口もきかないという関係か、またはべったりと寄り添って面白くもない冗談を言い合って自他ともに仲がいいところをひけらかす関係か、その二つしかない。

カネシロはテロのことしか考えていないから、私利私欲がまったくなく、会った人は純粋でまじめで誠実という印象を持つ。物心ついたときからずっとテロのことだけを集中して考え、いろいろなプランを練ってきたので、人柄が誠実に見えるのだ。

大切なのは今のこの社会の、多数派の人たちから離れて生きることだとイシハラはよくみんなに言った。

テロもすばらしいし、暴力もすばらしいし、殺人だってすばらしいけど、戦争はダメだ。それは戦争が多数派のものだからだ。少数では戦争に負ける。戦争をしたがるのは多数派しかいない。多数派は必ず少数派をいじめるし無視する。ぼくちゃんは痛いのが嫌いだから、できればテロとか暴力とか殺人とかはないほうがいいけど、少数派はテロや殺人や暴力をどうしても必要とするときがある。痛いのは嫌だけどそれより嫌なのがモジョリティというやつなの。モジョリティは多数派と訳されるけど、本当はみんなも知ってる通り、マジョリティ。メジョリティでもないし、モジョリティ。この世の中で最悪なのはモジョリティで、それは村も町も国もモジョリティの利益を優先させるから。国家はモジョリティを守るという必要性に迫られて生まれたんだよ。この国では多数派から遠く離れるのが本当にむずかしい。ぼくちゃんやノブチンはずっとモジョリティから無視されてきたし、それは心の傷はるか三百マイルに達しているけど、最初から多数派に入れなかったぼくちゃんはラッキーだったと言うべきだし、ラッキーはウンコではなくて運だ。このことだけは何度も言うし、大事なことだから一回しか言わないけど、多数派に入っちゃだめよ。多数派に入るくらいだったら人を殺したほうがモアベターよ。

情緒は作戦遂行を阻害する。

言葉ではなく、まるで絞めたばかりの鶏の肉に唐辛子や塩をすり込むように、血や脂汗とともに肉体や内蔵に叩き込まれる。

共和国の知識層は日本に対し基本的に憎悪を持ち、そして心の片隅ではかつて西欧を的に回して堂々と戦った国という倒錯した敬意を抱いている。その複雑な思いはおそらく中国も南朝鮮でも、あるいはベトナムやインドネシアなどの他のアジアの国でも同じではないだろうか。

戦争に負けた日本はアメリカの妾になることによって急速な経済成長を遂げたのです。テレビからキム・ハッスに視線を移して、パク・ミョンが言った。経済が破綻した今、いろいろな意味で後悔と劣等感と罪悪感に苛まれています。将来の目標が何か、そのために今何をすべきか、わかってないのです。目標を持ち、何をすべきかわかっている民族は、自国民にアフリカ人の衣装を着せたり、自国のホテルにアフリカの味付けをしたりする必要はないでしょう。

経済が破綻すれば、その国は無能力と判断されてしまう。存在感も信用も地に落ちる。

極度に不安定な状態の物質が急激に安定しようとするという概念がタケグチは気に入った。

国家と言うものは必ず少数者を犠牲にして多数派を守るものだ。イシハラが笑い終えて、そういうことを話し始めた。あいつが本当に福岡のみなさまの生命の安全をだいいちに考えるなら、あいつは絶対に北朝鮮のあいつらと戦えない。本当に北朝鮮のあいつらと戦うなら、福岡のみなさまの生命の安全をだいいちに考えるのは無理のちゃんちゃんこだ。北朝鮮のあいつらは、そのことをうんこみたいにくそみたいによく知っている。北朝鮮のあいつらは、福岡のみなさまの生命の安全をだいいちに、ってことになるのを、最初から読んでいるんだよ。死ね、このウジ虫ども。ゴキブリは自分がどうして秒速ノックダウンゴキジェットプロで殺されるのか知らない。問題は、守るべきものは何かということで、北朝鮮のあいつらはそれを骨の髄まで、パンパンに勃起した海綿体の一粒一粒まで知っているが、東京駅の夜をいろどる切ない雨に濡れたあいつはちんこのカスほども知らない。この戦いは、侵略者を殺す戦いであると同時に、少数者が死ぬのを見る戦いでもあり、誰でもあるとき少数者になるクリトリスクがあることを知る戦いになる。これは誰もあくびにもおくびにも出せないタブーだから、ぼくちゃんにしかわからない。それはぼくちゃんがいつころされてもおかしくない少数者としていきてきたからこそこそこそこそこそわかることで、おっかさんの子宮にいたころから自分は多数派だーいと思ってきたあいつは五億万回生まれ変わってもわからないだろう。

鳥のさえずりよりキムチのさえずりということわざがあったとパク・ミョンは思い出した。

政府としましては最善の努力をして全力で解決に取り組む所存です。そういった答えは質問に答えていない。嘘とごまかしだ。

対立だけが確かな現実という世界で生きてきたんだろうと横川は思った。対立だけが確かな現実、政治はそこで必要とされる。政治と言うのは利害が対立するグループや人間に資源をどう配分するかということに尽きる。利害の対立が明らかになって初めて交渉と言う概念が生まれる。横川の周囲の政治家たちがやっていたのは正確に言えば政治などではなかった。誰も高麗遠征軍と交渉しようとしないのは、相手が武器を持っているからではなく、交渉と言う概念がないからではないのか。

この一連の逮捕ですが、福岡の市民に理解され共感を得ていると思いますか。同乗している朝日新聞の記者が、チェ・ヒョイルにそう聞いていた。何と言う愚問だとチェ・ヒョイルは思った。こいつは侵略や武力制圧を何だと考えているのだろうか。平和使節団や人道奉仕団体と間違えているのではないか。支配する者は、被支配者に理解されるとか共感を持ってもらうとかいっさい考えない。考えるのはもっとも効率的な支配の方法だけだ。生存を許したほうが効率的だったら生かしておくし、殲滅したほうが効率的だったら皆殺しにする。殲滅したら国際世論から非難を受け間違いなく在日米軍が攻撃してくる。だからお前はこうやって同行取材を許され愚問を発しても生きていられるのだ。そう怒鳴りつけて、顎を砕いてやりたかったが、チェ・ヒョイルは忍耐を示し、そのことにつきましてあなたはどう思うでしょうか。と逆に質問した。