人間そっくり – 安部公房

「砂の女」に続いて。
安部公房の世界観は、海外での評価も高いのだとかいうか、あまり得意ではない。
昔の同僚が読んでいた「箱男」が気になっている。いずれもう1冊読んでみようと思う。

でも、けっきょくナイーブなのねえ、話を聞いてやっていさえすれば、それでご満足なんだから。

いまさら気のふれたファンなどというのは、薬味にしても利きすぎている。

平凡も、徹すれば、非凡に通ずるっていうじゃないの

臆病な犬ほどよく吠えるというが、その臆病さのおかげで、犬はしばしば、身の安全を保つことが出来るのだ。

化学の実験でもするように、掌を内にあおって、紅茶の湯気を鼻の穴に送り込みながら、

素晴らしい表現の仕方。

気づいたときには、もうじきが、一足飛びに、まだになっていたのだ。

大きな嘘を隠すには、小さな無数の嘘で、そのまわりをくるんでやるのが一番だという。

ヴェニスの商人

シェイクスピア。ハムレットに続いて2冊目。

ちょうどカラヴァッジオについて調べている時に読みはじめたのも何かの縁で、シェイクスピアがイタリアを舞台に物語を書いている。

印象に残った言葉あったが、それと同じくらい気になったのは、ユダヤ人を他者として扱っていることで、そんなにも風当たりがつよく、それをシェイクスピアも肯定的に描いているのは、時代というものであろうか。

元気がないな、アントーニオー、きみは世の中のことをあまり気にしすぎるのだ。世間というやつは、くよくよすればするほど、ままにならぬものなのさ。本当だよ、きみはすっかり変わってしまったな。

もっとも、よくは解りませんけれど、あまり御馳走を召し上がりすぎると、食べ物もなく、ひもじい思いをしているものと同様、やはりお体を悪くなさるとか、そうなると、身分もいい加減のところのほうが、いい加減のしあわせが手にはいるというわけでございましょう ー 度を過せば白髪を招き、程を守れば長寿を保つ。

いい格言だね。言いまわしも気がきいているし。

ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい? 手がないとでも? 臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい? 同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷かつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない、何もかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 針でさしてみるかい、われわれの体からは血が出ませんかな? くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめに会わされても、仕かえしはするな、そうおっしゃるんですかい? だがな、ほかのことがあんた方と同じなら、その点だって同じだろうぜ…クリスト教徒がユダヤ人にひどいめに会わされたら、ご自慢の温情はなんと言いますかな? 仕かえしとくる。それなら、ユダヤ人がクリスト教徒にひどいめに会わされたら、われわれ持ちまえの忍従は、あんがたがのお手本から何を学んだらいいのかな? やっぱり、仕かえしだ。没義道はそちらが先生、習っただけはおさらいして見せる。いや、それだけでは腹の虫がおさまらぬ、御指導以上にみごとにやってお目にかけますぜ。

外観は中身を裏切るものだーいつの世にも人は虚飾に欺かれる。裁判でもそうだ、どんないかがわしい曲がった訴訟でも、巧みな弁舌で味つけすれば、邪な心のひだを消しされるではないか? 宗教にしても同じこと、どんな異端邪説でも、殊勝げな坊主がそれを祝福し、聖書の言葉に照らして、もっともらしく解説しさえすれば、その忌まわしさも虚飾のかげに隠しおおせるではないか? 世にむきだしの悪というものはない、かならず大義名分を表に立てているものだ。どこにも多い臆病者、心臓は砂で作ったきざはし同様たわいない。そのくせ顎には勇士ハーキュリーズや軍神マルスのひげをつけ、厳しげに構えている。言うまでもない、その腹をのぞいてみれば、肝玉は乳のように白ちゃけているのだ。ただ、やつらは勇者の飾りを見せかけに、世間をおどしているにすぎない…美人をみるがいい、知れたこと、美しさもまた脂粉の目方で売り買いでき、その目方ひとつで世にも不思議な奇蹟が起る。つまり、顔に塗るものに目方をかければかけるほど、尻はますます軽くなるというわけだ。そうなれば、蛇のようにうねった金髪の捲毛にしても、あのうわべだけのお化粧美人の頭の上で、みだりがましく風とたわむれてはいるものの、元を洗えば、わがものならぬ貰い物、その金髪を養い遺してくれた人の頭は、今は髑髏(どくろ)となって墓の下に…こうして虚飾こそは、魔の海に人を誘い裏切る岸辺、色黒のインド美人の面を隠すきれいなかつぎ、一口にいえば、見てくれのまことらしさというやつ、ずるかしこい世間はそれを罠にしかけて、どんな賢者も陥れるのだ…

早く言えば、教養のない小娘、弁(わきま)えもなく、経験もございません。ただ、しあわせなことには、いまさら何を学んでも追いつかぬほど年をとってもおりませず、さらにましなことには、何を学んでもものにならぬほど愚かな生まれつきでもございませぬ。

ぼくは群れのなかの病める羊さ、人身御供にはもってこいなのだ。木の実も腐ったやつから地に落ちる。

タイのことがマンガで3時間でわかる本 ASEANの中心国! アスカビジネス

同じアパートに住む日本人にもらった書籍。
6部屋しかないアパートでメー・バーンには日本人がもうひとりいるよと、聞いていたのだが、彼が2日後にはマレーシアへ出ていくので、せっかくなのでもらってくれる人がいれば受け取って欲しいということで、20冊近くの本を頂いてしまった。
更に私の部屋で本を見ながら話していると、私の部屋にある本を見て「こんなにたくさんの本があるなら本棚ももらってもらえますか?」と言って立派な本棚まで置いていってくれた。形は店にあったものだが、木の種類は濃い色のものにしたくて、オーダーしたものだということだった。

知っていることばかりだと思ったが、パラパラとめくっていると以外に収穫があった。
近い将来にBOIについて考えてみよう。必要でなければやることはないが、メリットがあればやってみるのもよい。

一説には、トンブリー王朝(1767年〜1782年)を潮州人のタークシン大王が建てた頃から、多くの華人がタイに来たと言われています。実際にタイの華人の出身は半数以上が潮州といわれています。

注意すべき有給の休暇として「疾病(病気)休暇」なるものがあります。

ちょうど先日友人と夕食を食べた時に話にあがった、タイをタイたらしめる決まり。

認知症の人の心の中はどうなっているのか? – 佐藤眞一

母親が認知症になってはじめて認知症の人がどういう感じなのかを知ることになった。
私はバンコクに拠点を置いているので、昨年末からは3ヶ月に1度東京に戻るようにしている。週に2度は電話をする。

それまでよりも母親と多く時間を持つようになって、寂しさがひとつの原因であったのが分かった。
なるべく寂しくないようにしたいとは思うが、自分の生活もある。一緒に住んでいる父親のこともある。
この先数年でまた別の局面を迎えることになるだろうから、それでも自分の生活も保てるように下準備をしておかねばならない。

アリセプト

フランスでは副作用のわりに効果が高くないとして、2018年8月からこれらの薬が医療保険の対象から外れ、全額自己負担になりました。

記憶障がい

害の時は使わない。痴呆症は差別的用語だ。
ということを一般的に広く共有することで、認知症患者や健常でない人間に対するやさしさが当たり前になるといいのだが、日本の社会にはなかなか難しいように思えてしまう。ベビーカーを電車やバスにのせるのさえ心を痛めなければならないのだろう?

その中には、亡くなるまで認知症の症状がまったく出なかったにもかかわらず、死後に脳を解剖したところ、アルツハイマー病が最も重いレベル(ステージⅥ)に達していたシスターもいました。彼女は修士号を取得していて、障害にわたって教育に携わり、現役を退いてからも知的な活動に勤しんでいました。

その研究では、ユーモアなどの内発的な刺激がない状態で、24歳から43歳までの17人に、1分間の作り笑いをしてもらいました。すると、その前よりも後の方が、ポジティブな感情が高まっていたのです。

BLUE GIANT SUPREME(7)- 石塚真一

かっこいいコマ割り

「若気の至りってヤツだな。」
「そうさ、上手く行きっこないのに先回りしちまう。ステージの3人もアレと同じさ」
「でもだ、若々しくて良かった。」

暖かく 盛大な 拍手を


ナイスロゴ

バンドを組んで依頼、ずっと、いつだって大事な時さ。

歌うクジラ 下 – 村上龍

じつは発刊されたばかりの頃に上下巻を揃えて買ったのだが、当時の僕は上巻のかなり前半部分で挫折していた。他の村上龍作品に比べると読み進めるのが大変だったが、見城氏と坂本龍一氏との番組か何かで、「歌うクジラの主人公は旅を続ける中で成長を続ける」と自分の作品に当然のことながら愛着があり、それを語っているのを見て、もう一度読んでみようと思った。

ボノボやナマケモノの話しは面白く、興味深い。人間よりもボノボの方が成功した進化かもしれない。

今の世が進んでいくとどんな未来が待っているのか?

遺伝子生物学をはじめとする科学技術の発展と徹底した合理主義、それに無知の克服によって世界各国も世界全体も棲み分けというシステムを完成させた。中でも日本がもっとも早かった。他の追随を許さないほどの早さだった。

内乱で荒廃した中で多くの民が日本こそが世界でもっとも優れていて先端的な国だと誰もが思いたがっていて、わたしはそういった連中を軽蔑しつつ作品を書き続けた。

権力者たちは倒錯した快楽と倒錯していない快楽をむさぼりながら倫理と堕落について突っ込んだ研究をしているのだと弁明をしたが、案外事実だったのかも知れないと今はそう思うのだ。なぜかと言えばわたしも同じ理由で幼児の無垢な肉体を愛するようになってしまったからだ。いったい誰g、幼児や子どもとセックスしてはいけないと決めたのだろうという疑問は正当で本質的なものだった。

そういう状況が数世代続いて幸福な無知が中下層に浸透し定着した。

そうだ、そうやって、わたしの言うことを聞いてくれ。うなずいたわけだから、わたしの声は聞こえているはずだから、聞いてくれ。恐怖に襲われたら、自分の外側に、変わらずに世界があることを確かめないとダメだ。

口にはめているあの器具は顔を醜くするためのものじゃなくて笑えなくするためのもので、人間は笑うことで恥ずかしさから逃れようとするから笑えなくすれば恥ずかしさが皮膚の表面まで自然に浮き上がってくるのよ。

想像せよ。

約束というのは、父親のデータベースによると、誰かに対してやると宣言した行為は必ずその通りに行うという意味だった。

ボノボの社会には子殺しがない。ときおり大きく頷きながら進む無限軌道車の中で、音声信号は続いている。動物回帰を目指す人々が、ボノボを選んだ理由として重要だったのは子殺しがないことだった。ボノボ社会には父親という概念がない。子供の父親が明らかでない場合、子殺しには自分の子供を殺すリスクがあるから、ボノボの社会では子殺しが起きない。他のいくつかの霊長類と同じく、ボノボは離合集散型の母系社会を作るが、チンパンジーと比べてもオスとメスの体格差が小さい。ボノボの社会では、弱いメスに優位性がある。チンパンジーでは、棒を使って蜜蜂を取るとき、強いオスが非常に攻撃的な仕草を示し、最初に独り占めしたあとメスたちに分配する。ボノボは、まずメスが、相互に尻と性器をこすり合わせるような、ホカホカと呼ばれる性的接触をしたあとで獲得した蜜蜂を順番に分ける。争奪の競争や衝突は起こらない。食物分配の主導権はメスが持っている。オスには余剰分が最後に分配される。ボノボはメス同士のつながりが重視され、オスの順位は体格や格闘能力ではなく母親の序列が影響する。生息地がサバンナではなく食料が豊富な熱帯雨林であることが、そういった特徴を生んだと考えられる。食料の枯渇の予測がない社会では、メスは強いオスに従う必要がなく、メスどうしの競争がなくなる。群れ内部の緊張は性的接触で緩和されるが、多様な性行動は社会生活の中に完全に組み入れられ、挨拶として一般化されている。

上層と最上層の人々は、幸福感は相対的なものだと思い知ることになった。不安や不自由のない快適な生活に突然もたらされる幼児への強姦や残虐な殺人は、人間という種が攻撃性という根源的な欠陥を持つことの証明だという悲観論が広がりだした。

摘便や痰吸入などもロボットはミスをしないから事故はめったに起きないから死ぬ人は非常に少ないの。完全なケアが実現されてしまったので、理想村の住人以外でも、生への執着がなくなってしまったの。ここに入れば、一人で立って歩いたり食事したり琲世する必要もないし、起き上がる必要もないし、会話をする必要もないでしょう?

最上層の人々はあちこちに点在して暮らしているけど、わたしたちにダイナミズムはもうなくなったということ。理想社会が実現したらエネルギーが失われることを誰も予想していなかったということ。

アキラ、君とずっと性行為をしていたいのか、抱き合っていたいのか、手を握っていたいのか、話したいのか、わたしは考えるけど、そういうことではないのだとすぐに気づく。全部違う。どんなことをしても、続けるうちに飽きるに決まっているし、興奮物質が涸れると性的行為は苦痛になる。つまり、離ればなれになるのがいやだからと、あなたを切り刻んでミイラにして保存しても意味がない。つまり、わたしはあるとき、気がついたの。取り戻せない時間と、永遠には共存し合えない他者という、支配も制御もできないものがこの世に少なくとも二つあることを、長い長い自分の人生で繰り返し確認しているだけなのだって、わたしは気づいたの。

絶対に別れたくない人とは、あっさりと別れたほうがいいのよ、とぼくを座席から立ち上がらせた。

無重力状態では視力が向上することが確かめられているのだ。重力があるところでは眼球はやや押しつぶされた状態となり網膜上の焦点がややずれてしまう。

ナマケモノという動物はそれまで生物進化の出来損ないであると考えられてきた。ジャガーなどの捕食者から簡単に食べられてしまい、食物連鎖の下部に位置する劣等な生き物だとされてきた。ナマケモノという動物は、筋肉の量が少ない。他の動物の半分以下の筋肉しか持っていない。そのために動作が異様に遅く、特に地面を這うときの気味の悪い動きは悪夢のようだと忌み嫌われてきた。だが少ない筋肉は体重を軽くし、ジャガーなどの点滴が登れない細い木を住処とすることができるという利点にもなっている。ナマケモノは脳の容量も小さく、知性とは縁もゆかりもないと考えられてきたが、研究家は二十一世紀の初頭にすでに、ナマケモノが捕食されるという多大なリスクを負って住処である樹木の根元まで下りていって排便する理由を解き明かし、それが住処である樹木への養分の補給であると結論づけた。ナマケモノは、養分の貧弱な熱帯雨林の土壌を豊かにし、住処であり、しかも食料の木の葉を提供する樹木と共生関係にあり、さらにその体毛の隙間には無数の節足動物の生息を許していて、百匹を超える蛾、千匹以上の甲虫、そして数万匹のダニを飼っているのだ。

発情期を有する動物のメスは、発情期以外では生殖行為はしない。わたしたちヒトが発情期を失った理由と経緯は結局のところ想像するしかないが、その結果は明らかだ。発情期を失った人類は性行為の自由を手に入れ生殖を効率化したが、副作用として性的な禁忌を、分泌と代謝という化学的反応ではなく、家族から国家までの社会的な学習に頼ることになった。前世紀には全世界的にゲイの権利が確立されたが、それ以前は社会的禁忌だった。脳内にゲイを巡る代謝物があって、それが前世紀に発現し、ゲイが増え容認されるようになったわけではない。単に社会的禁忌が崩れたのだ。

幼児への性行為を禁じたり容認したりするホルモンがわたしたちにあるわけではないのだ。家族から国家に至る大小の社会が、幼児への性行為を禁忌とする教育と学習を行っていいたのだ。ある性的な犯罪者が告白した。二十世紀中葉、敗戦国である日本が戦勝国に裁かれた裁判で、ある被告が頭をおかしくして、前に座っている別の坊主頭の被告の頭を叩いたのだそうだ。その記録映像を見たその犯罪者は、理由なく他人の頭を叩くだけで一線を越えて発狂するのだと知った。ほんのわずかな動作で、人間は一線を越えあらゆる禁忌事項を実行することができるとその犯罪者は知った。前に座っている他人の頭を裁判中に叩いてはいけないときと、叩いてもいたずらとして許されるときの区別こそが、社会性だ。残念なことに、社会性はひどくもろい。簡単に壊れ、その瞬間にモンスターが生まれる。

だが発情のメカニズムは動物の種類によって当然大きく、また微妙に異なるもので、たとえばチータというサバンナに生息するネコ科の動物だが、数え切れない数の王侯貴族たちがその優美な肢体と驚異的なスピードに見せられ、つがいで捕獲し交配を試みたが成功しなかった。メスが発情しなかったのだ。その後の生態学的研究で明らかになったチータの発情のメカニズムは、オスがメスを追って二百キロ四方の草原を三日三晩走り続けたあと支配下に置いたときに、メスが性中枢を刺激するホルモンを分泌するというものだった。

そして偉大な発明が続いた。最初の人工臓器である入れ歯と体温計と光学顕微鏡だ。原始時代において歯がなくなるのは死期が近いことを意味したが、入れ歯がその伝統を変えてしまった。体温計が病という概念を浸透させ治療が祈祷が薬と手術に変わった。次に電子顕微鏡の発明によって遺伝子が発見されて平均寿命はさらに数十年長くなり、宇宙空間の無重力を利用することでさらに数十年延びた。

家族や仲間とともに食事をすることで幸福感を覚えるのは人類だけだ。わたしたちは、誰かと、ともに生きる動物になってしまった。しかも生への執着があるから、他者が生きのびるためになにか自分にできることがあればそれが喜びになるように、数百万年というおそろしく長い時間を使って、社会的にセットされてしまった。

日本のグラフィック100年 – 山形季央

画集のように広告を眺めていくのにページを割いているが、中に佐藤可士和氏や原研哉氏などが語るところがあり、それも読み応えがある。

この本にも前の日本デザイン史にも河北秀也氏の名前ともちろんiichikoとが掲載されている。
http://book.masatoshigoto.asia/2019-mar-02/

右から左へ文字が並べられた日本語を見ると、郷愁というか懐古的というかセンチメンタルな気持ちを覚える。
アラビア語やヘブライ語が右から並べられていても、どちらから読めばいいのかも分からない。
和服と洋服の女性が一緒にいて、男の子の格好も一丁前。

銀座三越 1930 杉浦非水

資生堂は医療品から化粧品に事業転換したのだそうだ。

1964年東京オリンピックのピクトグラム、アール・デコ、横尾忠則、パルコ、バザールでござーる、hungry? カップヌードル、NO MUSIC,NO LIFE – TOWER RECORDS、STEP WAGON、そうだ京都、行こう。、POPEYE、BRUTUS、ぴあ。

いいちこのポスターにまた、すごいのを見つけた。
どこかの丘の上にある石造りの家。この家は元々あった巨大な岩と人工的に積み上げた石を一緒にしている風変わりなつくり。空は薄曇りで、青空ものぞいている。一面に広がる枯れた芝生から、顔をのぞかせているゴツゴツとした岩のひとつの上にいいちこのボトル。石造りの家の煙突の上部分に、煙の様に「iichiko」の文字。

FACTFULNESS – ハンス・ロスリング (著), オーラ・ロスリング (著), アンナ・ロスリング・ロンランド (著), 上杉 周作 (翻訳), 関 美和

アベプラで見て。
世の中は暗いことだけじゃあないという知らなかった事実を知った。同時に狭い自分の周りだけを見た時には、家族のことなど不安な要素は皆にある。もちろんそんなもののことだけを考えていても仕方だないが、見ないわけにもいかない。
しかし、少し明るい方向に考えを向けられるようになる材料が手に入ったのだから、良かったのは間違いない。

日本デザイン史 – 森山明子

体系的に書かれたデザインについての書籍ははじめてだったので、興味を持って読んだ。


三渓園聴秋閣階段 江戸時代前期重要文化財 撮影:恒成一訓 『茶室大観Ⅱ』より

もっとも印象に残ったのがこの階段。

直線的な構成を旨とする建物の世界で屋根以外の部分に積極的な意匠として曲線が意識されるようになるのは、鎌倉の禅宗様の導入以後のことだが、それが風雅のデザインとして取り上げられるのは、やはりこの時代である。佐久間将監の作として伝える聴秋閣の階上の楼へ導く階段は、曲によって階段下の高さを確保する洒脱なもので、まさにそうした時代の象徴とも言うべき処理を見せている。

意匠による見た目の美しさがあり、階段の下側のスペースが広くなるというつくり。ものすごくシンプルに造形美と機能美が実現されている。脱帽。

พระราชพิธี ๑๒ เดือน ปฏิทินชีวิตของชาวสยามประเทศ

BACCを訪れ、お目当ての展示はやっていなかったが中の書店で見つけた店内壁画を進めるのにアイデアを得られた内容。
館内にはルノアールの絵画を実写のコラージュで再現している作品があって、影や光など緻密にやっているんでないが、面白くて目を引いた。

正直不動産 (4) – 大谷 アキラ

漫画家の画力はすごいなあ。当たり前だが上手。
ソンクラン休み前までに仕上げる予定の壁画があるので、いつもの仕事を夜遅くまでやるんじゃなくて、デッサンをやらなくてはいけない。ということで、昨晩はラムのボトルを描いた。悪くない。続けること。

河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也

バンコクのあるスクールのグラフィック・デザインコースで使うカリキュラムとスライドをつくらせてもらうことになった。デザイナーを目指す若き人達にきちんとしたものを残したくて、まずはこの本を読み返した。

これは私のバイブルでデザイナーになって間もない頃にこの本を読んで、感動したし、デザイナーと言う職業により強く憧れたし、自分は向いていると思った。

今回で5,6度目くらいになるのだが、読んでみると根源的な問いの部分を考えることになった。

「えっ、あるよ。二人とも業界のはぐれモノというのが共通点だよ」と長沢氏。ところが、このはぐれモノが、生物学上では大変重要なポジションにあるのをご存知だろうか。動物の種が絶滅せずに営々と続いてこれたのは、じつははぐれモノのおかげなのである。群をなして生活する動物にも、必ずはぐれモノがいて一匹離れてフラフラしている。当然、敵が襲ってくるとまっさきにやられる。はぐれモノは「ギャー」と悲鳴をあげる。その悲鳴を聞いて、群は一斉に逃げる。はぐれモノは、哀れにも犠牲となって群を守るのである。その二、群にとって最も大切な物は食料である。しかし、時として食料も枯渇することがある。群には死が待っている。だが、ここでもはぐれモノが、またまた群を助ける。いつもフラフラしているから、意外な場所で食料をみつける。そして、「ここにあるぞ」と叫んで群を案内するのである。もし、動物が整然と群だけで生活し、このようなはぐれモノが存在しなかったら。とうの昔に動物は滅んでいただろうといわれている。さて、二人のはぐれモノはこの世界を救えるか。

[人間は、居間でも原始的混沌状況にあるのではないか、つまり、人間はチンパンジーにもピグミーチンパンジーにもなれなかった種ではないか」と話されてニヤリとさせられた。人間は類人猿の原型から進化した、というのが定説である。オランウータンやチンパンジー、ピグミーチンパンジーなど類人猿も、その原型からから進化している。自然の中で調和を保ちながら平和に生活をしているチンパンジーなどの類人猿を詳細に研究していると人間のおろかさがよく見えてくるのだろう、と思う。

「リモデル」すれば「利も出る」

日本の車の広告は派手である。パリの街中でダンスを踊ったり、アウトバーンを軽自動車が疾走して高級車を追い抜いたり、ブローニュの森を幻想的に走ったりするテレビコマーシャルがある。別にこれらの車は、ヨーロッパの人たちに日本車を売ろうと思って、ヨーロッパでオンエアするために作られたものではない。日本人に車を買ってもらいたいがために、日本でオンエアするテレビ・コマーシャルである。

「見る」とはいったいどういうことだろうか。あまりにもあたり前すぎて考えたこともないかもしれない。たとえば、カエルは、モノの大小しか見ることができない。大きな物体が横切ると敵だと思って逃げる。小さなモノはエサだと思って、ゴミでも食べてしまう。カエルは、敵かエサかを見分けるためだけに、目がある。

この先、話が盛り上がっていく。はじめてこの文を読んだ時、ベッドの上にうつ伏せになっていたのが、ここを読んでベットから起き上がり[こんな風に考える人がいるんだ」と興奮した。デザイナー以外でも、きっと楽しめる本だと思うから、ぜひ読んでみて欲しい(バンコクにいる人であれば貸してあげられます)。

同じ機種のカメラで、同じレンズを使って同じ位置に立って、同じものを、同じフィルムを使って、複数のカメラマンが撮影したら、すべて同じ写真になるだろうか。
日本語の写真という言葉は、真実を写すという意味だが、多分これは絵画表現を意識して作られたのではないかと思う。絵で人物を描けば、絵描きの実力や用具や絵画によって微妙に描かれる人も変わるわけだが、写真は絵画よりも本物に近い。何といったって写真なのだから。しかし、すでに私達は写真と実際とのずれをなんとなく知っている。<中略>
ところが、一個人の能力や感覚によって切り取られた絵画やテレビの映像や写真はどうだろうか。もう、何も言う必要はないだろう。冒頭に問題を投げかけた。同じ条件で同じものを何人かのカメラマンが撮った場合、決して同じ写真にはならないのである。そのカメラマンの全人格全人間性以上のものは決して写らないのである。「ちょっと待ってくれよ」という人がいるかもしれない。「しろうとだって、オートフォーカスのコンパクト・カメラで結構写るし、ほかの人と比べて、大差ないよ」と思うかもしれない。
この写真の話は、しろうとの話ではない。一流と言われているカメラマンが撮った場合の話である。写真を自己表現として、プロとして生涯の仕事に選んだ人の話である。彼らは対象を真剣に撮ろうとすればするほど、自分自身が露出するのである。他のカメラマンより、気持ちだけ対象物に迫ったり、あるいは気後れして引いたり、何十分の一、何百分の一のシャッタースピードの中で微妙に、シャッターを押す。切り取る瞬間がことなるのである。
そうして出来上がってきた写真を見ると、カメラマンの、作品や本人を知っていればいるほど、サインがなくても誰の写真であるかが分かる。

デザインという概念を、うまく方法論として取り入れていったのが広告である。自社のモノを売る、という最終目的のためにマスコミ、美術、音楽、文学、科学などを調整し、プランが練り上げられ、テレビ・コマーシャルや新聞広告や雑誌広告などの具体的な広告物として仕上げられる。また、これらの目に見える広告活動と並行して、こまからマーケティング活動や販売促進活動が行われる。
このことは、広告がデザインを取り込んでいったというよりは、マーケティング全体がデザインの調整機能を、経済という面から捉えなおし、応用していったといってよいだろう。「人間の幸せ」という漠然とした曖昧な目的より、「自社のモノを売る」というはっきりとした目的の方が理論を構築するのは容易であり、実践方法を探るのもたやすい。
しかし、マーケティング理論がデザイン概念の応用で成り立っている限り、デザインの持つ方向性、つまり人間の幸せという目的をはずすことはできない。次々に商品が登場し、次々に新手の広告を作らなければ通用しない、というポイントはじつはここにある。短期的には人の心を揺さぶっても、それがデザインという全体性の中でつくられたものではないから、長期的には受け入れられないのである。

三十センチメートル以内に顔を近づける。手をにぎる。できる限りいっしょに話をする。簡単なことだが、私は家庭で、大きくなった子供や、だんだんと歳をとってきた妻にこの三つのことを実行しているかといわれれば、皆無に近い。自殺を企てる人は、こういった人間と人間との暖かいふれあいに極端に飢えていた人であろう。それが、この三つの誰にでもすぐにできることで救われるのである。

人間の幸せという大きな目的のもとに、創造力、構想力を駆使して、私達の周囲に働きかけ、様々な関係を調整する行為が「デザイン」ということである、と主旨をかかげ、小学生、中学生、高校生に街や学校や家や環境そのものに対するデザインを募集したものである。

佐藤可士和の打ち合わせ – 佐藤可士和

KADOKAWA Animation & Design Schoolのグラフィックデザイン基礎コースのカリキュラムと授業に使うスライドづくりを担当することになり、デザインについて改めて考えている。積み上げられたダンボールの中からデザイン関係の本を引っ張り出して読んでみている。

この本は、いつもの古本屋でたまたま見つけたもの。打ち合わせもデザインを進める上で大切な時間で、うなずけるもの、勉強になったものとあった。

その打ち合わせによって、プロジェクトなり、テーマなりが、少しでも前に進む、ということです。

打ち合わせに出るときは、クリエイティブな仕事をするんだ、何かをみんなで一緒に作り上げるんだ、という意識を持って臨む必要があります。

一度打ち合わせをすれば、相手の仕事のレベルはすぐにわかってしまう

確かに。他人のこともそうだが、自身の仕事のレベルが上がっていくと、打ち合わせのレベルも上がっていることを実感する。

「もしかしてこれかもしれない」と思ったことを口にすることによおって、抽象的な意識や概念は具体化していきます。たとえ間違っていたとしても、同じようなことを考え、似たようなことを繰り返すことによって、だんだんと思考の輪郭がはっきりしてくる。

しゃべることは自分のイメージを言語化する訓練になる。

NOと言うなら、どんな立場であれ代案を
打ち合わせの出席者は、善意で行動しなければいけません。

目的のない打ち合わせは、ゴールのないマラソン

「やっぱり真面目な感じがいいよね」とか「もっとラディカルで、エッジが利いたものにしたほうがいいかも」といったような「イメージ」を吐き出していく。これは、アイデアというものではありません。方向だったり、感触だったり、といったイメージなのです。

アイデアという言葉はよく出るが、イメージというのは良い。言語化することで、やっていることが明確になった。

よくあるのが「そんな感じで」「とりあえず、この方向で」といった、わかったようでよくわからない言葉で結論がつくられてしまうことです。
「感じ」や「方向」では、まったく共有がなされていないと思ったほうがいいでしょう。<中略>「感じ」や「方向」で終わらせないためにも、僕が繰り返すのが、「これでいいですか」「これでいいですよね」という言葉です。

「こんな仕事をしてくれ」と、ただ言うのではなく、「世界に出ていくような仕事をしよう」「日本中をびっくりさせよう」といった言葉を使います。

「サムライ」では、仕事のスキルを大きく二つに分けています。<中略>ひとつはクリエイティビティです。とにかく、理屈抜きで人の心を動かす魅力的なデザインができるか。新しいアイデアが考えられるか。ひらめきや感性はあるか。

そしてもうひとつが、ビジネススキルです。クリエイティビティだけでは、仕事はできません。あくまで、ビジネスの現場で仕事をさせてもらっているからです。

音楽 – 三島由紀夫

これまでに三島由紀夫を何冊か読んだが、私が好きなのは「午後の曳航」「金閣寺」それとこの「音楽」。「潮騒」や「仮面の告白」はいまひとつであった。「豊饒の海」はワット・アルンが出てくるはずなので、ぜひ読んでみたいと思って1〜4巻まではそろっているのだが、まだ手が出せていない。

この「音楽」は20代の頃に一度読んでいて、男性器を角に持った牛が出てくる所に、当時ポコチンの絵をよく描いていた私は、小説の中でこんなことをやっていいのか、そうだよな、いいんだよなと勇気を与えられた。

男性器の角を持つ牛

不真面目な比喩かもしれないが、この瞬間の彼女は、ちらと狐であることを見破られた美女という趣があった。

「牛が駆け出して来たんです。恐ろしい勢いで、土埃をもうもうと上げて、まっしぐらに私に向かって突進してくるんです。その二本の角が…いいえ、角ではなくて、もっといやらしい形をして…そうなんです。角じゃないんです。それが二本とも、人間の男のものの形なんです。

山内明美は、しかしこの問題に、多少はしたない興味を示した。

「この女がキ印だと知ったら、抱いてる彼はどんな気がするでしょう」

女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかはほとんど役に立たないと言っていい。

そんな考えははじめて芽生えた考えであったが、これまで、私の独身生活を理解を以て支えてくれるこの女に、私は内心どんなに感謝していたか知れないのである。

一歩このホテルに入って、一室に通されると、とたんに明美は彼女のいわゆる「おままごと」をはじめる。人目を憚る心配もなく小まめに私の世話を焼き、上着を脱げばハンガーにかけてくれる、煙草をくわえればすぐ火をつけてくれる、風呂の湯加減も見てくれる、至れりつくせりの家庭的な女になるのである。こういう場合に家庭的な女になり切る女が、いざ実際に家庭に入ると、ふんぞり返った怠け者に変貌する例は数多い。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺が、実は誤訳であって、原典のローマ詩人ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」という願望の意を秘めたものであることは、まことに意味が深いと言わねばならない。

「アメリカで精神分析がはやっている理由がよくわかりますね。それはつまり、多様で豊富な人間性を限局して、迷える羊を一匹一匹連れ戻して、劃一主義(コンフォーミズム)の檻の中へ入れてやるための、俗人の欲求におもねった流行なんですね。精神分析のおかげで『治った』人間は、日曜ごとに教会へ行くようになるでしょうし、向こう三軒両隣りの退屈なカクテル・パーティーへ大人しく顔を出すようになり、女房のお使いにスーパー・マーケットへ喜んで行くようになるでしょう。そして通りかかる知人に方を叩かれて、明るい微笑で、
『よかったね、治って。今は君はわれわれの本当の仲間だ』
と言われるようになるんですね。

夜の町の賑わい、愛の言葉や喧嘩口論、ネオン・サイン、狂おしいダンスのサーフィン、路ばたの一寸した目じらせ、街娼、金を持たない若者たちの貧しいポケット、夜かけるサン・グラス、ロード・ショウ映画の最終回、早くから閉める宝石店のからっぽのビロードの台座を並べた飾り窓、夜道の自動車のしめやかな軋り、地下鉄工事のひびき…

星の王子さま – サン=テグジュペリ

子供の頃に手にとったのか、学校か親に読まされたのか定かでないが、すぐに挫折したように覚えている。
しかし聖書の次に読まれている本らしく、まあ世界中で有名ということで、目にすることがあったのか、改めて読んでみようというわけで、ページをめくってみたが、いい本。誰もが知っているあの表紙もかわいい。

心があたたまるし、しっかりと自分や他人と対話を続けなければならないと思う。

そうしてその天文学者は、国際天文学会議で、自分の発見についてりっぱな発表をおこなった。ところがそのときの服装のせいで、誰も信じてくれなかったのだ。おとなってそんなものだ。

「ぼく、まっ赤な顔のおじさんがいる星に、行ったことがある。おじさんは、一度も花の香りをかいだことがなかった。星をみたこともなかった。誰も愛したことがなかった。たし算以外は、なにもしたことがなかった。一日じゅう、きみみたいにくり返してた。『大事なことで忙しい! 私は有能な人間だから!』そうしてふんぞり返ってた。でもそんなのは人間じゃない。キノコだ!」

人はしゃれたことを言おうとすると、ついうそが混じってしまうことがある。

「『なつく』って、どういうこと?」
「ずいぶん忘れられてしまっていることだ」キツネは言った。「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ…」
「絆を結ぶ?」
「そうとも」とキツネ。「きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる…」

「なつかせたもの、絆を結んだものしか、ほんとうに知ることはできないよ」キツネが言った。「人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でもだちを売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友達がいない。きみも友だちがほしいなら、ぼくをなつかせて!」
「どうすればいいの?」王子さまは聞いた。
「がまん強くなることだ」キツネは答えた。「はじめは、ぼくからちょっとだけ離れて、こんなふうに、草のなかにすわるんだ。ぼくは横目でちらっときみを見るだけだし、きみもなにも言わない。ことばは誤解のもとだから。でも、日ごとにきみは、少しずつ近くにすわるようにして…」

「たとえば、きみが夕方の四時に来るなら、ぼくは三時からうれしくなってくる。そこから時間が進めば進むほど、どんどんうれしくなってくる。そうしてとうとう四時になると、もう、そわそわしたり、どきどきしたり。こうして、幸福のアジを知るんだよ! でも、きみが来るのが行きあたりばったりだと、何時に心の準備を始めればいいのか、ちっともわからない…ならわしって、大事なんだ」

「ならわしって、なに?」王子さまが聞いた。
「これも、ずいぶん忘れられてしまっている」キツネが答えた。「ある一日を、ほかの毎日とはちがうものにすること、あるひとときを、ほかの時間とはちがうものにすること。たとえば、ここの猟師たちにはならわしがある。毎週木曜日には、村の娘たちと踊るんだ。だから、木曜日は天国さ! ぼくはブドウ畑まで、のんびり散歩にでかけられる。でももし猟師たちが、行きあたりばったりにしか踊らなかったら、毎日がみんな同じようになって、ぼくは少しも休日(ヴァカンス)が取れなくなっちゃうよ」

ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」
「ぼくが、バラのために費やした時間…]忘れないでいるために、王子さまはくり返した。
「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。「でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きいのバラに、責任がある…」

「人は、自分のいるところにけっして満足できない」鉄道員が言った。

43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層 – 石井 光太

昔からこういった異常な事件に関する本にどういうわけだか惹かれて、何冊も読んでみている。
それは自分も世の中とうまくやれない、はみだしものだからかと思ったりした。まとまって(群れをなして)生きていくのが人間なので、はみだしものが生きづらくなるわけだが、狼は群れをなして行動するが、群れから離れた一匹狼が敵に気づいたり、あらぬ場所から餌をみつけてきたりして群れを生かすこともあるようなので、本当は強く生きて欲しい。

気の良さそうな顔立ち

犯罪とアルコールの関係は深く、「傷害および殺人事件」の四十〜六十パーセント、「強姦事件」の三十〜七十パーセント、「DV事件」の四十〜八十パーセントにアルコールが関係しているという。

二〇一五年に殺人で検挙された未成年(十四歳〜十九歳)の数は、六十二名に上る。この歳が特に多いわけではなく、警察庁の統計によれば、前年が五十五名、翌年が五十一名と、例年四十〜六十名台にもなっている。