山の音 – 川端康成

11月に入るとイラストを描いて、たくさんの人に見てもらえる機会ができた。
ギャラリーで高い金額を支払って展覧会をやって、絵が売れたって半分をギャラリーに持っていかれるような見せ方をするよりも、今のやり方の方がずっと多くの人に見てもらうことができる。

そういうわけで、ここでのイラストはしばしお休み。

岩乗(がんじょう)

頑冥(頑冥)

頑固で考え方が柔軟さを欠き、物事の道理がわからないこと。

はっきり手を出して妻の体に触れるのは、もういびきをとめる時くらいかと、信吾は思うと、底の抜けたようなあわれみを感じた。

頂上の木々のあいだから、星がいくつか透けて見えた。

具合よく

ここでは貞操観念が失われているのではない。男は一人の女性を愛しつづける苦しさと、女が一人の男を愛する苦しさに堪えられず、どちらも楽しく、より長く相手を愛し続け得られるために、相互に愛人以外の男女を探すという手段。つまり互いの中心を堅固にする方法として…。

近頃の娼婦である。背を丸出しにして、布のサンダルをはき、いい体である。

あの野生の娘が一尾の伊勢海老をどう料理して、外人に食わせるのだろうか。

陰った(かげった)

三十幾年後の今、信吾は自分たちの結婚がまちがっていたとはお持っていない。長い結婚生活は必ずしも出発に支配されない。

幸福に見える嫁を好いて、不幸に見える娘をきらうように聞こえた。残酷な悪意を含むかと疑われるほどだ。

菊子は信吾の年齢の心理まで邪推はしない。信吾を警戒もしない。

愛と幻想のファシズム(下)- 村上龍

下巻のかなりはじめの方に思っていたよりもうんとあっけなく、ゼロの言葉が出てきた。5ページ目。
そしてゼロの言葉だと記憶していたが、ゲッペルスの言葉。
また、広告でなく宣伝という言葉を選んで翻訳している意味は何か、この先の疑問とする。

ゲッペルスは、宣伝を次のように定義しています、『どんな種類の宣伝が有効か、また逆に無効かを決定する理論上の公式はない、望んだ結果を生み出す宣伝がよいのであり、それ以外はすべて悪い宣伝である、たとえどれほど魅力があってもである、宣伝の任務は、人を楽しませることではなく、結果を生み出すことにある……』

40ページくらい?、これもかなりはじめの方、クロマニヨンが福島兄弟を襲う辺りから気づくと引き込まれていた。空の浴槽に入って、シャワーから熱い湯を出して、湯をためながら本を読むのが習慣なのだが、気づくともう少しでお湯があふれるところまできていて、村上龍が「半島を出よ」の球場でロケットランチャーを撃つシーンを取り出して、「こういうのを書かせたら俺は得意だから。書けちゃうから。」というようなことを言っていて、半島を出よを書いた時よりももっと若かった村上龍の感じがたまらなく思う。そういう台詞を言うことに少し抵抗を感じてしまいそうになるが、そうではないのだと思う。矢沢永吉も「自分のことをできるんだって言ってやらなきゃダメだよ」と謙虚なのか自身がないのかで「ボクのはたいしたことじゃないけど、なんていうならやめちまえ」と。

たまに「カンブリア宮殿」が面白くて見るのだが、今の村上龍は当たり前だが、年を重ねていて、それは同じだけボクも歳を重ねているのだが、もう今の村上龍にはこういう作品は書けないし、別に書こうとも思わないのだろう。何かというと今、今の自分がやれることを全力で出していくっていう当たり前のことしかやれないんだなと思った。

結局、ゼロが言うゲッペルスの言葉が再確認できてから、どうも気が乗らなくなり、福島兄弟を襲うシーンが終わると読む気がなくなって半分くらいで読むのを止めにした。

狩猟者が数ある政治結社の中でも群を抜いた戦闘部隊を持つことを示しました、組織の結束はより強固になり、支持者も増やすことができたのは、何よりも『クロマニヨン』の攻撃精神だと思うのです。

ゲッペルスは、ヒトラーからベルリンの体管区長に選ばれて、『アタック』という気管支を発行しました。

相互依存は恐ろしい勢いで進んでいた。日本人はそのことに最も無知な民族だった。南の人々、第三世界の人々、アジアの中進国の人々はよく知っていた。彼らは痛めつけられていたからだ。自分たちの怠慢や失敗だけが、不幸の原因ではないのだと、よくわかっていた。

無条件降伏とは何だ? それも、本土決戦もせずに…ナチスドイツはしようがないよ、ベルリンが落ちたんだから、もう戦いようがない、しかし日本は違う、オレは今でもプライドを持てないね、たかが原爆二個で降伏しやがって、米軍は日本上陸に関して米兵の死者を五十万と見ていたというから、どうしてギブアップしたんだ? ベトナムごとき小国が勝った例もあるんだぜ、それほど侵攻作戦は難しいんだ、米軍の戦死予測は正しいと思うよ、それなのに、どうして平気で降伏したの?

愛と幻想のファシズム(上)- 村上龍

小説の中でゼロが言う台詞を確認したくて3度目の愛と幻想のファシズム。
目的の台詞は上巻には出てこず、下巻に持ち越し。
ハードカバーで買うと、装置が横尾忠則氏。

「わたしも一度だけ行ったことがある、旅としては最高だよ、北極海を見るんだ、きっと何かを感じるよ」

チャイコフスキーのバイオリンコンチェルト

罠師アルバート・ジョンソン

実在の人物のよう

樵(きこり)

この男はおそらく未熟児で生まれたに違いないと俺は思った。未熟児が生き残るのは動物園の動物か人間だけだ。飼い猫でさえ未熟児には授乳しない。

これは俺の経験から来てるんだけど、すごい奴っていうのはそいつに何か例えば才能みたいのがべたっとくっついているんんじゃなくて、何か欠けてる場合の方が多いんだ。

映画が失敗してからカナダから帰るまでゼロとフルーツは音信が途絶えたままだった。相手も寂しかったのだとわかって、フルーツは嬉しかったのだろう。

完全失業率が4.5%を越えたことを示すように

労働力人口(15歳以上の働く意欲のある人)のうち、完全失業者(職がなく、求職活動をしている人)が占める割合。
2020年4月 日本 2.6% アメリカ 14.7%
2020年5月 タイ 9.6%
今のタイは、この物語で描かれている日本よりも数字は悪い。タイの場合は、田舎では飯が食えてしまうのだろうか。だとすると職についていなくてもひょっとすると幸福に暮らしていくことができるのかもしれない。

誰でも幸福になることはできる、だが貧乏人には快楽はない、民主主義の世の中でもそれは同じなのに、今の貧乏人は幸福だけでは足らないみたいで快楽を得ようとしている、そんなもの絶対手に入りっこないのにな…。

麝香(じゃこう)

男達は共同で獲物を追い、女達は子供を育てながらその帰りを待っている、生活がそのままよろこびとなるような社会だ、

人間は、いやなことをやっていくと、必ず病気になって、生きのびることができないようなからだの仕組みになってるんだ

だがこの頃すでに俺とゼロは時田史郎を逆に利用し続けるための話し合いをたびたび持った。将来面倒なことになるような契約は交わさないといった程度のものだったが、

自殺なんかした奴のことっは忘れた方がいいぞ

山岸良治が話の途中で俺から視線をそらすのは、照れだ。

経営者の特質は白痴性と情緒的なことだ、といつかゼロは言った。

ボクは若い頃白痴性を持っていて、情緒的だったが、今はそうではなくなったと思っている。ゼロのいう経営者の特質は持っていないかもしれない。

繰り返すが

大切なことは繰り返そう。

テロル

暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇 (いかく) すること。恐怖政治。テロ。

科学的で、単純なものでなければならない

恐怖に勝てるのは興奮だけなんだよ

トウジ、いいか? 今の父系社会っていうのは本当はすごく不自然なんだ、母系社会の方が自然なんだよ、

タイの一般層は母系社会に見えるよな。政治家なんかは別だけど、インラックって女性首相はいたな。タクシンの娘だから操り人形なのか何かしらないけど。

母系社会っていうのは生まれてくる子供の父親が誰だかわからない社会だろ?

奢侈品

しゃしひん – 必需品以外の物。ぜいたく品。

だまされてこき使われるためだけに生きてる奴がいっぱいいる、そいつらに邪魔されずに生きなきゃだめだってね

「裏切るってのはどういうことかな」
「価値観とか態度を兵器で変えてしまうんだ」
「誰だって変える時はあるよ」

いいか? 好き嫌いってのは一番大事なんだ、それはもう理屈じゃない、カレーライスが好きだっていうのもバーボンが好きだっていうのも、絶対に説明がつかないことなんだよ

「人を裏切るのは気分が悪いものだ、そうだよな、誰だって人を裏切るのは嫌いなはずだ、だから嫌いなことを普段やっていないやつ、つまり奴隷じゃない奴は、とりあえず信頼できるんだ」

威す

おどす

飢えは、それが強烈であればあるだけ、僅かでも充たされると喜びに変わる。そういう人間は他人と契約で付き合おうとするから確かに経営者に向いているかも知れない。だがその程度では経営する企業を巨大にすることは出来ない。巨大企業の経営者はすべてに恵まれていなくてはいけない。リスクを負ってはいけない。

男の容量を決定するのは、その二つだ。情報と、快楽。

金持ちはケンカをしない。ゆう然と見ているだけだ。

完璧だよ、みんなプライドを持ってる、プライドを持った人間は強いよ、まあ、うまいものも時々食わせてるしさ、女は厳禁だけどね、

努力して手に入れるものに価値があるというのは、芸術家とスポーツ選手にだけ言えることで、貧乏人には当てはまらない、嘘なんだ

山岸良治は俺と同じで、人間の集中力・闘争心も地球の資源も、有限なのだと知っている世代なのだ。

小綬鳥 

こじゅけい

契約だ、相互依存のシステムを作っておけば、侵略は起きない、政治のい・ろ・は、だよ、

話し合いにおいては情報の多い方が勝つとは限らない。だが使い方を心得ていれば、情報の多い方が圧倒的に有利だ。

いや、予算案とASEAN会議で忙しくて、下らないんだが、これが仕事でね、

アストラカン

アストラハン地方に産するカラクール種の子羊の毛皮。 柔らかい巻き毛が特徴。 また,それに似せてつくった毛長のパイル織物。

クロポトキン

ピョートル・クロポトキン

身近な人間が死ぬのは悲しいことだが、物理的に灰になってしまえば忘れることができる、発狂者は生き続けるからな、忘れれないんだ、こんなに悲しくて憂鬱なことはない…。

認知症の親と近いものがある。

ロボトミー

英語から翻訳-ロボトミー、またはロイコトミーは、精神外科の一種であり、脳の前頭前皮質の接続を切断することを含む精神障害の神経外科的治療です。脳の前頭葉の前部である前頭前皮質との接続のほとんどは切断されています。 ウィキペディア(英語)

すごい事件が。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロボトミー殺人事件

ジョナス・メカス、ケネス・アンガー

俺達はすべての不安をとり除いてやり、人格を認めてやり、必要な存在なのだとおだてあげ、仲間として共有した甘美な過去を思い出させてから、発狂させた。精神的拷問の常套手段だ。

「男と女って、尊敬し合うものなのか?」

オショロコマ

お箸以外は持ったことないいうのは、成金の子供だけだわ、本当の財閥は、ちゃんと生きていけるようにしっかり教育するのよ」

天才的な宣伝家がいなければ権力は固まらず、維持できない、あんたにはゲッペルスが必要だ、いるか?

目の前に浮いているくそみたいにふやけたオレンジを食え、

骨髄を吸った

ラップ人

MISSING 失われているもの – 村上龍

村上龍の新刊。
いきなり余談だが装丁のデザインも自身で手掛けたようで、とりわけかっこいいというものでもないけれども、失礼な言い方かもしれないが、高齢になっても自分で挑戦する姿勢は見ていて気持ちが良いしこの先の自分の糧にしたい。

これまで多くの村上龍作品を読んできたが、少しこれまでとは違うもので、読みはじめると、非現実的な世界のことが書かれていて、まるで村上春樹っぽいなと思わされた。ボクは村上龍に限らず現実的に書かれているものが好きなので、読むのに時間がかかった。

自身の幼少期の体験から、自分を分析するような内容がずっと続く。途中のツミキをいじる辺りは、コインロッカー・ベイビーズで弟の方が確か触っていたのと同じだよなあ。

表現というのは、信号や情報を発することじゃない、信号や情報を受けとり、編集して提出することだ。

いつも必ず一人きりだったが、決して寂しそうではなかった。ただし、幸福そうにも見えなかった。幸福ではないが寂しくはない、というような女性を見るのははじめてだった。

女の表情には、幸福な人間を許さないという嫉妬心が見え隠れしていた。

シューベルトの子守唄

わたしは、PC以外ではメールをしない。ほとんど一日中、PCに向かって仕事をしているわけで、わざわざハイエンドの携帯端末などでメールをやる必要がないし、小さなモニタを指先でタップするのは性に合わない。

わたしはどちらかといえば内向的で、非社交的だが、父はそうではなく、小さいころから、その孤独癖を何とかしろとか、他人と関係をするのを恐れるなとか、そんなことを言われ続けた。

かしこ

何か、こう、頭の中に、ときどきたくさんライトがですね、いや、ライトは、野球の、外野のライトじゃなくて、明かりのことですが、

村上龍のこういうユーモアが大好きだが、今回はほとんど見られなかった。

「困っている人を助けると、いつか自分も助けられる」
母親はそんなことを言ったが、説得力があった。

生後三ヶ月くらいまでの乳児が見ているのは、制御されていない自己像と世界像であり、それらはまるで密教の曼荼羅とか、ボッシュという画家が描く世界に似ているらしい。混乱に充ちているというより、混乱だけで成立している世界だが、乳児は、そこからでることを拒む場合がある。そして、そとに向かって知覚を拡大するきっかけになるのは、美しいと感じる本能、つまり黄金比などの獲得による。たとえば福笑いで、ばらばらの顔を見ると嫌悪を示し、鼻や目が整理されると微笑むようになるのは、生後三ヶ月を過ぎてからだということだった。

最近はハナの子供やケンタロウの子供などのこともあるのか、コロナで実家で足止めを食っているとはいえ、一人でいる感覚にあることが長いからなのか、子供が欲しいという思いに包まれることがある。

挑戦まで手紙が届きますかと聞くと、郵便局の職員は、わからんね、と素っ気なかった。でも、一ヶ月ほど経ったころ、信じられないことに、在籍証明が着いた。京城女子師範の職員もおそらく戦後の混乱で散り散りになっていたはずなのに、いったい誰が事務手続きをしてくれたのだろうと、不思議な気持ちになり、配線の日、朝鮮人の暴徒が押し寄せてから、あらゆることに悲観的になっていたが、真っ黒な空に小さな光が見えたような、何か暖かいものを感じた。

永遠に続く楽しみや喜びなどない、わたしはそんなことを理解したような気がする。

「身だしなみに気をつけること」

ペスト – カミュ

「今日、ママンが死んだ」の異邦人を読んで、ペストと転落もバンコクの本棚でなかなか読むことにはならずに長く積読していたが、このロックダウンで売れている本に入っているということで、日本で新しく購入。

そう言えば、異邦人は映画になっていたのを思い出して、ひょっとするとペストも、と思ってみるとあるみたい。https://en.wikipedia.org/wiki/The_Plague_(1992_film)
残念ながらyoutubeにはない。

ここのところ自社サイトのリニューアルに時間と頭を使っていて、入浴中にやっていた読書もリニューアルまでの残りの作業やどうやって成果に繋げていくかといようなことばかりを考えているので、まったく集中できなかった。本当はそういう風に仕事のことで熱くなった頭をクールダウンさせるために小説を読めると良いと思うのだが、猛烈にとりくんでいるので、そういう余裕がないのかもしれない。

なので、ほとんど小説が残っていない。ウェブサイトはかならず成果に結びつくものにするし、そうなるだろう。

したがって、この町で人々が愛し合うその愛し方を明確に描くことは、かならずしも必要でない。男たちと女たちとは、愛欲の営みと称せられるもののなかで急速に食い尽くし合うか、さもなければ、二人同士のながい習慣のなかにはまり込むかである。この両極の間に、中間というものはそう見かけない。これもまた特異なことではない。オランでも他のところでも、時間と反省がないままにん、人々はそれと知らずに愛し合うことをいかにも余儀なくされているのである。

戦争が勃発すると、人々はいうー「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行はしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。

天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。

よく何か良くないことがあると、「止まない雨はない」というようなことを言う。今回のコロナの件でも何度か聞いたが、「いや、待てよ。そんなこともないよな」という考えがよぎった。止まない雨だってあるし、何かの問題に苦しみその問題が解決されないままに自分の命の方が先に終えることだって世界にはたくさんあるはずだ。だからと言って悲観的に生きろということでは全くないが、なるべく現実に沿って生きていたいと思うということだ。

メランコリック

「憂鬱(ゆううつ)なさま」や「ふさぎ込んでいるさま」を意味する言葉
一時村上龍の本によく出てきたような印象のある言葉。

この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この街の市民に、あたかも個人的感情など持たぬ者のように振る舞うことを余儀なくさせた、といってもいい。

我々が、自分たちは全く妥協の余地のない状態の中にあり、「折れ合う」とか「特典」とか「例外」とか言う言葉は全く意味がなくなっていることを納得するまでには、多くの日数を要したのである。

彼らはこのようにして、何の役にも立たない記憶を抱いて生活すると言う、すべての囚人、すべて流刑者の深刻な苦しみを味わった。

これも言っておかねばならぬが、ベストはすべてのものから、恋愛とさらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛はいくらかの未来を要求するものであり、しかも我々にとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。

ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界2 – 村上龍

2020年4月 世界はコロナにやられている。カミユのペストがやたらと読まれているよう。ボクもバンコクの書架に1冊置いてあるのだが、まだ読めていなく、アマゾンで取り寄せている所。仕方なくというか、これも読みたかったので、村上龍のヒュウガ・ウイルスを。
全体の構成が歌うクジラと似ているようで、こちらは主人公は女性だが、何人かのグループと一緒に行動する中に主人公がいたり、やたらと強い変わり者と会ったり、物足りなかった。

でも、すべてのことを実現できるわけではありません。一番に大切なことを実現して、他はその後です。

「確かに今は食糧は充分ではない、だがそれは恥ではないから隠す必要はない」

北極でもない限りウイルスはどこにでも忍び込む

というのも南極の空気はとてもきれいだから。細菌やウイルスなどが大気に舞っていないので、風邪をひかないといわれているのです。そのため、南極地域観測隊の隊員たちは、南極に向かう前には病原体を持ち込まないよう、風邪はもちろん、虫歯や水虫まで完治させてから出発するそうです。
というのがネットにあったが、南極のことだろうか。
北極や南極ではウイルスが生きられないのかというとそういうことでもないよう。

まず第一にこいつらは、とコウリーは思った。とにかくよく勉強するのだ、他に語学がうまくなる方法はない、第二に、こいつらはキャサリン・コウリーを必要としているわけではない。

疫学

伝染病の流行動態を研究する医学の一分野。また広く、集団中に頻発する疾病の発生を、生活環境との関係から考察する学問。

こういう集団の中では謝ってもしょうがないのだ。

取り扱われる商品はタイガーバームからプロトニウムまでといわれるが、

元気な人間が元気のない人に元気をあげる、これが東洋の価値観でしょう

パイロット語は英語なんだ、フランス人だって管制塔と話す時は英語なんだぞ。

フォード ブロンコ

それは生物学ではなく心理学だ、と言ったとたん交渉が決裂することをコヤマは分かっている。

われわれはできることを一つ一つやっていくだけだ

脳に疲労が溜まると人間は凶暴になり集中を欠く

「ウイルスにも種類があるのか?」
「ある、こいつはフィロウイルスという種類で、エボラやハンタウイルスの仲間だ、細菌などに比べるとウイルスは美しい形をしている、結晶に近い幾何学的な配列だ、正十二面体球体、円錐形、まわりにトゲを持つのもいるし、コロナのような輪を持つのもいる、細菌に感染するウイルスは後ろ脚で立った昆虫のような形をしている

コロナ

フランス人の金持ちは基本的に合衆国やイギリスをバカにするが、子供達には単に必要だからという理由で必ず英語を学ばせる。

運命の恋 恋愛小説傑作アンソロジー

twitterで村上春樹の超短編の物語を紹介している人がいて。その人は文庫で言うと4ページだけの村上春樹の作品だけが綴じらているものを紹介していたが、それはamazonには見つからずに、他の作家の作品が一緒になった短編集。

角田光代と山白朝子と中島京子

山白朝子という方の作品は終盤でいきなりホラーになって驚いた。中島京子という方の作品では、突然トランスジェンダーのお要素が入り込んできて驚いた。

かつて美術大学で油絵を専攻していたそうだが、確かに彼の小説を読むと、鮮やかにその場の光景が頭に浮かんだ。

彼を引き留めたい気もするし、彼の精神の行き着く世界を見てみたい気もしていた。

オーディション – 村上 龍

どんな内容なのか全く知らず、読み始めて、オーディションが終わった辺りから物語はミステリーでもあり、僕の好きな村上龍の破壊描写へとドライブしていき、久しぶりにどんどん読みたいと思わされるもので、本当は経済の勉強をはじめたので、その本も読みたかったのだっが、それは後回しにして一気に読み上げた。

1997年の作品というと、今から22年前。
中には懐石料理やバーでの描写などで、執拗に固有名詞をあげつらうが、何かで見た村上龍本人の話によれば、これによって、よりリアルな表現をしているということなのだろう。例えば「シャンピニオン」という言葉があるが、調べてみればただの「マッシュルーム」のフランス名であり、「シューマン」というのは、ロベルト・シューマンというドイツのクラシックの作曲家で、「バトントゥアラー」というのはバトントワリングというスポーツをする者の呼称で、「トラッテリア」とはイタリア式の大衆レストランのことで、先に挙げた懐石料理は懐石料理でなく「郭料理(くるわりょうり)」で、

映画化もされていた。

だからといって相手の顔を全く見ないで話すとたぶん正確を疑われるだろうと思った。内向的な変態だと思われてしまう。

癌はその代表だが、病気で弱りながら、また苦しみながら死んでいく人間は、残される者に優しいあきらめを用意するために痛みや恐怖と戦うのではないかと、良子に感動し、感謝した記憶が青山にはある。

自警録 – 新渡戸 稲造

居島一平氏の熱量に押されて購入。読んでみるとよくある自己啓発の内容と変わらぬところもあるんじゃないか、などと思いながらも、それらとはまた違う深みが感じられるのは、新渡戸稲造著だからだろうか。

耶蘇教

キリスト教の異名

男一匹たる資格は第一に勇を揮(ふる)うて己れに克つにありと思う。己れに克つものはほかに勝つこともさほど難事でない。

なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉(ほまれ)とするも、女子の働きは内助にある。しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。

なにせ初版あ1982年なので、男女の在り方が2020ではなかなか声を大にして言い難い内容。ただこれが日本人ゆえかと思えば、そのあとにイギリス人であるキングスレーの「Men must work and women must weep.」という詩を引用している。
ようするに現在は、皆様々で、男がどうとか、女がどうとか言うのを忌み嫌う人が居るわけだが、実際のところ、かくいう男性も女性もいるわけで、ある夫婦やカップルを切り取れば、能動的な男性と受け身の女性で助け合って一緒にやっていこう、という者もいるわけで。

すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を紊(みだ)すも恬(てん)として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。

あるよね。しかし、向こうにしてみれば、向こうなりの正義でやっていたりするので、こちらもいつそちら側になるかなど分からない。表裏一体なのだ。

政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措(お)いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。

これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。

こうありたい。学生時代はいわゆるやんちゃな方がかっこよいと思っていたが、長く考えが変わった。芯を持つ。

とかく人は表面に現れたことのみで測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝の中に叩き込まれんとする。溝の縁までは譲ろう。しかし溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることはできぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免を蒙(こうむ)って、あべこべに溝に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強みが発揮される。

怜悧 れいり

頭がよく、利口なこと

自分の心得の最善を尽くしている以上は、行儀作法に多少の欠点ありとするも、人はこれを宥(ゆる)すものである。自分は行儀を知らず、作法が分からぬと臆することはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際刷る値打(ねうち)なきものと思う。

世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければ良いではないか。

人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ

何人(だれ)にも可愛(かあい)がられるものは世にないと思う。もしかかる人がありとすれば、そは自己の意思なきものである。何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。

僕が友人に対して俺の飯を食いながら反対するのはけしからんという一喝は、たしかに僕の根性の曲を曝露する。しかるにこれが十二、三歳の腕白小僧の一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが潜めるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜伏する考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。

ラシャメン 羅紗緬

日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。

自己の淫奔(いんぽん)よりする者は少なく、大多数は一家のために犠牲となったのであろう。身を売る時はじつに憐れむべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾後三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲泥の差あるを発見するであろう。

「うまくやった奴が偉い奴」
ということになり了(おわ)る。僕は決して名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀(きず)つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降(くだ)る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。

負けて退(ひ)く人を弱しと思ふなよ知恵の力の強き故なり

むかしの人のいったごとく人生は棺を覆うて始めて定まるものである。

しかるに表裏(ひょうり)という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢(きたな)い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。また陽といえばよけれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。

願わくは説が違ったときは、はてな、己れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪の判断を下す前に一応は取り調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。

この度量が必要。自分の意見は全てではないし、皆が違うのが当たり前。

「可愛い子には旅をさせよ」
というは、旅は辛い、難儀である、可愛い子にはこの辛苦を嘗(な)めさせ、鍛錬させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮者は新婚旅行する。

人の力は出せば出す程ふえる