スイミー -レオ・レオニ

谷川俊太郎氏訳

みんなもちばをまもること

色々とやりたいことが増えてきている。
己の立てるところを深く掘れ。結局これなんだと思うが、やってみないことには納まりがつかないからな。

もっと知りたいセザンヌ 生涯と作品

ここでは毎回イラストを描くようにしているので、セザンヌの林檎をイラスト風に描こうとして下絵をかこうとしたのだが、シャープペンシルではじめるとそのまま手を動かしてしまい今回はこういうかたちの絵に。約30分。4,5年前にアカデミックな絵の描き方を学び始めた頃はとにかく時間がかかっていたが、気づくと作業スピードがあがっていた。

7月31日に隔離生活が始まってから、模写をすることにして、早寝早起きも身につき、この1ヶ月くらいは朝起きてまずは湯に浸かってからストレッチと軽い運動。それを経て絵を描く時間が取れている。5:45分に起きられれば朝から2時間くらい絵が描ける。これがすこぶる調子よくて、絵もうまくなるし、1日もうまくいく。

感動を持つ者のみが与えうる衝撃をあなた方の芸術に刻みつけなさい

ルーブル美術館は者の見方を教わる良書ではあるが、急いで美術館の外に出て、それまで見た者を一切忘れ、自分の目で自然を眺めて強烈な感覚を全身で受け止めなさい。

デッサンや模写で技術をあげて、観察力を上げるのはいいが、自分の絵を描くことに戻らなければいけない。それは分かっている。しかし今は技術をあげることに費やす。

林檎ひとつでパリを征服してやりたい

セザンヌは父親の力で兵役を逃れ

セザンヌの父親はかなりの大金持ちだったようだ。

渋イケメンの世界 ~美しき働き者たちへの讃歌~ – 三井 昌志

確かインドへ行くことを決めてからツイッターで知ったのだと思う。

男たちの勇ましい姿が切り撮られていて、最高にかっこいい写真が見られる。
さらに構成も良くて、はじめに写真を順番に見せていき、終わりにそれぞれの写真にコメントをつけている。

写真でも絵でも、やはりその人となりがそこに現れてくるから、そいつがどうかというのが見えるもの。
何を何故撮るか、何を何故描くか。

生きるために働く男たち。やるべき仕事に迷いなく打ち込む男たち。彼らの顔には人生がそのまま刻み込まれていた。後ろ姿に生き様がにじみ出ていた。外見にはほとんど気を遣っていないのに、痺れるほど格好良かった。

働く男は飾らない。飾らないから美しい。

静物画 – エリカ ラングミュア、高橋 裕子(訳)

絵画芸術のことを体系的に学んでいないので、興味のあるところをその都度掘り下げていて、もともと静物画は相性がよく、上手とは言えないまでも何かがあると感じていたが、デッサンを始めてからは身近なものになり、今も興味がある分野である。

カラヴァッジョの破天荒な生き方を読んで面白かったのだが、実はこのカラヴァッジョの「果物籠」という静物画が静物画の歴史的にも評価されていたり、存在はもちろん知っていたポール・セザンヌの何が評価されていたのかが分かり、点が線になった。当時芸術の舞台となっていたパリで「パリをりんごひとつで驚かせる」というような事を言っていたようだ。

絵を描くこととは別に、絵画の歴史を紐解いていくのも大変に興味のそそられるところだ。

1311年にかかれたというドゥチオの「受胎告知」などをみると、技術的にはそれほど大したものでなく、今の私の方がうまいくらいかもしれない。
それが1540年に描かれているマリヌス・ファン・レイメルスワーレの「二人の収税史」になると、もうすごいレベルに達している。450年以上前に描かれた作品。

もちろん上手い下手なんてのは、良い悪いとは別の話だが、やはりこういう時いつも「Not skill, but skill」と言っていたクリス・ペプラーの言葉を思い出す。

伝えられるところでは、カラヴァッジョは、「私にとって、花をうまく描くことも人物をうまく描くことも、骨が折れる点では変わりない」と語ったそうだ。

いいねぇ。

画家は描かれる対象がどの距離から見られるかということだけでなく、どの高さから見られるかも決めなければならない。視点を高めに設定すれば、個々のものはほとんど重なることなく、はっきりと見えるだろう。同時に、それらを互いに関連させて、全体の大きなまとまりを生み出すことも容易になる。

BERNARD BUFFET ET ANNABEL – ベルナールビュフェ美術館

力強い黒の輪郭線が好みで、描かれるキャラクターが画面の中心に1体あって、背景があるという構図はビックリマンシールのようで、こういう種類の作品を描いていた私は、戦後するからこういうことをやっている人がいたんだなという驚きがあって、その作品をイラストと呼ぶか絵画と呼ぶのかなんて、その作家の決めるものでいいのだ、そうあるべきだった。

そういえば、バンコクのAKKOギャラリーが閉店するようだ。私は絵画で食っていくことは10年くらい前に諦めて、と言ってもチャレンジしたのも5年もなく、やりながらも深いところでは、自分を信じ切ることができずに、駄目だと思っていた所があるので、たいそうなものでもなんでもないのだが、絵画や芸術で食っていくことのできる人ってのは、かなり少ないのではないだろうか。食っていく術を他に持ちながら作品づくりを続ける人が圧倒的で、その持続可能性ってのはどれくらいなものなのか。AKKOギャラリーのことは何も知らない。ただ紀伊国屋へ行くと飾られているAKKOギャラリーの作家の作品を見られるのは楽しみだったので、ああいう一服の清涼剤がなくなってしまって、またひとつ世の中がクサクサしたものになると思うと寂しいし残念だが、同時に別の誰かが世の中を芸術によって明るくする何かをやっているのだろうとも思う。世の中はそう捨てたもんじゃないってことを知っているよ。

 

ネットには見つからなかったが、書籍の最後に載っている写実表現に近い「波」という作品がとても良くて、そこに添えられているベルナール・ビュフェの言葉は次のようなものだ。

「私は大海原を航海する一隻の小舟のようなもの。その波間を縫って、何とか舵をとっているのです。」

「抽象画を描きたいか」という質問にビュフェはこのように答えた。
「絵画はすべて“抽象的”です。具象画は誰にでも理解できるとされていますが、鑑賞者が絵画の中にそれぞれの“美”を見出そうとしなければ、何の意味もないのです。抽象・具象を問わず、すべての芸術が“抽象的”であるというのは、この意味においてです」


アナベルの言葉より
愛するもの同士の関係は、貴重で生き生きとしていjますが、その中で最もむずかしいのが対等という関係です。習慣よりもまずいのは譲歩です。小さな意見のぶつかり合いを避け続けていたら、いずれ相手を非難することになってしまいます。私なら、あとで恨みごとを言うより、言ってしまって後悔するほうを選びます。


私はベルナールの作品のすべてを愛しています。41年間の愛情と友情は決して消えることはありません。


ボリス・ヴィアンやサルトル、カミュ、マイルス・デイビス、フランソワーズ・サガン、コクトー、イヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオールなどの同時代の人の名が登場している。