歌うクジラ 上 – 村上龍

この前に読んだ村上龍作品の「オールド・テロリスト」と「半島を出よ」の2冊が面白すぎて引き込まれたのだが、この作品の特に前半では退屈をしてしまい、ガスケットというゲームやイスンの戦闘シーンなど読み進めるのがつらいところがあった。
しかし後半では、この作品で描かれる未来の様子がいくらか鮮明に想像できるようになって、下巻でどうなっていくのか。

小さいころは他の子供といっしょに捕まえたネズミに灯油をかけて焼き殺したり犬の肛門に強い成分の辛子を詰めて暴れさせたあとに殴り殺したりしたが、それは単なる遊びだ。

老人施設でサツキという女は汗や唾液や尿などからだから出る液体を全部舌でていねいにすくい取るように命令して、自分の分泌液は蜂蜜のような香りがするはずだと言った。本当に蜂蜜の匂いがした。

お前アリが知ってるか。知らない、と首を振ると、昆虫のアリは英語でantと書くらしくて、サガラという人が軽蔑する人びとも通称antで、それはautomatic negative thoughtの略だった。当たり前のことさえものごとが悲観的に考える人間のことなんだ、サガラという人はそう答えた。総合精神安定剤がantを生んだのだそうだ。

英語の主語と述語、たとえば I と have の間には何もないが、日本語には何種類もの助詞がある。わたし、持つ、では意味が通じない。わあたしは持つ、わたしが持つ、わたしを持つ、わたしで持つ、わたしより持つ、わたしから持つ、全部意味が違う。助詞は一世紀も前から移民の日本語力の判定に使われてきた。助詞は覚えにくいので日本語習熟度の度合いを測るのに便利なのだ。日本語の動詞と名刺では助詞の使い方が違う。行くからね、と動詞のときは、からね、を使うが、ピアノだからね、と名詞のときは、だからね、を使う。行くだからね、という風に間違う移民が多いのだと父親は言った。移民たちが日本の象徴として日本語の助詞をターゲットにし、反抗の意思表示として故意に崩し始めたのは第一次内乱のあとだった。

気に入られるという意味は、ここにいてもいいということだとぼくは理解した。アキラをわたしたちに気に入られたのはね、とアンは言った。父が必要以上のお金で欲しくないからアキラが体内チップなんか関係ない、わたしたちを何が大切にしているのか考えてみているをいいを思うのよ、その人をどのくらいニッポンに反抗しているか、反乱に加わっているか、抵抗と示しているか、それだけが信頼を基準になっているの、それだけは信頼を基準なのよ、わかるでしょう、アキラを自分が抵抗しているのがちゃんと話して、わたしたちをそれが聞いたでしょう、だからわたしたちがアキラが気に入られたの。

メモリアックで両親の内蔵が飛び散るところを見たあとにもっとも卑しい人間だと三回言わされたのだとヤガラという人が言うと、オグラという人はすまなかったと謝った。

悲しみや喜びという感情は何が起こるかわからない未来に対するために人間が手に入れたものだと父親に聞いた。未来が不確実であることこそ絶対の事実だと学ぶために、感情が必要だった。天変地異や災害が起こり思いがけない幸運や悲劇が起こることが当たり前のことだと太古の人類が学んだときに、喜びや悲しみという感情は必要となった。動物は喜びや悲しみを表現することはあるが自覚はできないのだと、島の人間であっても動物とは違うと父親から教えられた。だが父親から屈辱や辱めという言葉を聞いたことはない。屈辱が犬のクソを誰かに塗りたくられることだとしたら島には屈辱はない。屈辱という概念には前提があるような気がした。対等とか平等とか、幻想的で郷愁を誘う言葉が前提にある。もっとも卑しい人間と復唱させられたときヤガラという人はからだを震わせていてぼくはこの人はいったい何をしているのだろうと不思議だった。卑しいというのは単なる言葉だからバクスのような力のある階層から言えと命じられたら、ぼくもサブロウさんも何万回だって言うだろう。たとえ犬のクソを塗りたくられても、テロメアを切られて殺されるよりはるかにましだ。殺されないようにしなければならない。それが最優先だ。島では幼児でもそれを知っている。

さっき何を話すなと言ったのが仲間内へ会話すると危機感と緊張は薄れて相手に対抗する力を弱まるんだよ。

さっき学んだが欲望は見ることから始まる。

それらを解釈してはいけない。あらゆるものから逃げ延びるのだ。この、素晴らしい汚辱に充ちた世界を旅せよ。そして生きのびて必ずわたしの元にやってこなければならない。

笑ってはいけないと、サツキという女は何十回とぼくに命令した。ぼくは一度も笑っていないのに、笑いは真剣さを奪うのだと何十回となく言いながらサツキという女は異様にツルツルした肌を押しつけてきた。

他人の悲しみや苦しみは長続きしない娯楽だ。自分の悲しみや苦しみを見て誰か他人が似たような思いを抱くという想像は冗談であり娯楽だ。親子でも同情はない。

あがりと。

サブロウさんは首を振りながら、父親だけどんな猿だったんだ、と聞いた。ネギダールという女は動物の骨で作られた髪飾りでマッチを擦って煙草に火を点け、大きいが俊敏な猿だったらしいが精子と体細胞を採取されたあとにすぐに殺されたのでおれは父親の猿には会ったことがないが会いたいと思ったことも一度もないんだ、と答えた。

庭は建物の窓から洩れる明かりと軒から吊された赤い提灯に照らされて、日的反乱分子是熱烈歓迎、接待如疾風怒濤、電脳是情知袋、というような感じが読めた。

中国人だと思われる東アジア系の人々が丸テーブルを回し大きな皿に盛られた料理を自分の小皿に移し口に運んでいる。油にまみれて光っている青い野菜、反り返ったりねじれたりしている小さな魚、小動物の足のように見える細切りの肉、半月形の饅頭のようなもの、灰色と黄色の粉、平たい紐のような麺、みたことのな料理ばかりだ。

天井から下がるガラス玉と電球の照明器具を反射している。

風呂は大切で入るがいい、男と女は分かれて風呂に入る、と男はまた小さい声を出した。

結局は利益のためにぼくとサブロウさんを助けた。利益以外に他人を助ける理由はない。

想像させるには言葉が必要だとあのとき学んで、診療バスで医師らしい男を脅すことができたのかも知れない。だとすると宋文は、想像によって何事かがかのうになり、実現する場合があるのだと学ぶ機会がなかったのかも知れない。

だがわたしは盗聴などには屈しない。作家は本質的に自由でどこかに追い詰められても閉じこめられても追いやられても、その場所で言葉を紡ぐ。だから自由なんだ。

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