河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也

バンコクのあるスクールのグラフィック・デザインコースで使うカリキュラムとスライドをつくらせてもらうことになった。デザイナーを目指す若き人達にきちんとしたものを残したくて、まずはこの本を読み返した。

これは私のバイブルでデザイナーになって間もない頃にこの本を読んで、感動したし、デザイナーと言う職業により強く憧れたし、自分は向いていると思った。

今回で5,6度目くらいになるのだが、読んでみると根源的な問いの部分を考えることになった。

「えっ、あるよ。二人とも業界のはぐれモノというのが共通点だよ」と長沢氏。ところが、このはぐれモノが、生物学上では大変重要なポジションにあるのをご存知だろうか。動物の種が絶滅せずに営々と続いてこれたのは、じつははぐれモノのおかげなのである。群をなして生活する動物にも、必ずはぐれモノがいて一匹離れてフラフラしている。当然、敵が襲ってくるとまっさきにやられる。はぐれモノは「ギャー」と悲鳴をあげる。その悲鳴を聞いて、群は一斉に逃げる。はぐれモノは、哀れにも犠牲となって群を守るのである。その二、群にとって最も大切な物は食料である。しかし、時として食料も枯渇することがある。群には死が待っている。だが、ここでもはぐれモノが、またまた群を助ける。いつもフラフラしているから、意外な場所で食料をみつける。そして、「ここにあるぞ」と叫んで群を案内するのである。もし、動物が整然と群だけで生活し、このようなはぐれモノが存在しなかったら。とうの昔に動物は滅んでいただろうといわれている。さて、二人のはぐれモノはこの世界を救えるか。

[人間は、居間でも原始的混沌状況にあるのではないか、つまり、人間はチンパンジーにもピグミーチンパンジーにもなれなかった種ではないか」と話されてニヤリとさせられた。人間は類人猿の原型から進化した、というのが定説である。オランウータンやチンパンジー、ピグミーチンパンジーなど類人猿も、その原型からから進化している。自然の中で調和を保ちながら平和に生活をしているチンパンジーなどの類人猿を詳細に研究していると人間のおろかさがよく見えてくるのだろう、と思う。

「リモデル」すれば「利も出る」

日本の車の広告は派手である。パリの街中でダンスを踊ったり、アウトバーンを軽自動車が疾走して高級車を追い抜いたり、ブローニュの森を幻想的に走ったりするテレビコマーシャルがある。別にこれらの車は、ヨーロッパの人たちに日本車を売ろうと思って、ヨーロッパでオンエアするために作られたものではない。日本人に車を買ってもらいたいがために、日本でオンエアするテレビ・コマーシャルである。

「見る」とはいったいどういうことだろうか。あまりにもあたり前すぎて考えたこともないかもしれない。たとえば、カエルは、モノの大小しか見ることができない。大きな物体が横切ると敵だと思って逃げる。小さなモノはエサだと思って、ゴミでも食べてしまう。カエルは、敵かエサかを見分けるためだけに、目がある。

この先、話が盛り上がっていく。はじめてこの文を読んだ時、ベッドの上にうつ伏せになっていたのが、ここを読んでベットから起き上がり[こんな風に考える人がいるんだ」と興奮した。デザイナー以外でも、きっと楽しめる本だと思うから、ぜひ読んでみて欲しい(バンコクにいる人であれば貸してあげられます)。

同じ機種のカメラで、同じレンズを使って同じ位置に立って、同じものを、同じフィルムを使って、複数のカメラマンが撮影したら、すべて同じ写真になるだろうか。
日本語の写真という言葉は、真実を写すという意味だが、多分これは絵画表現を意識して作られたのではないかと思う。絵で人物を描けば、絵描きの実力や用具や絵画によって微妙に描かれる人も変わるわけだが、写真は絵画よりも本物に近い。何といったって写真なのだから。しかし、すでに私達は写真と実際とのずれをなんとなく知っている。<中略>
ところが、一個人の能力や感覚によって切り取られた絵画やテレビの映像や写真はどうだろうか。もう、何も言う必要はないだろう。冒頭に問題を投げかけた。同じ条件で同じものを何人かのカメラマンが撮った場合、決して同じ写真にはならないのである。そのカメラマンの全人格全人間性以上のものは決して写らないのである。「ちょっと待ってくれよ」という人がいるかもしれない。「しろうとだって、オートフォーカスのコンパクト・カメラで結構写るし、ほかの人と比べて、大差ないよ」と思うかもしれない。
この写真の話は、しろうとの話ではない。一流と言われているカメラマンが撮った場合の話である。写真を自己表現として、プロとして生涯の仕事に選んだ人の話である。彼らは対象を真剣に撮ろうとすればするほど、自分自身が露出するのである。他のカメラマンより、気持ちだけ対象物に迫ったり、あるいは気後れして引いたり、何十分の一、何百分の一のシャッタースピードの中で微妙に、シャッターを押す。切り取る瞬間がことなるのである。
そうして出来上がってきた写真を見ると、カメラマンの、作品や本人を知っていればいるほど、サインがなくても誰の写真であるかが分かる。

デザインという概念を、うまく方法論として取り入れていったのが広告である。自社のモノを売る、という最終目的のためにマスコミ、美術、音楽、文学、科学などを調整し、プランが練り上げられ、テレビ・コマーシャルや新聞広告や雑誌広告などの具体的な広告物として仕上げられる。また、これらの目に見える広告活動と並行して、こまからマーケティング活動や販売促進活動が行われる。
このことは、広告がデザインを取り込んでいったというよりは、マーケティング全体がデザインの調整機能を、経済という面から捉えなおし、応用していったといってよいだろう。「人間の幸せ」という漠然とした曖昧な目的より、「自社のモノを売る」というはっきりとした目的の方が理論を構築するのは容易であり、実践方法を探るのもたやすい。
しかし、マーケティング理論がデザイン概念の応用で成り立っている限り、デザインの持つ方向性、つまり人間の幸せという目的をはずすことはできない。次々に商品が登場し、次々に新手の広告を作らなければ通用しない、というポイントはじつはここにある。短期的には人の心を揺さぶっても、それがデザインという全体性の中でつくられたものではないから、長期的には受け入れられないのである。

三十センチメートル以内に顔を近づける。手をにぎる。できる限りいっしょに話をする。簡単なことだが、私は家庭で、大きくなった子供や、だんだんと歳をとってきた妻にこの三つのことを実行しているかといわれれば、皆無に近い。自殺を企てる人は、こういった人間と人間との暖かいふれあいに極端に飢えていた人であろう。それが、この三つの誰にでもすぐにできることで救われるのである。

人間の幸せという大きな目的のもとに、創造力、構想力を駆使して、私達の周囲に働きかけ、様々な関係を調整する行為が「デザイン」ということである、と主旨をかかげ、小学生、中学生、高校生に街や学校や家や環境そのものに対するデザインを募集したものである。

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