サブカル・スーパースター鬱伝 – 吉田豪

「サブカル」っていう日陰のジャンルの人間が名前が世間に知られていく中で、どう振る舞ったり、ど対処したりすればいいのかっていう。

40にして惑わずだっけ? そんなこと孔子が言ってたみたいだけど、あいつたぶん早死してるよね。いい加減なことばっかり言ってね(笑)。なんもわかってないよ。むちゃくちゃ惑うっつうの! 本格的に惑い、本格的に憤り、本格的に憎み始めるのが四十代だから。だって男が四十代になったら現代では自殺も増えるし、性犯罪も増えるんだよ。惑いまくってるから。

新しいことやってる間はだいたい前のファンが批判するから、それがエネルギーになるっていうのはあるよね。

鬱にならない人って、自分はいいものを書いてるつもりで、「悪くなったな、あいつ」って言われてるのを知らないまま一生生きてく。そんな人、いっぱいいるでしょ。2〜3年ちょっと鬱状態いnなって仕事も滞った人の方がまだバネがつくと思う。

ほとんどの人も仕事で鬱になってるんじゃなくて、仕事をきっかけに人に対しての不信感や喪失感や疎外感を持つんじゃないのかな。

変わっていかないと絶対気が滅入るって。プロとして技術もついたし、これやり続けてりゃ金になるしっていうことで生きていける人と、次の山を登らないと的な感じになっていく人といるけど、サブカルの人っていうのは体育会系じゃない癖に、そのへんのロマンチシズムはすごく体育会系だから。

夢中になれてないのに仕事でやると、自分の思いがない原稿を書くことによって心に無常感が出てくるんだよ。そんなに好きじゃないんだけど、なんとなく付き合ってる彼女といながら、どっかの星を見つめてるみたいな状態って一番鬱になるじゃん。

そういう意味では技術で書くことはできるわけよ。一本のコラムを。おもしろいだろうなってことを書くことはできるけど、でも思いのないものを書くほうが無礼っていうかさ。関係の深い雑誌だから気持ちの手は抜けない。だからプロにはなれなかったんですよ。プロっていうのは締切をちゃんと守って技術で書き続けることでしょ。自分がどうあれ。

そっちがそれだけ不真面目なんだったら、真面目な原稿なんか書かないぞってなんっちゃったら、もうライターとしては失格じゃない。で、自分がインタビューされる側になったら、不真面目なライターが死ぬほどいることがわかるじゃん。だから人と仕事するのは無理だな。

だって地獄にいて幸せになりたいと思っても無理でしょ。東京っていうのは生き地獄っつうじゃない。その中でいろいろ楽しみを見つける人もいるんだろうけど、それは面倒くさいし。
-田舎に行きたいんですかね?
田舎でも都会でも、どこでもいいんだよ。

-じゃあ精神的に鬱々とした時期を抜けるためのアドバイスみたいなのは、べつにないですか?
ないけど、40歳になってもそれぐらいの感受性は持ってようよって言いたいよね。だってそれは大人の論理で生きていくか、感受性で生きてくかの問題なんだもん。これは中年の思春期なんだから。

-文化系である以上、避けられない気がしますよね。体育会系だと、スポーツでスッキリできそうな気がしちゃうじゃないですか。
体育会系とかボンボンのものの考え方ってすごいおもしろいなと思って。なんかやっぱり理論立ってるでしょ。自分の中で。間違ってても。その単純さがいいよね。結局は勝ち負けの世界の人だもん。そういう感覚の人なんかは。一冊でも本が売れたりとかさ、曲が売れたら、それはそれですごいことなんでしょ? でも、俺らは違うからね。

14歳からの社会学 – これからの社会を生きる君に

能力によって自由を楽しめる度合いが違ってくる。これは本当のことだ。でも能力がとぼしいからといって過剰にみじめにならず、自分がそこいいてもいいんだ、自分は生きていいんだ、自分は他社に受け入れられる存在だ、と思える。それが「尊厳」ということだ。

さあ君は舟を動かせるか。「失敗しても大丈夫」と思えるように、人間関係の中で育ってきたか。

誤解しないようにいうと、ぼくのいう「エリート」は、昔の日本社会で通用した「東大→官僚=自己実現」みたいなタイプの人間じゃない。「幸せは人それぞれ」のいまの社会で「それでも多くの人が幸せになれるルールがあるはずだ」と考えられるタフな人間のことだ。

自由とは自分で自分を支えることだ。でもこれが苦しくて難しいんだ。

ぼくは大学受験のとき、受験勉強は1日4時間までと決めていた。<中略>「1日4時間だけ精いっぱい勉強して入れるくらいのところに入る」コスト配分が、一番いい。

ぼくは仕事の時間を減らすことに挑戦している。まえは1日に10時間以上平気で働いていたが、仕事が楽しく苦とも思っていなかったが、仕事のための人生じゃないから。会社を軌道にのせることができたし悪くは何買ったのだろうが、もういい。今は1日5〜6時間。もう少し頑張って4〜5時間で済むようにしたい。その後は本を詠んだり絵を描いたり昼寝をする。

だから女の子は、自分を「理解」してくれる余裕がある年長の男に向かう。

君は、女の子がどうしてもっと優しくしてくれないんだ、つくしてくれないだ、心にちゃんと触れてくれないんだ、と思っているだろう。そんな君は、生身の子とセックスしてもつまらないと思うようになる「予備軍」だ。本当は女の子の心に日をつけない君が悪いんだ。

自分の薬をつくる – 坂口 恭平

一度書いたのだが、サーバー移行の際にこの投稿だけ消えてしまった。。残念。

薬は基本的に毎日飲むものである。毎日続けて気持ちのよくなる日課を見つけよと。
薬だからたまに1日くらい忘れたってどうってことないというのが良い。
意気込んで、忘れたことによってやる気が失せたりすることがない。

タイ語発音教室―基礎からネイティブの音まで – 岡滋訓

長い間 เอ と แอ の違いが曖昧で、はっきりと違いを認識して言うことが出来ないから、聞くこともできなくて、新しい単語を聞いたときも เอ で探せなければ แอ で探して見つかるという具合で、ずっと矯正したいと思っていて、まだタイ語学校に通っていた頃に、発音の練習にこの本を買って、かなり役に立った記憶があり改めて数年ぶりに購入。

読んでみて、なるほど良く分かった。この本とネット検索していたら เอ は日本語の え の音。 แอ は日本語で「いーだ」の口をしながら え の音。という解説も見つけて、それも役に立った。
タイ語は発音がとても大事だが、発音のことを書いている本は少ないので、タイ語の発音をものにしたいという人にはきっと役に立つ本。CD付きでおすすめです。

思うがままに夢が叶う超瞑想法 – 苫米地英人

仏教に「無明(むみょう)」という言葉があります。無明とは、人間が根本に持っている無知のことであり、すべての迷いや苦しみも無明から生まれるとされます。みなさんは、自我によるスコートマのため、まさに無明の真っただ中にあるのです。

その選択の結果、ある時は優しい人になり、ある時は凶悪な犯罪者になってしまうだけなのです。

感覚について: ヴィパッサナー実践の道しるべ – アルボムッレ・スマナサーラ

自分の感覚とは異なる部分もあったが、仏教や瞑想など自分を高めて、より楽に、より良く生きられる自分を作り上げる。

ある一定の仕事、とくに妄想なんかする場合は、かなり「脳の中」でしています。それはありありと頭の中に感じるはずです。しかし、きちんとした論理的な思考の場合は、脳を使っている感じはあまりしません。パッパッと答えが出るだけ。だから妄想する人びとは、かなり脳が病気なのです。それで体も病気になって、治らなくなる危険がありますから、気をつけたほうがいいのです。
言ってることに極端な所があるよな。
私が食べたかったら「おいしい」と認識するし、食べたくなかったら「べつにおいしくない」と認識する。私がこの人といっしょにいたかったら、「すごく優しい人だ」と言う。別れたい場合は、「すごく乱暴な人だ」と言うし、「失礼な人だ」とも言う。すべて「(私の)都合」によります。だから、一人の人間が親切な人になるか、失礼な人になるかは、相手しだいなのです。
現代社会で冥想したがる人というのは大体、あまりにいい加減な生き方をしてきて、社会の中で負けてしまったような人々でしょう。
ちっともそんなことないだろう。逆に一生懸命に生きているから、瞑想したがる人だっているだろう?

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める! – 苫米地英人

ゴールを意識して生きているか。ゴールのために行動しているか。まずはそれを自問すべきです。

ゴールに向かう童貞には苦しさもあれば楽しさもあり、苦しくても楽しさがある。別の言い方をすれば、抽象度の高いゴールに向かって生きている人は、苦しさも楽しさも関係なく、ただひたむきに生きているのです。

その感情に振り回されずに、「悲しさも人生の味わいのうち」と、娯楽として味わえばよいのです。娯楽として味わっておけば、振り回されることはありません。

この世界の理を踏まえて生きていく心構えのことを「責任」と言っているのです。

「自分」とは、「他社との関係にまつわる情報」が寄り集まったものなのです。

「自分は他人の目にこんなふうに映っているんだろうなあ」というイメージは、あなた自身がつくりだしているということ。
他人の目に映っている自分というものは、自分が作り出している虚像です。「他人の目から見た自分」そのままを、自分で見ることはできないのですから、当然、それは自分が勝手につくっている虚像なのです。

「未来は最高だと」確信すれば過去も現在も最高である」

過去は未来に影響しない。本気で変わりたいならば、「これまでの自分」というゴミを捨てよ。そうすれば人は誰でも思い通りの未来をつくれる。

「自分は◯◯な人間だ」という信念は、「言語」と「イメージ」と「情動(感情)記憶」の三つの要素でできています。

あなたの自己評価を下げる相手は「ドリーム・キラー」(夢を潰す人)です。

自帰依自灯明(じきえじとうみょう)、つまり「自らを拠り所にする」のです。

日本の組織を見ていると、「やりたくないことを嫌々やる代わりに、責任はとらないよ」とみんなが言っているように見えます。

脳の判断基準は臨場感

現代認知科学でも、「リアル」とは「今、自分が臨場感を感じている世界」という定義がなされています。

恐怖を感じたら「おれらしくないな」とつぶやきましょう。

恐怖でクリアな頭を乱されている人は、「オレは何があってもビビらない」と自己イメージを高め、
「すべての感情を娯楽にする」
「ゴール達成に意味のある感情だけを自分に許可する」

この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」といいっます。そして、ゲシュタルトによって事象を認識する能力を「ゲシュタルト能力」といいます。

あの人は打てば響く

人間は自分のためだけに生きていては幸せにはなれません。自分以外の人のために行動してこそ人は幸せになれるものです。

やさしい瞑想法: 中村天風直伝の“人生を自在に生きる知恵” – 沢井 淳弘

瞑想を習慣にするとどうなるか。瞑想により心と体を強く、自由にすることができるか。実験を開始。

つねに天空海闊の状態で生きろ!

自己の良心の声を聞く

瞑想が集中力をたかめるのに効果的だと気づいた人たちがいます。

瞑想時に、僧たちは時間と空間の感覚を超越し、彼らのスピリチュアルな現実把握は、私たちの科学的な日常的な現実感覚より正確である

瞑想が、他者の精神状態に共感する脳の部位に影響することが、私たちの研究によって、確認された。したがって…人間は音楽の楽器演奏やスポーツを習得するのと同じようなやりかたで、瞑想によって<他者を愛する親切心や同情心>を習得することができる

瞑想によって、人は、現下の自己の感情や想念を冷静に観察し、自己のマイナス感情をぬぐうために、その感情をうまく言語化することができるようになる。

フィロソフィーはもともとギリシア語で、「知を愛する」という意味です。

たいていの問題は気にするから、生じてくるのですね。

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください – 井上達夫

モーリーがニコ生でモーリー・チャンネルというのをやっていた時に、ゲストでやってきた井上達夫氏の変わったあごひげと頭の良さそうなところに惹かれて買ったのだが、なかなか読む機会を得ず長く積ん読されていたのだが、年末に村本氏との朝生での発言などから開いてみた。

リベラリズムとは何か。リベラリズムには二つの歴史的起源があります。「啓蒙」と「寛容」です。
啓蒙主義とうのは、理性の重視ですね。理性によって、蒙を拓(ひら)く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動です。十八世紀にはフランスを中心にヨーロッパに広がり、フランス革命の推進力になったとされる。
寛容というのも、西欧の歴史の文脈から出てくる。宗教改革のあと、ヨーロッパは宗教戦争の時代を迎えました。大陸の方では三十年戦争、イギリスではピューリタン革命前後の宗教的内乱。<中略>それがウエストファリア条約でいちおう落ち着いた、というか棲み分けができた。その経験から出てきたのが寛容の伝統です。宗教が違い、価値観が違っても、共存しましょう、という。

これまでの寛容についての考え方では、人はすべての場合に寛容であるべきというわけではなく、不寛容な者には不寛容であるべきだ、とする。<中略>しかし、グレイは、不寛容な政治体制や文化に対しても、寛容であれ、という。

列に割り込んでくる奴がいる。お前には割り込みをしても文句がないんだよな?というのが僕の考えである。

カントの哲学は、理性批判でした。理性というのは、理性にできることの限界を越えて、勝手なことをやりはじめる欲望を内包している。それが「形而上学」だ、と。

自分が「忌まわしい」と思っている深淵に従って生きている連中がいて、嫌な奴だと思うが、まあ許してやる。もっと言えば、「本当は殺したいけど我慢する」、その代わり、そいつらが自分の生き方や信念に文句をつけたり干渉してくることは絶対許さない。互いに相手の蛸壺に介入するのを自制することで、自分の蛸壺のなかでは唯我独尊を守って共存する。そういうニュアンスが「トレランス(tolerance)」という言葉になくはない。
日本語の「寛容」は、それとは違いますね。寛(ひろ)く、容れる、ですから。この意味での英語は、むしろ「オープン・マインデッド」です。
自分と視点を異にする他者に対し、自分に文句をつけてこない限り、「嫌な奴だけど我慢してやる」ではなくて、そういう他者からの異議申し立てや、その撹乱(かくらん)的な影響に対し、それを前向きに受け入れる。それは自分のアイデンティティを危うくする恐れもあるけれど、あえて引き受けよう、という度量ですね。それによって自分が変容し自分の精神の地平が少し広がっていくかもしれない。
それこそが、寛容のポジだと、私は思います。

朝生なんか見てると、このポジを持っている様には見えないが、まああれはテレビショーで、あれだけで人を判断するのはよくないが、本当は殺したいけど、というような強い表現が出てくる。こいつを殺してやりたいというような気持ちにはならない。関わらないことにしようという気持ちになるだけ。やや強すぎる表現では?
寛容でありたいとは思うし、嫌いでない人間の話は聞く様に努めようと、今また思うが、やはり嫌いな人間の話まで肯定的に聞くのは簡単ではない。気持ちが出ちゃうからね。でも、寛容を思い出せるくらいの理性は残しておきたい。

つまり、自分は自分だから、他者より優遇されるべきだ、とか。自分の国だから特権的にあつかわれるべきだ、あるいは、自分の子供だから特権的にあつかわれるべきだ、とか。
そういう、当事者の個体的な同一性のみが理由になっている差別は、普遍化できない。
普遍化できない差別は、排除されなければいけない。これが、どの正義の構想も制約される、共通の正義概念の要請です。

いくら集合化された理性とか、長い歴史に裏打ちされたとかいっても、たとえば、カースト制はいいのか、と。
たしかに、カースト制にしろ、それが長く続くことで社会システムん安定化があるだろう。そして、その安定が失われると、確かにある弊害が生じるのかもしれない。しかし、それらはつねに批判的に吟味していく必要があると思う。

天皇制しかり、王制しかり。賛成派の寛容が必要にあるが、途方もない道のりを感じる。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

芦田修正によれば、「前項の目的を達するため」の一文があるので、自衛軍を持つことはできるのだとか、この一文では欺瞞が残るなど、言葉の解釈でどちらとも取れる話を聞いていると、どちらにも頷けてしまう。

句読点の位置が、読みづらさを生む感じがする。難しい言葉を並べてしまうのは、頭の良い人の悪いところか。その言葉を使わないと説明できないのか。いや、僕が言葉をしらないだけなのだ。

悩む力 – 姜尚中

大晦日に鳴った電話を見ると城田さんの名前。
年明けにKEY BOOKSでセールがあること、それと「悩む力」の紹介であった。

人に本を紹介することは、あまりしないんだがという前置きの後、著者の姜尚中という人も、我々と同じように強い自我を持ち、悩みを持ちながら生きている種類の人間であること、僕が何冊か読んでいた夏目漱石が本に出てくることなど。圧倒的に読書量の多い城田さんだが、小説はほとんど読まないというが、「悩む力」を読んで何冊か読んでみようと思っているという。

まだKEY BOOKSに同じ本が一冊残っていたという話を聞き、その日のうちに早速購入。

自我とは何かを説明するのはなかなか難しいですが、平たく言えば、「私とは何か」を自分自身に問う意識で、「自己意識」と言ってもいいでしょう。

「自我」の「発見」と言えば、すぐに思いつくのは、十七世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」という有名な言葉です。

こうした自我の問題は、百年前はいわゆる「知識人」特有の病とされたのですが、いまは誰にでも起こりうる万人の病と言っていいと思います。当時は「神経衰弱」と呼ばれ、漱石の小説中に「キーワード」のように出てきます。漱石の「断簡(メモ)」の中にも、こんな言葉が見えています。「Self-consiousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり」

「自分の城」を築こうとするものは必ず破滅するーと。

いまでは「まじめ」という言葉はあまりいい意味で使われませんし、「まじめだね」と言われるとからかわれているような気分になります。でも、私はこの言葉が好きですし、とても漱石らしいt思います。すべてが表面的に浮動するような現代社会に楔を打ち込むような潔さがあると思います。まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みのそこを「まじめ」に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。

「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」

ゲーテの「ファウスト」の中に、「悪魔は年寄りだ。だから年寄りにならないと悪魔の言葉はわかりませんよ」おいう言葉が出てくるのですが、なかなか意味深長です。若者の浅知恵は、老人の成熟した知恵にはかなわないということでしょうか。

ウェーバーも漱石も神経を失調しがちでしたが、それもうなずける気がします。かれらの著作を見ていると、その一字一字が血のしたたるような苦行の痕跡なのではないかと感じます。たいへん深遠だと思いますし、それをやめなかった彼らのまじめさと精神力に打たれます。そして、かく言う私も、自分を信じるしかない、「一人一宗教」的に自分の知性を信じるしかないと思っています。自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。あるいは、それしか方法はないということを信じる。それは「不可知論だ」と言う人もいるでしょう。でも、中途でやめてしまったら、それこそ何も信じられなくなるのではないかと思います。「信じる者は救われる」というのは、究極的には、そういう意味なのではないでしょうか。何か超越的な存在に恃(たの)むという他力本願のことではない、と思います。

サービス業の大きな特徴として、「どこまで」という制限がないことがあります。だから、中には、果てしなくのめりこんで、ときには消耗しつくして自殺する人もいるといいます。阿部真大さんの「搾取される若者たち」には、「自己実現」ということに夢中になるあまり、自分にノルマを課しすぎて破滅するバイク便ライダーの話が出ています。

人間というのは、「自分が自分として生きるために働く」のです。「自分が社会の中で生きていていい」という実感を持つためには、やはり働くしかないのです。