「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める! – 苫米地英人

ゴールを意識して生きているか。ゴールのために行動しているか。まずはそれを自問すべきです。

ゴールに向かう童貞には苦しさもあれば楽しさもあり、苦しくても楽しさがある。別の言い方をすれば、抽象度の高いゴールに向かって生きている人は、苦しさも楽しさも関係なく、ただひたむきに生きているのです。

その感情に振り回されずに、「悲しさも人生の味わいのうち」と、娯楽として味わえばよいのです。娯楽として味わっておけば、振り回されることはありません。

この世界の理を踏まえて生きていく心構えのことを「責任」と言っているのです。

「自分」とは、「他社との関係にまつわる情報」が寄り集まったものなのです。

「自分は他人の目にこんなふうに映っているんだろうなあ」というイメージは、あなた自身がつくりだしているということ。
他人の目に映っている自分というものは、自分が作り出している虚像です。「他人の目から見た自分」そのままを、自分で見ることはできないのですから、当然、それは自分が勝手につくっている虚像なのです。

「未来は最高だと」確信すれば過去も現在も最高である」

過去は未来に影響しない。本気で変わりたいならば、「これまでの自分」というゴミを捨てよ。そうすれば人は誰でも思い通りの未来をつくれる。

「自分は◯◯な人間だ」という信念は、「言語」と「イメージ」と「情動(感情)記憶」の三つの要素でできています。

あなたの自己評価を下げる相手は「ドリーム・キラー」(夢を潰す人)です。

自帰依自灯明(じきえじとうみょう)、つまり「自らを拠り所にする」のです。

日本の組織を見ていると、「やりたくないことを嫌々やる代わりに、責任はとらないよ」とみんなが言っているように見えます。

脳の判断基準は臨場感

現代認知科学でも、「リアル」とは「今、自分が臨場感を感じている世界」という定義がなされています。

恐怖を感じたら「おれらしくないな」とつぶやきましょう。

恐怖でクリアな頭を乱されている人は、「オレは何があってもビビらない」と自己イメージを高め、
「すべての感情を娯楽にする」
「ゴール達成に意味のある感情だけを自分に許可する」

この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」といいっます。そして、ゲシュタルトによって事象を認識する能力を「ゲシュタルト能力」といいます。

あの人は打てば響く

人間は自分のためだけに生きていては幸せにはなれません。自分以外の人のために行動してこそ人は幸せになれるものです。

俺は、中小企業のおやじ – 鈴木 修

カリビアン。これはタイランドのジムニーの呼び名で、バーンセンをバイクで走っているときに、黄色のカリビアンを見つけて一目惚れして、周りに話したり、調べてみるとSUZUKIのジムニーという車で、どうやら熱烈なファンがいた車種のようで、これがまた、少し前に日本で何年ぶりかにニューモデルを発売することになった。なんだか自分の中での盛り上がりと世の中の流れが一致して、新モデルはまだタイには来ていないが、来たら買おう。

「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物につかえる、あると便利なクルマ、それがアルトです」

「これだけは絶対よそに負けない、という特長のある会社にしたい」

やはり「他人をあてにしてはいかん」ということを、特にカネについては思っています。

「会社というのは、いろいろ手間がかかっても一から自力でつくりあげたほうが、いい結果が出る」という教訓です。世の中では「M&Aブーム」といわれた時期もありますが、少なくとも自動車産業でM&Aをやって大成功しているところはありません。

小さな市場でもいいから1番になりたい    

「国内で1番になるのが難しいなら海外でやってやるぞ」という気持ちです。

セダンもあるけど、ワゴンもあーる

やってみせ、言って聞かせ、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

人生を変える幸せの腰痛学校 心をワクワクさせるとカラダの痛みは消える – 伊藤 かよこ

足の手術をしてから、膝や体に不安を覚えるようになったのだが、3ヶ月前から足のことや痛みについて調べたり本を読んだり考えたりするうちに、自分のというよりは人間の可能性を信じる方が良いのだろうという、信じがたい人には何を馬鹿なという考えを重んじるようになった。そしてこの本を読んで、それは加速しているし、自分を人間をもっと信じなければいけない。これは、腰の痛みとか体の痛みの話だけではなくて、あれをやりたい、こういうことを実現したいとか言う話も全く同じで、やれると思ったことは全てやれるのだ。それが我々だ。

いい気分で数合そうと努めた

私は幸せになるんだとまず最初に決心することなんです。

体験を繰り返すことによって、『思い』や『考え』は『信念』に、そしていつの間にかその人にとっての『真実』になってしまうんです

モルヒネの6.5倍の鎮痛作用があるといわれているβエンドルフィンは、自分でつくることができるんですよ

からだは、人智を超えた存在である。このことだけは覚えといてほしいなぁ

私が変われば、世界が変わる

疑問を持つこと。
自分で考えること。
自分で決めること。
広い視野を持つこと。
受け入れること。
勇気を出すこと。
本音に向き合うこと。
感謝すること。
信じること。
仲間と共に喜び合うこと。

半島を出よ〈下〉- 村上龍

終盤のコリョとの戦いと爆破によりビルが崩壊するあたり、待ちに待っていたこともあり胸が踊った。同じシーンを映画で表現する方が容易に思うが(もちろん簡単なことではないだろうが)、ああいう場面を言葉で表現できるのは、さすがに小説家だ。バンコクのウェブマガジンやフリーペーパーなんかを見ても(読むではなく)、面白い表現に出会うことはない。そして僕が欲しいと思うような情報が書かれているわけでは決してないので、読むこともない。同じく言葉を生業にしているはずなのだが。

からだ中がヌルヌルのヤマダはモリに気づくと、やあ、ちゃんと来たんだね、と齧歯類のように微笑んだ。

その様子はニンジンと交尾の相手を同時に見つけたオスウサギのようだった。

酒は親しい雰囲気の中で飲まれることが多いが、親しい雰囲気というのは危険に充ちている。その場に蔓延した親しみに敬意を払わなければいけないし、同調することも必要だ。同調を示さないと罰を受ける。親しさが蔓延する場所では、単に一人でじっと考え事をしているだけで、どうしたんだ? つまらないのか、と責められて、そのあとあいつは暗いやつだと攻撃の対象になる。酒を飲む場所では、誰かが冗談を言ったときはそれがどんなにつまらなくても笑わなければいけない。ここにいるみんなは、居酒屋やスナックに集まって大声で笑いながら酒を飲んでいるような人間たちは抹殺しなければいけないと思っている。そしてほとんどのメンバーがすでにそれに近いことを実行した。

打ち合わせなんかでも、一対一でやると思っていたら、部下や嫁を連れてくる人間がいる。その前に連絡があれば、こちらもそういう場面を想定して行くのだが、すでにそこに相手の弱さと誠実でなさが見えてしまう。二人で腹を割って話そうよ、ということではないんだよな。

無理に抑えつけると狂気って圧縮されていつの日かそれが爆発するんだよ。正常と狂気って、実ははっきりと分かれてないのよ。念のために言うけど、正常位じゃなくて正常ね。ただ、狂気は自分の中にあるんだけど、正常さを象徴する共有感覚みたいなサムシングはどこかに浮かんでいるの。

金融にしても同じだね、国民の七割が飢えに苦しむような国家をさ、儒教の教えを上手に使ってね、情報を操作して、反抗するやつは殺して、外国から金をせびってさ、なんとか切り盛りしてきたわけだからさ、吐気がするけどね、そりゃある意味プロ中のプロよ。

修復したほうがいいとチョ・スリョンは思った。メンツをつぶされた人間は恨みを持つ。恨みは陰謀や犯行の芽になる。

スリョン、良い詩を書くことができる人間になりなさい。実際に詩を書かなくてもいい。ただいつでも書きたくなったときに良い詩を書ける人になりなさい。良い詩を書けるのは、自分の心の闇を見つめることができる人だ。強く美しいだけでは良い詩とは言えない。読む側の人の側に立った詩でなければ、本当の力はない。いいか、スリョン、読む人の側に立った詩を書くんだよ。

包茎の新兵たちも一緒に壇上に上がらされて、一斉にしごき始めて、壮観なものだよ。するとね、例の軍医殿がそわそわし始めるんだな。何しろ、古参兵のデカチンと、新兵たちの三、四十本のチンポが壇上でそそり勃ってそれがしごかれているわけだから、男色家としては至福のときなわけで、溜まりに溜まった白濁した液体が数十本のチンポの先から飛んだときにはだな、軍医殿は感動のあまり椅子から腰を浮かして、万歳と呟いたそうだ。

言葉遣いもていねいだし、驚くほど礼儀正しいが、それは排他的で閉鎖的であることの裏返しだ。外部と距離を置くだけではなく、外部を信用していない。

涙の別れ、永遠に続く愛、そして前提的な信頼などは嘘なのだとイシハラは教えてくれた。

一本目はわざとはずして犬に上を向かせたのか、とカネシロに聞かれて、内緒、とタテノは少しだけ微笑んだ。ターゲットを倒したことで興奮するわけでもなく、得意がるわけでもなく、当然だというように淡々としていた。まるで友達に頼まれて修理した大工のようだとシノハラは思った。

福岡に来る前に出会った連中はみんな何かをなぞっていた。温かな家庭とか善良な人間とか幸福な人生とかそれぞれにモデルがあって、みんなそれを模倣し、なぞっているだけだった。

愛情豊かに可愛がられた子供は大人になってから有利だ。人に好かれるし、性格に余裕のようなものが表れて就職にも影響がある。

そして何より彼女たちには子どもを育てている女性に特有のある種の正直さがあった。図々しさと言ってもいいかも知れない。可愛がり方はいろいろだが、みんな子供のことを第一に考えていて、お腹が痛いと言えば髪にカーラーをつけたまま病院に走っていくし、子供がおいしいと言ってお弁当を食べるのを見るだけで幸福な気分になる。若い母親はある時期子どものヨダレやオシッコやウンコにまみれながら過ごし、動物的な母性を獲得していくのだとある育児書に書いてあったが、まさにその通りだと思う。

夫の母親は、後悔と不幸と自尊心が顔の皺に埋め込まれているような女だった。わたしの言うとおりに生きればすべてが手に入るが、背くと何も得られないと脅しながら子どもを育てたのだろう。自分で考え、自分で判断して決定することには何の利益もないと刷り込んできたのだ。

そういった腐った大人たちから正しく生きろと言われても子どもは何のことかわからない。もちろん素直に従う子どももいる。だがそいつらは大人が正しいのだと自分で判断して従うわけではない。大人に従えば利益があって、従うのを拒否すると罰が与えられるのを知っていて、それから逃れているだけだ。大事なのは、今のヒノやタケグチみたいに、やらなければならない何かを見つけることだ。何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞き続けることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の校風もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる。

おじさんは、まあこんなもんだっぺと言って、必ずそのあとに、うまくいきすぎると早死すっぺ、と続けた。

自分がうれしかったり楽しかったりするよりも、自分が大切に思っている人がうれしそうにしたり楽しそうにしたりするのを見るほうが喜びが大きいということを兄たちは教えてくれた。

ちょっと導入部分だけ読んでみるね。一人の良い子が死ぬと、そのたびに天使がこの世に降りてきて、死んだ子を両手に抱きます。天使は大きな白い翼を広げて、生きているときにその子が好きだったあらゆる場所の上を飛んでいくのです。そして一握りの花を摘んで、その端がこの世で咲いていたときより、もっときれいに咲くようにと、天国の神様のところに持っていきます。神様がもっとも気に入った花は、声を与えられて、喜びのコーラスを一緒に歌うことができるのです。

その人が自分から話そうとしないことを聞くな、と教えてもらったからだ。

やさしい瞑想法: 中村天風直伝の“人生を自在に生きる知恵” – 沢井 淳弘

瞑想を習慣にするとどうなるか。瞑想により心と体を強く、自由にすることができるか。実験を開始。

つねに天空海闊の状態で生きろ!

自己の良心の声を聞く

瞑想が集中力をたかめるのに効果的だと気づいた人たちがいます。

瞑想時に、僧たちは時間と空間の感覚を超越し、彼らのスピリチュアルな現実把握は、私たちの科学的な日常的な現実感覚より正確である

瞑想が、他者の精神状態に共感する脳の部位に影響することが、私たちの研究によって、確認された。したがって…人間は音楽の楽器演奏やスポーツを習得するのと同じようなやりかたで、瞑想によって<他者を愛する親切心や同情心>を習得することができる

瞑想によって、人は、現下の自己の感情や想念を冷静に観察し、自己のマイナス感情をぬぐうために、その感情をうまく言語化することができるようになる。

フィロソフィーはもともとギリシア語で、「知を愛する」という意味です。

たいていの問題は気にするから、生じてくるのですね。