侏儒の言葉 – 芥川龍之介

イケメン。
生まれてから母親の精神がおかしくなり、11歳までそういう母親とくらしていたという。どういう程度のおかしさなのかは分からないが、母親からの無償の愛というようなものを受けてはいないのかもしれない。それは祖母のものに変わったのか。

況(いわん)や

良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。

我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我我の好悪である。或いは我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、まさに溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。

人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じえないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦(また)確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

スウィフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるそうである。

完全に幸福になり得るのは白痴のみに与えられた特権である。

我我はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。

結婚は性慾を調整することには有効である

立川談志も結婚することでセックスがただできるようになる、というようなことを言っていた。

我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウェルテル、ロミオ、トリスタンー古来の恋人を考えて見ても、彼らは皆閑人ばかりである。

ふむ。

消化は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・ミア」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。

我我の恬然(てんぜん)と我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、ー或は、犬猫に対する時だけである。

あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟(ひっきょう)「臆病な」と云うことに過ぎない。

阿呆はいつでも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。

何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。

恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。