「分析」で成果を最大化する BtoBビジネスのデジタルマーケティング – 中田 義将

変化の速い世界のなか2017年の書籍。
読んでいるとベイジの枌谷氏が書いていることと似たようなことが書いてあるので、BtoBに関してはこれらを実行していくことで、それなりの成果が上げられるのかもしれないが、実行を継続するのが何より大変。プロジェクトを立ち上げるところまでは良いが、それを継続していくこと、プラスの情報を追加していくことをしていくためのリソースと費用をクライアントから捻出するのは簡単ではない。

私の会社の調査によれば、多くの顧客が、購買行動を開始する前にインターネットで情報を収集し、十分な比較検討を行ったうえで、意思決定をすることが明らかになっています。

そのため売り手も、インターネットを使うことで見込み客と接点を持ち、興味・関心を換気する方策を講じることが必要になりますが、それは決して難しいことではありません。

白痴 1 – ドストエフスキー

ずっと読みたくて新潮版が本棚にあったのだが、いよいよ読んでみようという気になって、どうも文字が小さいのが気になり調べてみると河出書房のものが読みやすいとあったので書い直して読み始めた。実際に新潮のものを読んでいないが、これは読みやすかった。

カラマーゾフの兄弟と同じように登場人物が多く、名前も親しみのないものだったので、人物相関図を作りながら読み進めるのが楽しく、少しずつ読み進めるとのめり込んでいった。登場人物の思考が疑り深く、浅はかな感じがしなく、人間模様が面白い。


読みながら作成した人物相関図です。お使いください、もしも使えるようであれば。

その結果ご面会いただければよろしいですし、いただけなければそれもまた結構、いやひょっとして大いに結構かもしれません。

まったく関係ないが、菊地成孔が「結構、結構」言った後に、山下達郎のSPARKLEが流れたのが最高だった。

ええ、時間は許しますとも。ぼくの場合、時間は全部自分のものなのです。

彼女はおおむね孤独に暮らしており、書を読み、勉学にまでいそしみ、音楽を趣味としていた。交友関係は狭く、いつも親しくしているのはどこかの貧しくて風変わりな役人の妻たちで、他にも何とかいう女優が二人と、どこかの婆さん連中とつきあいがあった。

確かに今の自分は辛く寂しい、とても寂しい気持ちでいる。つまりトーツキーさんが言い当ててたとおり、自分は愛情とはいわぬまでも、せめて家庭を得ることを新しい目標として、よみがえるることができたらと願っているのだ。

少なくとも自分は何事につけ、何人の許しも請うつもりはないし、人にもそのことを知っていてもらいたいと思っている。

だが気弱な人間の常として、彼も時々にわかに元気を取り戻し、みるみる勢いづく瞬間があった。

ぼくははじめめからおまえが悪い女なんて少しも思っていなかった。ただ不幸せな女だと思っただけだ。

ぼくは白痴扱いされているけれど、本当は賢いんだ。ただみんなにはわからないんだ……

ぼくは人づき合いが苦手なものですから、ひょっとしたら次にお邪魔するのはうんと先になるかもしれません。でもどうか悪くとらないでください。決して皆さんを軽んじて言っているわけではありませんし、何かでぼくが気を悪くしたなどともお思いにならないでください。

ある種の人たちによく見られることだが、いったん相手を罵倒して何の反発もないと見ると、ガブリーラは次第に遠慮会釈なく罵詈雑言を浴びせるようになってきた。

「水をお飲みなさい」彼はガブリーラにささやいた。「それに、そんな目つきをしてはいけません……」

ぼくのほうは彼ほどには恥ずかしさを感じません。だってぼくの場合は父親の問題なのに、彼の場合は母親でしょう。これはやっぱり違いますよ。だって男性の場合にはあんなのも恥というわけではないですから。でもこれもひょっとして、両性間の支配関係に関する偏見でしょうか。

だいたいここには誠実な人間がおそろしく少なくて、尊敬できる相手など皆無です。だからどうしても人を見下すようになりますが、相手はそれでも尊敬を要求してくる。

しかもこの女性はどうやら、おつむの弱さと顔の綺麗さが比例しているような按配だったのだ。

「ご存知ですかとトーツキーさん、噂によると、日本人もよく同じようなまねをするそうじゃないですか」ぷちーツィンがそう話しかけていた。「日本では、侮辱された人間が侮辱社者のところに行って、こう言うそうですよ。『お前は私を侮辱した。だから私はお前の目の前で腹を切りに来た』そしてそう言うとともに、本当に侮辱者の目の前で自分の腹を切り裂いて見せみせ、しかもそれで実際に敵討ちをしたのと同じような極度の満足を得るのだそうです。まったく世の中にはいろいろ変わった正確があるものですね、トーツキーさ」

BRUTUS(ブルータス) 2019年10/15号No.902[バンコク 見る、買う、食べる、101のこと。]

雑誌なんてパラパラとめくるものだし、わざわざこうして記録しておくこともないとも思うのだが、バンコクに住んでいるだけに、こういう雑誌が出た、読んだ、文章書いた、写真の一部を担当したみたいな話がツイートで流れてきて、普段だとへそ曲がりで偏屈なボクはこの手のものに手を向けないのだが、日本へ向かう飛行機の座席の前のポケットに「山の音」を入れたまま飛行機を降りてしまったので、近くのブックオフだった場所に行ってみると、すでにそこはファミリーマートに変わっていて、雑誌売場に足を運ぶと鉄道市場の写真が目に入ったので。と言い訳のような前置きはこれくらいにして、最近は会社案内やフリーペーパーに掲載する広告それに名刺など印刷物をお願いされることも増えてくると、雑誌のような多量のページデザインを、それもものすごい量の文章と写真の量もあり、校正もあって、雑誌のデザイナーはすごいなと関心して、尊敬しました。

デザイン・ルールとトンマナを決めて、今号の場合だとバンコク特集ということで、タイ国旗の赤青白を使って、細い罫線と点線を使うみたいなことがあり、あとは何人かのデザイナーで自由に、みたいな感じなのだろうか? 原稿を書いた人の名前をみるとほとんどが、以前までダコの編集長をやっていた Mai Miyajima さんで、これだけの量をほとんど一人で書いてしまうんだなと本当に感心した。ひょっとするとデザイナーも一人で、どちらも前もって頭の中で全体の構成を描いて、その場その場で処理を行っていっちゃったりするのかな、と思いつつも、やっぱりある程度の大枠を作ったほうが捗りそうだなと思い直した。写真の切り抜きは誰かにやってもらうとして、それ以外は一人でもやれないことはないだろうが、入稿前は結構たいへんなことになりそう。

ウェブと違ってコーディングをせずによく、印刷に出してしまったら修正ができないので、そこまで、という潔さもあり、雑誌のデザインはかっこいいよなあ。思えばデザイナーを目指した頃、やはり自分にとってのそれはウェブデザイナーだったんだよな。当時衝撃を受けたフラッシュがそれの中心にあって、特に目指したかったのはGyagaやWarner Brosなんかの映画配給会社のウェブデザイナーで確か働かしてもらいたい旨をメールしたけど返事がなかったんだよな。その後、小学時代を共に過ごした友人とばったり会うと、東北新社でプロデューサーか何かをやっていて、同僚のデザイナーが海外の映画を日本で上映するにあたって用意する日本語用のロゴが初めて採用されたのがいる、みたいな話を聞いて悔しい思いをしたのを思い出した。

BRUTUSのバンコク特集。白を基調にさっぱりと、切り抜き画像多様して、グリッドとグリッドをはみ出すレイアウトが混在して全体的に、遊び心のある感じというありきたりの言葉しか浮かんでこないが、個人的に好きなデザインで勉強になりました。

そういえば、この2週間の間、先週は土曜日、今週は土日ともに仕事をほとんどしなかった。こうして意識的に働かない時間をつくって頭の管理をしていかないといけない。こういう時間のある人生を。

不幸な子供 – エドワード・ゴーリー

オリラジ中田あっちゃんのおすすめで。

プレゼンがあまりに上手で、楽しみになってバンコクの紀伊国屋に行ってみたが、英語版も含めて全店に置いてなく、しかたなく日本行きを待って購入。

正直、期待をしすぎてその期待を越えては来なかったが、このエドワード・ゴーリーという人がアナグラムで名前をいじって別名で作品を発表しているなど、そのやり方が最高で、もう少し別の本も読んでみないといけない。

そしてこの先絵本を描くことを決めた。
その昔、漫画家になる夢を持ったが、小学生の頃の漫画クラブで、話を考える難しさを知り挫折。しかし、改めて、ストーリーも考えて、絵本を作る。必ず。

鍵 – 谷崎潤一郎

実家の書架にあったものを4,5年ぶりに引っ張り出してきて読み直した。
まず、何がすごいと言って、棟方志功の装丁と挿絵。
大雑把に考えられているような画風であり、繊細に考えられているようにも見えるが
実際に棟方志功がそれらを考えていたのか、天然で出来上がっているのか分からぬがいい感じ。
マティスや熊谷守一なんかも晩年には、そんな言葉でまとめてよいのか分からぬが、ここでは「シンプル」と言わせてもらうとシンプルになっていく。
今のうちのごちゃごちゃと屁理屈をこねて晩年にはシンプルなものになっていくのか。
こういうのも、その作家の歴史というものがあって、色々経てシンプルになるところに魅力があったりもするので、一概にシンプルが良いってわけでもないからおもしろい。

中で面白いのは、男の視点から書かれるのと、女の視点から書かれるのとで、字体を変えているところ。これを字体と呼ぶべきか分からぬが、男の場合にはカタカナと漢字を使い、女の場合にはひらがなと漢字が使われる。その漢字も旧字体が使われている。最近の作品でこれをやるのは無理があるのだろうが、当時は(昭和31年初版)まだこれが通ったのだろうか。ちなみに、当時のこの本の値段が三五〇圓とある。

青空文庫を見てみると、書籍と同じ用に再現されている。難しい漢字やルビも含めて、データ化するのは大変だったろう。

ソレハ四十五歳ノ女ノ足ノヨウニハ思エナイ)ノ所有者デアルヿヲ知ッテイナガラ、イヤ知ッテイルガユエニ、メッタニソノ足ヲ僕ニ見セヨウトシナイ。真夏ノ暑イ盛リデモ彼女ハ大概足袋ヲ穿はイテイル。セメテソノ足ノ甲ニ接吻サセテクレト云ッテモ、マア汚きたなイトカ、コンナ所ニ触さわルモノデハアリマセントカ云ッテ、ナカナカ願イヲ聴きイテクレナイ。

昔45才といえば、ずいぶん年の離れた遠い先のことで、あの頃、45才の女性と言えば、こんな事を言っては何だが、おばさんであり、お母さんのようであったが、実際に近づいてみると、自分と同年代の45年分の経験を持った女性に魅力を感じるようになる。若い女性が好きなのもいるがボクにはそれは良く分からない。

矢立(やたて)

画期的に思える道具。使い終わった後、筒の中に筆を収めてしまうと、乾いた筆先はカチカチになってしまうだろうが、それはどうするのか。翌日などにすぐに開けて、手でもみほぐしてまた使えばよい、という程度に考えるのであろうか。

浅ましい趣味ではあるけれども、夫は私の裸体を見ることが好きなのであるから、せめて夫に忠実な妻の勤めとして、知らないうちにハダカにされることぐらいは忍耐しなければいけないと思う。

男女平等みたいなことが言われて久しいし、どちらが上も下も無いのは事実であるが、自分の母親なんかをみると、一緒に買い物にでかけ、重そうに買い物袋を持っているのを見て、持つよと声をかけると、男に持たせるわけにはいかないわよ。と言う。そんなことはどうでもいいから、というと、あんたは海外に住んでるからそういう風な考え方をするんだね。いいから、いいから。と答えが帰ってくる。別に抑圧されているという印象はない。もちろんそれ自体が抑圧された結果だという見方もあるが、こういう人は不幸だから開放するのだというような考えに、余計なお世話だと返すのもよいではないか。

若筍わかたけの吸い物、蚕豆(そらまめ)の塩うで、きぬさやと高野豆腐こうやどうふの焚たき合せ、

当時の日本を思わせる食事。これはフランス文学やロシア文学の食卓にはあがらない。自分が子供の頃でも蚕豆の塩うでは目にした。

234ページ中67枚もある棟方志功の挿絵の一部
版画ならではの表現が光る


着物からら出ている肌の白さ


乳首を隠すように布団がかぶさっている


背景のサイケデリックさ


着物の柄


こちらも着物の柄が素晴らしい


背景の植物と削り漏れのような後だが、細かいことは気にすることない態度


見開きページのための2枚綴りの作品。さらにこの下に文字が並ぶレイアウトが書籍のデザインとして良い。1行が短くなる気持ちよさは河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也においても全体で使われており、贅沢にも感じ


上から見下ろす構図


女の耳に輝くイヤリング

棟方志功の作品集のように多くの作品見られるこの古い書籍が以外にもアマゾンで216円などで売られているので、好きな方はぜひ買ってみてみていただきたい。

侏儒の言葉 – 芥川龍之介

イケメン。
生まれてから母親の精神がおかしくなり、11歳までそういう母親とくらしていたという。どういう程度のおかしさなのかは分からないが、母親からの無償の愛というようなものを受けてはいないのかもしれない。それは祖母のものに変わったのか。

況(いわん)や

良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。

我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我我の好悪である。或いは我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、まさに溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。

人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じえないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦(また)確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

スウィフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるそうである。

完全に幸福になり得るのは白痴のみに与えられた特権である。

我我はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。

結婚は性慾を調整することには有効である

立川談志も結婚することでセックスがただできるようになる、というようなことを言っていた。

我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウェルテル、ロミオ、トリスタンー古来の恋人を考えて見ても、彼らは皆閑人ばかりである。

ふむ。

消化は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・ミア」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。

我我の恬然(てんぜん)と我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、ー或は、犬猫に対する時だけである。

あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟(ひっきょう)「臆病な」と云うことに過ぎない。

阿呆はいつでも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。

何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。

恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

リスティング広告のやさしい教科書。 ユーザーニーズと自社の強みを捉えて成果を最大化する運用メソッド – 桜井 茶人

ウェブサイトをつくって、そのウェブサイトは内部構造はしっかりできていて、アップロードもしやすく考慮して、運用体制は整っている。そういうサイトであれば、継続してなるべく利用者の求めている内容のコンテンツをアップしていくことで、検索の順位は獲得できる。それは分かった。

更新型のサイトでない場合には、他の方法で流入を稼ぐしか無い。それまでなんとなくやっていたGoogle広告は、なんとなくやっていても反応はあったので、これを掘り下げていくことにした。

やってみると数字が良くなり、興味を持っている人や企業があることも分かった。良いサイトをつくって、マーケティングもやれるということになれば、これは強い武器になる。BtoBマーケティングについて勉強をはじめよう。

AISAS Share – Action – Search -Interest – Attention

品質スコアのしくみ
・推定クリック率
・広告の関連性
・ランディングページの利便性

ゼロの焦点 – 松本清張

松本清張という人の名前とミステリーを書く作家ということは知っていたが、どんなものか読んでみたくなり。
まだ存命の方かと思ったが、1992年に他界している。

1959年、今から60年前の作品。
これは、とりわけ引き込まれるというわけでもなかったが、別の 或る「小倉日記」伝 という作品では芥川賞を受賞している。

ゼロの焦点は、モノクロ時代に映画化され、2009年にも広末涼子が出て映画化されている。
5月から8月の3ヶ月の日本滞在で、HULUにハマった。
ホームランドとウォーキング・デット。受動的に垂れ流して観続けた。
日本のHULUのオリジナル作品を観てみるが、クソつまらなくてすぐに止めた。
ネットフリックスの全裸監督はおもしろいらしい。

コインロッカー・ベイビーズ – 村上 龍

5月30日に父親が緊急入院、6月と7月を日本で母親の介護をしながら過ごすと、上手に時間をつくることができなくて、入浴中のほんの15分ほどしか本を読むことに充てられなかった。

この本は2013年あたりに入院していたチェンマイの病院で見つけて、その時は貪るように読んだ。上下巻に分かれていた。
今回は、少しずつしか進まず、実生活のことが気になって、最後の最後は読み飛ばす始末。

女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷入り煙草より細くて生魚の味がした。

こういうイカれた表現にやられるのだ。

城 – フランツ・カフカ

話の筋がなんだか良く分からず、かなり読むのに時間がかかったが、なんとか読み終えた。
文学会では評価の高い作品のようだが、未完のためもあるのか、それでなくても、ようするに何なのだか私には分からなかった。

私は小説の中の登場人物の発する言葉をメモするのが好きなのだが、この作品からはとりたててメモしておきたい言葉も見つからなかった。何度か途中で投げ出してしまおうと思ったが、とにかく終わらすことだけは終わらせようとなんとか踏ん張った。それに意味があるのかは分からない。

本を読むことにもだいぶ慣れてきたので、今一度本に対する姿勢を考え直そうと思う。
文章を味わい、内容を楽しむ。特に小説の場合には、これを意識したい。

沈黙のWebライティング —Webマーケッター ボーンの激闘—〈SEOのためのライティング教本〉- 松尾 茂起

我が社の今のウェブサイト制作業務は、サイトの目的からUIや導線を考え見た目をつくり、裏側のコードや更新性を含めた構造も良いものを提供していると思っている。

それに加えて、ウェブサイトを使った集客や検索結果の上位獲得も特定のキーワードではできている。

しかし、もっともっと多くの人に見てもらって、より目的を達するウェブサイトにしていくための運用分を鍛えるために、改めてライティングとデジタルマーケティングについて学ぶことにした1冊目。

経済のことよくわからないまま社会人になってしまった人へ – 池上彰

これも同じアパートの日本人にもらったもの。
ちょうど経済の事を学んでいこうと思っていたところで、ちょうどよいと思ったが、中身が薄く何ということもなかった。
残念。

静物画 – エリカ ラングミュア、高橋 裕子(訳)

絵画芸術のことを体系的に学んでいないので、興味のあるところをその都度掘り下げていて、もともと静物画は相性がよく、上手とは言えないまでも何かがあると感じていたが、デッサンを始めてからは身近なものになり、今も興味がある分野である。

カラヴァッジョの破天荒な生き方を読んで面白かったのだが、実はこのカラヴァッジョの「果物籠」という静物画が静物画の歴史的にも評価されていたり、存在はもちろん知っていたポール・セザンヌの何が評価されていたのかが分かり、点が線になった。当時芸術の舞台となっていたパリで「パリをりんごひとつで驚かせる」というような事を言っていたようだ。

絵を描くこととは別に、絵画の歴史を紐解いていくのも大変に興味のそそられるところだ。

1311年にかかれたというドゥチオの「受胎告知」などをみると、技術的にはそれほど大したものでなく、今の私の方がうまいくらいかもしれない。
それが1540年に描かれているマリヌス・ファン・レイメルスワーレの「二人の収税史」になると、もうすごいレベルに達している。450年以上前に描かれた作品。

もちろん上手い下手なんてのは、良い悪いとは別の話だが、やはりこういう時いつも「Not skill, but skill」と言っていたクリス・ペプラーの言葉を思い出す。

伝えられるところでは、カラヴァッジョは、「私にとって、花をうまく描くことも人物をうまく描くことも、骨が折れる点では変わりない」と語ったそうだ。

いいねぇ。

画家は描かれる対象がどの距離から見られるかということだけでなく、どの高さから見られるかも決めなければならない。視点を高めに設定すれば、個々のものはほとんど重なることなく、はっきりと見えるだろう。同時に、それらを互いに関連させて、全体の大きなまとまりを生み出すことも容易になる。

ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか? ~不便益という発想 – 川上 浩司

Takram のポッドキャストから。

便利すぎないことで得られることの実体験としては、私は旅の中で一生懸命に絵を描いていたのだが、旅先なので持ち物の量は制限されるし、道具を揃えるのも簡単ではなかったので、代替えや別の考えを持って場面場面をやってきた。ピカソが “If I don’t have red, I use blue?” と言っていたようで、言葉の真意は知る由もないが、物事や考えをタフに前に進める意味では便利すぎるのは、ためにならないのはそうであろう。

園舎の屋根には登ることができて、園児が毎日走り回っています。「ある大学の研究員が調査したところ、都内でサッカーを取り入れている幼稚園の子どもたちよりも、三倍以上も歩数が多かったと報告」されているほど。

「俺だけ感」は、言葉通りの意味です。ATよりMTのほうが独自の(俺だけの)運転を編み出す余地が大きい、紙の使い込んだ(俺の辞書だけの)クタクタ感があってこその習熟、300円という制約あってこそ選びぬかれた(俺だけの)お菓子の組み合わせ。これらは嬉しいことだと思い、総称して「俺だけ感」を名づけました。

「住吉の長屋」

これらの現象は、「頭の知性は合理的なもので鍛錬されるが、体の知性は不合理なものによって養われる」という、「むつみ庵」を経営する著者の考え方を反映していると思います。

そこでは、使いやすく理解しやすいものであることが志向され、以下のようなシステムデザインの姿勢が提案されています。
・どんな行為ができるかが、容易にわかるように
・行為の結果が目に見えるように
・システムの状態が評価しやすいよういに
・意図とそれを実行する行為の対応、行為とその結果の対応、見えている情報とシステムの状態の解釈の対応が、自然であるように

歩行者も自転車も自動車も、誰もがお互いに配慮しながら、アイコンタクトで慎重に移動します。人の行為を決めるのは、誰か知らない人が決めた法規ではなく、そこにいる人たちの良心と周辺環境です。

「トラベル」と「トラブル」は語源が同じと聞いて、我が意を得たりと思いました。しかし調べてみたところ、残念ながらちょっと違うようです。
我が意を得たりと思ったのは、「旅とは思い出」という解釈を支持しているからでした。旅には(プチ)トラブルが必要なのです。

素数ものさし

「世界標準」のお金の教養講座 – 泉正人

同じアパートの日本人にもらった1冊。

村上龍が経済について、ロシアの例をとって、「ロシアはパイプラインで経済がよくなったことで、人々の生活も潤い、それまでのプーチンの考えに賛同していないものも支持をはじめてた、少しくらい評判が悪くても、経済がよくなることで状況は良くなる。逆に素行の良い行いがあっても経済が悪ければ、状況は何もかわらない」というようなことを言った。

確かにそうで、自分自身の生活を見ても、5万バーツの給料でやっているよりは、10万バーツでやるほうが気持ちも自信も生活もよくなる。
こういう本の言うように、お金=信頼であるのであれば、人の求める仕事を続けていければ、お金に困ることはないだろう。
自分の場合には、お金にお金を稼がせるような、株や暗号通貨をやるなどは、今の所向いておらず、そこの時間を自分の活動に充てるほうが近道であると思う。
充実した生活があれば、それで良いなどとは思っておらず、充実した生活の上にお金も手にするというところを目指している。

付加価値とは、ショップの高級な雰囲気、デザインのきれいな包み紙と袋、保証書、ていねいな接客などです。

「ストーリーを造る」付加価値

「誰がカモかわからなければ、そのゲームでは自分がカモ」 ウォーレン・バフェットの言葉

アフターダーク – 村上春樹

中編小説。
村上龍氏と爆笑問題の太田氏が村上春樹について、「海外で人気がでるのは分かる。多くの人が抱える悩みみたいなものの最大公約数を書いているので。それはすごいこと。青年の悩み」みたいなことを話していた。

僕は村上で言えば、圧倒的に龍の方のファンだが、春樹の方の言葉選びや文体は読みやすく好きで、それを楽しむのに読んでいるようなところがあるが、内容に関してははっきりとした答えみたいなものがあるわけではなくてモヤっとするのが残る。逆に村上龍の場合には「才能がないなんて思ったらダメだ。そっちの方が楽なんだから」のように、ビシバシと答えが明快なので、気持ちが良い。

と言いながらもこの作品も2度目。やっぱり好きなのかも知れない。

「もちろん。いいよ。なんか違う話しをしよう」

「アイロニーって?」
「人が自らを、または自らに属するものを客観視して、あるいは逆の方向から眺めて、そこにおかしみを見いだすこと」

ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ。

人間そっくり – 安部公房

「砂の女」に続いて。
安部公房の世界観は、海外での評価も高いのだとかいうか、あまり得意ではない。
昔の同僚が読んでいた「箱男」が気になっている。いずれもう1冊読んでみようと思う。

でも、けっきょくナイーブなのねえ、話を聞いてやっていさえすれば、それでご満足なんだから。

いまさら気のふれたファンなどというのは、薬味にしても利きすぎている。

平凡も、徹すれば、非凡に通ずるっていうじゃないの

臆病な犬ほどよく吠えるというが、その臆病さのおかげで、犬はしばしば、身の安全を保つことが出来るのだ。

化学の実験でもするように、掌を内にあおって、紅茶の湯気を鼻の穴に送り込みながら、

素晴らしい表現の仕方。

気づいたときには、もうじきが、一足飛びに、まだになっていたのだ。

大きな嘘を隠すには、小さな無数の嘘で、そのまわりをくるんでやるのが一番だという。

ヴェニスの商人

シェイクスピア。ハムレットに続いて2冊目。

ちょうどカラヴァッジオについて調べている時に読みはじめたのも何かの縁で、シェイクスピアがイタリアを舞台に物語を書いている。

印象に残った言葉あったが、それと同じくらい気になったのは、ユダヤ人を他者として扱っていることで、そんなにも風当たりがつよく、それをシェイクスピアも肯定的に描いているのは、時代というものであろうか。

元気がないな、アントーニオー、きみは世の中のことをあまり気にしすぎるのだ。世間というやつは、くよくよすればするほど、ままにならぬものなのさ。本当だよ、きみはすっかり変わってしまったな。

もっとも、よくは解りませんけれど、あまり御馳走を召し上がりすぎると、食べ物もなく、ひもじい思いをしているものと同様、やはりお体を悪くなさるとか、そうなると、身分もいい加減のところのほうが、いい加減のしあわせが手にはいるというわけでございましょう ー 度を過せば白髪を招き、程を守れば長寿を保つ。

いい格言だね。言いまわしも気がきいているし。

ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい? 手がないとでも? 臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい? 同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷かつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない、何もかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 針でさしてみるかい、われわれの体からは血が出ませんかな? くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめに会わされても、仕かえしはするな、そうおっしゃるんですかい? だがな、ほかのことがあんた方と同じなら、その点だって同じだろうぜ…クリスト教徒がユダヤ人にひどいめに会わされたら、ご自慢の温情はなんと言いますかな? 仕かえしとくる。それなら、ユダヤ人がクリスト教徒にひどいめに会わされたら、われわれ持ちまえの忍従は、あんがたがのお手本から何を学んだらいいのかな? やっぱり、仕かえしだ。没義道はそちらが先生、習っただけはおさらいして見せる。いや、それだけでは腹の虫がおさまらぬ、御指導以上にみごとにやってお目にかけますぜ。

外観は中身を裏切るものだーいつの世にも人は虚飾に欺かれる。裁判でもそうだ、どんないかがわしい曲がった訴訟でも、巧みな弁舌で味つけすれば、邪な心のひだを消しされるではないか? 宗教にしても同じこと、どんな異端邪説でも、殊勝げな坊主がそれを祝福し、聖書の言葉に照らして、もっともらしく解説しさえすれば、その忌まわしさも虚飾のかげに隠しおおせるではないか? 世にむきだしの悪というものはない、かならず大義名分を表に立てているものだ。どこにも多い臆病者、心臓は砂で作ったきざはし同様たわいない。そのくせ顎には勇士ハーキュリーズや軍神マルスのひげをつけ、厳しげに構えている。言うまでもない、その腹をのぞいてみれば、肝玉は乳のように白ちゃけているのだ。ただ、やつらは勇者の飾りを見せかけに、世間をおどしているにすぎない…美人をみるがいい、知れたこと、美しさもまた脂粉の目方で売り買いでき、その目方ひとつで世にも不思議な奇蹟が起る。つまり、顔に塗るものに目方をかければかけるほど、尻はますます軽くなるというわけだ。そうなれば、蛇のようにうねった金髪の捲毛にしても、あのうわべだけのお化粧美人の頭の上で、みだりがましく風とたわむれてはいるものの、元を洗えば、わがものならぬ貰い物、その金髪を養い遺してくれた人の頭は、今は髑髏(どくろ)となって墓の下に…こうして虚飾こそは、魔の海に人を誘い裏切る岸辺、色黒のインド美人の面を隠すきれいなかつぎ、一口にいえば、見てくれのまことらしさというやつ、ずるかしこい世間はそれを罠にしかけて、どんな賢者も陥れるのだ…

早く言えば、教養のない小娘、弁(わきま)えもなく、経験もございません。ただ、しあわせなことには、いまさら何を学んでも追いつかぬほど年をとってもおりませず、さらにましなことには、何を学んでもものにならぬほど愚かな生まれつきでもございませぬ。

ぼくは群れのなかの病める羊さ、人身御供にはもってこいなのだ。木の実も腐ったやつから地に落ちる。