白痴 3 – ドストエフスキー

読了。
1巻は順調に面白く読めていたのだが、2巻3巻となるにつれて、なんだかよく分からなくなっていった。
翻訳ということ、設定に没入しづらいことなどが理由であろうか。何とか読み切ったが残念。

あなたとは何でも全部、一番大事なことまで話したい。話したくなったらね。だからあなたのほうも、何ひとつ私に隠しちゃだめよ。私、せめて一人でも、自分自身と話すように何でも話せる相手がほしいの。

フランス語の単語で、他の多くの言葉と同じく、ロシア語の語彙に加わったものであります。

私見によれば、作家はたとえ平凡な存在の中にさえ、面白くてためになる要素を嗅ぎ分けるよう心がけるべきである。たとえば、有る種の平凡な人物の恒久不変の平凡さそのものんが、まさにその人物の本質をなしているというよおうな場合、あるいはもっとましな例だが、そうした凡人がなんとか凡庸とマンネリの域を脱しようと渾身の努力を払ったあげく、結局はひたすら不変恒久なるマンネリの域を一歩も出ぬままに終わってしまうような場合、そうした人物はむしろ一種独特な典型性さえ獲得するのである。ちょうど凡庸な人物が、なんとかいまのままの自分から脱却しようとして、独創的というべきほどの資質をまったく持たぬまま、しゃにむに独創的かつ独立的であろうと試みるようなケースである。

実際問題として、たとえば、金持ちで家柄もよく、見た目も上品で教育も有あり、頭も悪くなければ人柄も善良なのに、それでいて何の才能も、特質も、奇癖さえもなく、自分自身の思想のかけらさえもなくて、完全に「皆と同じ」人間でしかないとしたら、それほど腹立たしいことはないだろう。財産はあるがロスチャイルドほどではなく、家柄は立派とはいえ何かで顕彰されたためしは一度もなく、容貌は上品だがいたって表情に乏しく、立派な教育を受けていてもその使い道を知らず、頭は良くても自分の思想を書いていて、情はあっても広い心はなく……といった具合で、万事こんな調子なのである。こうした人間は世の中にうようよしており、一見そう思えるよりもはるかに多いほどだが、あらゆる人間集団と同じく、彼らもまた二つの種類に大別される。すなわち、浅薄な者たちと、「はるかに小利口な」者たちである。前者のほうが幸せだ。たとえば浅薄な「凡人」は、ごく簡単に自分を非凡で独創的な人間だと思い込み、そして何のためらいもなくその空想を楽しむことができる。

「おそらく、ただ笑わせるための冗談だったのではないですか」
「おっしゃることは分かります。愉快な笑いのための罪のない嘘ならば、たとえ下品なものであれ、人の心を傷つけたりはしません。ただ話相手を喜ばせようとして、いわばひたすら友情のために、嘘をつく者すらおります。しかし、もしもそこに相手への軽視の要素をちらつかせ、そしてまさにそうして軽視ぶりによって、相手との関係に辟易していることを表現するような輩がいたら、高潔な人間のとるべき道はただひとつ、そっぽを向いて絶交し、侮辱者に対して身の程を知らしめてやることでしょう」

「さもありなんですな」

ともかく人間、気分には勝てないもので、エリザヴェータ夫人もとうとう自制がきかなくなって、ヒステリーの発作に屈してしまった。

たとえ不幸でもちゃんとモノが分かっていたほうがましですよ。たとえ幸せでもただ…馬鹿にされているよりは。

さっきあんなにむき出しにぼくに反論したので、こんどはその埋め合わせにぼくのご機嫌をとっているわけだ、はっはっ! あなたはまったく子供ですねえ、公爵!

その行いによりて彼らを知るべしとは、うまく言ったものです!

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