ネットで「女性」に売る – 谷本 理恵子

成果型の案件があり、売ればわたしにも金が入ってくるので、試せることはどんどんやっていきたい。書籍の内容には、頷けるところあり、何を言ってんだか、といったところあり。

本人がすごく「悩んでいる」という前提で売ろうとしても、売れるはずがありません。

女性は興味ある部分しか読まない傾向が強い

なんで 女性は なのさ。

思うがままに夢が叶う超瞑想法 – 苫米地英人

仏教に「無明(むみょう)」という言葉があります。無明とは、人間が根本に持っている無知のことであり、すべての迷いや苦しみも無明から生まれるとされます。みなさんは、自我によるスコートマのため、まさに無明の真っただ中にあるのです。

その選択の結果、ある時は優しい人になり、ある時は凶悪な犯罪者になってしまうだけなのです。

こころ – 夏目漱石

久しぶりに漱石の一冊。三四郎と門は読んでいるので、「それから」を読んで、前期三部作をすべて読んでしまおうとも思ったのだが、書架に並んでいた二冊を手に取り、何の気なしに「こころ」を選んだ。草枕と門に続き名作。

いい感じに暗くて、言葉遣いも今の時代とは違って、なんだかそれがかっこよく響き、サンキュータツオは美しい日本語を使うと評していた。漱石を読み始めた頃に、この言葉遣いに慣れていなくて難解に感じたのだが、何冊か読んでいるうちにそれがすっと入ってくるようになるのは、タイ語に慣れていくのと大差なく、むしろ言葉を増やせる喜びにも繋がる。

明治の終わりを迎える描写があり、明治時代や明治維新、幕末のことなども本で読もうと決めた。100年前の日本について知ってみたくなった。祖父や祖母が生きた時代。それから今の僕がタイで暮らしていることに繋がってくるのだから、考えてみると不思議なもんだよな。

「私は淋しい人間です」と先生が云った。「だから貴方の来て下さる事を喜んでいます。だから何故そう度々来るのかと云って聞いたのです」

「悟るの悟らないのって、-そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何か遣りたいのでしょう。それでいて出来ないんです。だから気の毒ですわ」
女は男の後ろを歩けってか。歩きますってか。

「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」

「私に云わせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方だけあって、中々お上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌になったんだとも云えるじゃありませんか。それと同なじ理屈で」

田舎者は都会のものより、却って悪い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいものです。だから油断が出来ないんです」

「ああ。叔父さん、今日はって、断って這入って来ると好かったのに」

この場面、先生と私は、知らぬ人の家の庭に這入って、ごろっと横になって時間を過ごしているんだが、こんな風に鷹揚とした感じが明治の日本にはあったんだなあ。この感じがあるなら日本もまだ捨てたもんじゃあなかったけど。

白ければ純白でなくっちゃ

学問をさせると人間がとかく理屈っぽくて不可ない

誤魔化されるのは何方にしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向こうの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我が通った事になるのですから。

しばらくするうちに、私の眼はもと程きょろ付かなくなりました。自分の心が自分の座っている所に、ちゃんと落付いているような気にもなれました。

私はこんな時に笑う女が嫌でした。

私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経った後の事でしたが、まだ奥さんと御嬢さんの晴着が脱ぎ捨てられたまま、次の室を乱雑に彩っていました。

『おれは策略で勝っても人間として負けたのだ』

感覚について: ヴィパッサナー実践の道しるべ – アルボムッレ・スマナサーラ

自分の感覚とは異なる部分もあったが、仏教や瞑想など自分を高めて、より楽に、より良く生きられる自分を作り上げる。

ある一定の仕事、とくに妄想なんかする場合は、かなり「脳の中」でしています。それはありありと頭の中に感じるはずです。しかし、きちんとした論理的な思考の場合は、脳を使っている感じはあまりしません。パッパッと答えが出るだけ。だから妄想する人びとは、かなり脳が病気なのです。それで体も病気になって、治らなくなる危険がありますから、気をつけたほうがいいのです。
言ってることに極端な所があるよな。
私が食べたかったら「おいしい」と認識するし、食べたくなかったら「べつにおいしくない」と認識する。私がこの人といっしょにいたかったら、「すごく優しい人だ」と言う。別れたい場合は、「すごく乱暴な人だ」と言うし、「失礼な人だ」とも言う。すべて「(私の)都合」によります。だから、一人の人間が親切な人になるか、失礼な人になるかは、相手しだいなのです。
現代社会で冥想したがる人というのは大体、あまりにいい加減な生き方をしてきて、社会の中で負けてしまったような人々でしょう。
ちっともそんなことないだろう。逆に一生懸命に生きているから、瞑想したがる人だっているだろう?

行動経済学まんが ヘンテコノミクス – 佐藤雅彦, 菅俊一, 高橋秀明

行動経済学に興味があり、まずは一歩目として。
確かに興味深い点があるが、これを実際の商売にどう繋げていくかを練らなければならない。

■フレーミング効果
同じ情報でも言い方を変えると異なる印象を与えてしまう現象
「死亡率20%の手術」
「成功率80%の手術」

■親近効果
私たちには、複数の情報を順番に提示された時に、後に提示された方を印象強く評価してしまう「親近効果」と呼ばれる心理現象があります。
「僕はエミちゃんと結婚したいけど、給料は安いし、口うるさい母親がいる」
「僕は給料は安いし、口うるさい母親がいるけど、エミちゃんと結婚したい!」

■極端回避性
ついつい真ん中を選んでしまう

■上昇選好
だんだん良くなる方を好みます

■認知的不協和の解消
私たちは自分の心に湧き起こる不協和を解消するために、時折心にもなかった言動をして心のバランスを取ろうとすることがあるのです。

BERNARD BUFFET ET ANNABEL – ベルナールビュフェ美術館

力強い黒の輪郭線が好みで、描かれるキャラクターが画面の中心に1体あって、背景があるという構図はビックリマンシールのようで、こういう種類の作品を描いていた私は、戦後するからこういうことをやっている人がいたんだなという驚きがあって、その作品をイラストと呼ぶか絵画と呼ぶのかなんて、その作家の決めるものでいいのだ、そうあるべきだった。

そういえば、バンコクのAKKOギャラリーが閉店するようだ。私は絵画で食っていくことは10年くらい前に諦めて、と言ってもチャレンジしたのも5年もなく、やりながらも深いところでは、自分を信じ切ることができずに、駄目だと思っていた所があるので、たいそうなものでもなんでもないのだが、絵画や芸術で食っていくことのできる人ってのは、かなり少ないのではないだろうか。食っていく術を他に持ちながら作品づくりを続ける人が圧倒的で、その持続可能性ってのはどれくらいなものなのか。AKKOギャラリーのことは何も知らない。ただ紀伊国屋へ行くと飾られているAKKOギャラリーの作家の作品を見られるのは楽しみだったので、ああいう一服の清涼剤がなくなってしまって、またひとつ世の中がクサクサしたものになると思うと寂しいし残念だが、同時に別の誰かが世の中を芸術によって明るくする何かをやっているのだろうとも思う。世の中はそう捨てたもんじゃないってことを知っているよ。

 

ネットには見つからなかったが、書籍の最後に載っている写実表現に近い「波」という作品がとても良くて、そこに添えられているベルナール・ビュフェの言葉は次のようなものだ。

「私は大海原を航海する一隻の小舟のようなもの。その波間を縫って、何とか舵をとっているのです。」

「抽象画を描きたいか」という質問にビュフェはこのように答えた。
「絵画はすべて“抽象的”です。具象画は誰にでも理解できるとされていますが、鑑賞者が絵画の中にそれぞれの“美”を見出そうとしなければ、何の意味もないのです。抽象・具象を問わず、すべての芸術が“抽象的”であるというのは、この意味においてです」


アナベルの言葉より
愛するもの同士の関係は、貴重で生き生きとしていjますが、その中で最もむずかしいのが対等という関係です。習慣よりもまずいのは譲歩です。小さな意見のぶつかり合いを避け続けていたら、いずれ相手を非難することになってしまいます。私なら、あとで恨みごとを言うより、言ってしまって後悔するほうを選びます。


私はベルナールの作品のすべてを愛しています。41年間の愛情と友情は決して消えることはありません。


ボリス・ヴィアンやサルトル、カミュ、マイルス・デイビス、フランソワーズ・サガン、コクトー、イヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオールなどの同時代の人の名が登場している。

イン ザ・ミソスープ – 村上 龍

気になっていた作品を一気に読んだ。一文が尋常でなく長い。句点(。)の代わりに読点(、)を用いて延々と一文を続けていく。

おれは昔から、ものごとを悪いほうに考えるやつだ、悲観主義者だ、と友達からよく言われてきた。親父が早い時期に死んだことが影響していると思う。親父が死んだのはやはりショックだった。最悪なことは自分が関知できないところで進行していてそれがあるとき突然に姿を現す。そしてそうやって現実になったときにはほとんどのことはもう手遅れなのだ。親父の死からおれはそういうことを学んだ。

そういうばかげた、それでいてシリアスで、人間の悪意に関わることは大切な人には言いたくない。

悪意は、寂しさや悲しさや怒りといったネガティブな感情から生まれる。何か大切なものを奪われたという、からだをナイフで本当に削り取られたような、自分の中にできた空洞から悪意は生まれる。

知ってるかね、ストレスがない場合は睡眠は必要ないんだ、睡眠というのはからだではなく、脳を休ませるためにあるんだ、からだの疲労だったら横になっていれば回復できる、だが脳は睡眠以外では回復しなくて、眠らない状態が長く続くと人間は凶暴になる、どこまでも凶暴になることができる

「要するに、セックスなんだ、彼らが目指したのはセックスなんだね、あらゆるアブノーマルなセックスだ、アナルセックスやスカトロジーや死体とのセックスだね、もともとは聖地エルサレムを守る聖堂騎士団が、アラビアの異端宗教に触れたことから始まるのだが、十四世期にはね、騎士団への入会式のときに、新しい入会者は位が高い人のアナルに接吻することが義務づけられていたらし、彼女はこういう話でどきどきするんじゃないかな、ローリング・ストーンズも一時悪魔崇拝に凝っていたんだよ、彼女はローリング・ストーンズが好きそうなタイプだものね」

おれは、どうして誰もがこれほど嘘つきなのだおると思った。まるで誰もが嘘をつかなくては生きていけないように見える。

おれは、フランクの横で、そんなことを考えている場合ではないとわかっていながら、どうやったらマキをコケにすることができるだろうと考えていた。それで、コケにする方法はまったく見つからなかった。このてのバカ女には、無知という強いバリアがあて、おまえがバカだと正確に指摘しても、バカって何? で終わってしまうのだ。

この外人に意志を伝えなくてはならない、と思った。何か言うのと、伝えるというのは違うのだと初めてわかった。

イヤなやつはイヤな形でコミュニケートしてくる。人間が壊れている、というとき、それはその人のコミュニケーションが壊れているのだ。その人間とのコミュニケーションが信じることができないときに、そいつを信じられないやつだと思う。

日本人はどこか他の民族に国を占領されたり、虐殺されたり、国を追われて難民になったり、独立するために多くの人が死んだりという歴史的苦難を味わっていない、前の戦争でも戦場になったのは中国や他の東南アジアの国々や太平洋の島々や、それに沖縄だけで、日本の本土は単に空襲にあっただけだ、目の前に敵が現れて肉親を殺されたり、犯されたり、違う言葉を強要されたりしていない、ヨーロッパも新世界も基本的にはそういう侵略と混血の歴史を持っていて、それが国際的な理解の基本になっている、だからこの国の人は外国人に対して排他的なんだ、どうつき合えばいいのかわからない、歴史的に、外国人とリアルに接したことがないんだよ、アメリカ合衆国の場合を除けば、そんな国は世界中で日本しかない、とそのレバノン人の新聞記者は彼女に教えてくれた

タイ王国も植民地になっていない国であるが、この文脈ではあたらないのか。

外を歩けるようになると、ぼくはすぐに迷子になった、まるで迷子になるために歩けるようになったような感じだな、とパパに言われたことがあるよ

人間は想像する、あらゆる動物の中で、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、機器を回避して生き延びていくためには、予測、表現、伝達、確認、などが絶対に必要で、それを支えるのは想像力だ、われわれの祖先は、ありとあらゆる恐怖を想像してそれらが現実になるのを防ごうとした、だから、現代の人間達にもそういう想像力が残っていて、それが、ポジティブに発揮されれば、芸術や科学を生むし音がディブに発揮されるとそれは必ず恐怖や不安や憎悪という形になって、われわれ自身に返ってくる

大丈夫、正常だ、精神が健康的な人というのは、ある程度の混乱と矛盾を抱えているもんなんだ、好き嫌いが石とか鉄みたいに固く安定してしまっている人のほうが危険だ、振り子がどちら側に振れるかわからない、迷いがあっていつも悩んでいるという状態でみんな生きているんだよ、それが正常なんだ

確かに、意味として、長く生きることと死なないことは同じことだ。

ロビンソン・クルーソー – ダニエル・デフォー

誰もが知っているであろうロビンソン・クルーソーは、名前は聞いたことがあったが読んだことがあるのかどうか記憶になく、ずっと興味があって岩波のものをkindleで買ったのだが、上下巻というボリュームでなかなか読む気にならなかったところ、この福音館文庫の子ども向けのものが古本屋で見つかり購入。想像していたよりもうんと面白く、無人島での話を一気に読み進めた。

第一に、この島にいれば、世の中のあらゆる悪から遠ざかっていられた。わたしには、さまざまな肉体の欲望も、悩みも、見栄もなく、身のまわりにあるものだけで満足していられたから、やたらに欲を出すこともなかった。

わたしは、できるだけ、自分の境遇の明るい面だけを見て、暗い面は見ないようにし、不足しているもののことを考えるより、今持っているもののありがたみを考えるようにした。おかげで、言葉にはあらわせないほどの喜びを、人知れず味わうのだった。

まったく、わたしたちの現在の境遇のありがたみというものは、みじめな境遇に落ち込んで、つらい目にあってみて、はじめてわかるものだし、今持っているもののねうちは、なくなってみないとわからないものだ。

まったく、人生というものは、なんと複雑な、運命の織り物だろう! そして、わたしたちの心は、情勢が変わるにつれて、なんとめまぐるしく変わることだろう! わたしたちは今日愛しているものを、明日になると憎んだり、今日求めているものを、明日になると避けたり、今日なんとしてもほしいと思っているものを、明日になると、おそれるばかりか、考えただけで身震いしたりするものだ。

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める! – 苫米地英人

ゴールを意識して生きているか。ゴールのために行動しているか。まずはそれを自問すべきです。

ゴールに向かう童貞には苦しさもあれば楽しさもあり、苦しくても楽しさがある。別の言い方をすれば、抽象度の高いゴールに向かって生きている人は、苦しさも楽しさも関係なく、ただひたむきに生きているのです。

その感情に振り回されずに、「悲しさも人生の味わいのうち」と、娯楽として味わえばよいのです。娯楽として味わっておけば、振り回されることはありません。

この世界の理を踏まえて生きていく心構えのことを「責任」と言っているのです。

「自分」とは、「他社との関係にまつわる情報」が寄り集まったものなのです。

「自分は他人の目にこんなふうに映っているんだろうなあ」というイメージは、あなた自身がつくりだしているということ。
他人の目に映っている自分というものは、自分が作り出している虚像です。「他人の目から見た自分」そのままを、自分で見ることはできないのですから、当然、それは自分が勝手につくっている虚像なのです。

「未来は最高だと」確信すれば過去も現在も最高である」

過去は未来に影響しない。本気で変わりたいならば、「これまでの自分」というゴミを捨てよ。そうすれば人は誰でも思い通りの未来をつくれる。

「自分は◯◯な人間だ」という信念は、「言語」と「イメージ」と「情動(感情)記憶」の三つの要素でできています。

あなたの自己評価を下げる相手は「ドリーム・キラー」(夢を潰す人)です。

自帰依自灯明(じきえじとうみょう)、つまり「自らを拠り所にする」のです。

日本の組織を見ていると、「やりたくないことを嫌々やる代わりに、責任はとらないよ」とみんなが言っているように見えます。

脳の判断基準は臨場感

現代認知科学でも、「リアル」とは「今、自分が臨場感を感じている世界」という定義がなされています。

恐怖を感じたら「おれらしくないな」とつぶやきましょう。

恐怖でクリアな頭を乱されている人は、「オレは何があってもビビらない」と自己イメージを高め、
「すべての感情を娯楽にする」
「ゴール達成に意味のある感情だけを自分に許可する」

この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」といいっます。そして、ゲシュタルトによって事象を認識する能力を「ゲシュタルト能力」といいます。

あの人は打てば響く

人間は自分のためだけに生きていては幸せにはなれません。自分以外の人のために行動してこそ人は幸せになれるものです。

俺は、中小企業のおやじ – 鈴木 修

カリビアン。これはタイランドのジムニーの呼び名で、バーンセンをバイクで走っているときに、黄色のカリビアンを見つけて一目惚れして、周りに話したり、調べてみるとSUZUKIのジムニーという車で、どうやら熱烈なファンがいた車種のようで、これがまた、少し前に日本で何年ぶりかにニューモデルを発売することになった。なんだか自分の中での盛り上がりと世の中の流れが一致して、新モデルはまだタイには来ていないが、来たら買おう。

「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物につかえる、あると便利なクルマ、それがアルトです」

「これだけは絶対よそに負けない、という特長のある会社にしたい」

やはり「他人をあてにしてはいかん」ということを、特にカネについては思っています。

「会社というのは、いろいろ手間がかかっても一から自力でつくりあげたほうが、いい結果が出る」という教訓です。世の中では「M&Aブーム」といわれた時期もありますが、少なくとも自動車産業でM&Aをやって大成功しているところはありません。

小さな市場でもいいから1番になりたい    

「国内で1番になるのが難しいなら海外でやってやるぞ」という気持ちです。

セダンもあるけど、ワゴンもあーる

やってみせ、言って聞かせ、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

人生を変える幸せの腰痛学校 心をワクワクさせるとカラダの痛みは消える – 伊藤 かよこ

足の手術をしてから、膝や体に不安を覚えるようになったのだが、3ヶ月前から足のことや痛みについて調べたり本を読んだり考えたりするうちに、自分のというよりは人間の可能性を信じる方が良いのだろうという、信じがたい人には何を馬鹿なという考えを重んじるようになった。そしてこの本を読んで、それは加速しているし、自分を人間をもっと信じなければいけない。これは、腰の痛みとか体の痛みの話だけではなくて、あれをやりたい、こういうことを実現したいとか言う話も全く同じで、やれると思ったことは全てやれるのだ。それが我々だ。

いい気分で数合そうと努めた

私は幸せになるんだとまず最初に決心することなんです。

体験を繰り返すことによって、『思い』や『考え』は『信念』に、そしていつの間にかその人にとっての『真実』になってしまうんです

モルヒネの6.5倍の鎮痛作用があるといわれているβエンドルフィンは、自分でつくることができるんですよ

からだは、人智を超えた存在である。このことだけは覚えといてほしいなぁ

私が変われば、世界が変わる

疑問を持つこと。
自分で考えること。
自分で決めること。
広い視野を持つこと。
受け入れること。
勇気を出すこと。
本音に向き合うこと。
感謝すること。
信じること。
仲間と共に喜び合うこと。

半島を出よ〈下〉- 村上龍

終盤のコリョとの戦いと爆破によりビルが崩壊するあたり、待ちに待っていたこともあり胸が踊った。同じシーンを映画で表現する方が容易に思うが(もちろん簡単なことではないだろうが)、ああいう場面を言葉で表現できるのは、さすがに小説家だ。バンコクのウェブマガジンやフリーペーパーなんかを見ても(読むではなく)、面白い表現に出会うことはない。そして僕が欲しいと思うような情報が書かれているわけでは決してないので、読むこともない。同じく言葉を生業にしているはずなのだが。

からだ中がヌルヌルのヤマダはモリに気づくと、やあ、ちゃんと来たんだね、と齧歯類のように微笑んだ。

その様子はニンジンと交尾の相手を同時に見つけたオスウサギのようだった。

酒は親しい雰囲気の中で飲まれることが多いが、親しい雰囲気というのは危険に充ちている。その場に蔓延した親しみに敬意を払わなければいけないし、同調することも必要だ。同調を示さないと罰を受ける。親しさが蔓延する場所では、単に一人でじっと考え事をしているだけで、どうしたんだ? つまらないのか、と責められて、そのあとあいつは暗いやつだと攻撃の対象になる。酒を飲む場所では、誰かが冗談を言ったときはそれがどんなにつまらなくても笑わなければいけない。ここにいるみんなは、居酒屋やスナックに集まって大声で笑いながら酒を飲んでいるような人間たちは抹殺しなければいけないと思っている。そしてほとんどのメンバーがすでにそれに近いことを実行した。

打ち合わせなんかでも、一対一でやると思っていたら、部下や嫁を連れてくる人間がいる。その前に連絡があれば、こちらもそういう場面を想定して行くのだが、すでにそこに相手の弱さと誠実でなさが見えてしまう。二人で腹を割って話そうよ、ということではないんだよな。

無理に抑えつけると狂気って圧縮されていつの日かそれが爆発するんだよ。正常と狂気って、実ははっきりと分かれてないのよ。念のために言うけど、正常位じゃなくて正常ね。ただ、狂気は自分の中にあるんだけど、正常さを象徴する共有感覚みたいなサムシングはどこかに浮かんでいるの。

金融にしても同じだね、国民の七割が飢えに苦しむような国家をさ、儒教の教えを上手に使ってね、情報を操作して、反抗するやつは殺して、外国から金をせびってさ、なんとか切り盛りしてきたわけだからさ、吐気がするけどね、そりゃある意味プロ中のプロよ。

修復したほうがいいとチョ・スリョンは思った。メンツをつぶされた人間は恨みを持つ。恨みは陰謀や犯行の芽になる。

スリョン、良い詩を書くことができる人間になりなさい。実際に詩を書かなくてもいい。ただいつでも書きたくなったときに良い詩を書ける人になりなさい。良い詩を書けるのは、自分の心の闇を見つめることができる人だ。強く美しいだけでは良い詩とは言えない。読む側の人の側に立った詩でなければ、本当の力はない。いいか、スリョン、読む人の側に立った詩を書くんだよ。

包茎の新兵たちも一緒に壇上に上がらされて、一斉にしごき始めて、壮観なものだよ。するとね、例の軍医殿がそわそわし始めるんだな。何しろ、古参兵のデカチンと、新兵たちの三、四十本のチンポが壇上でそそり勃ってそれがしごかれているわけだから、男色家としては至福のときなわけで、溜まりに溜まった白濁した液体が数十本のチンポの先から飛んだときにはだな、軍医殿は感動のあまり椅子から腰を浮かして、万歳と呟いたそうだ。

言葉遣いもていねいだし、驚くほど礼儀正しいが、それは排他的で閉鎖的であることの裏返しだ。外部と距離を置くだけではなく、外部を信用していない。

涙の別れ、永遠に続く愛、そして前提的な信頼などは嘘なのだとイシハラは教えてくれた。

一本目はわざとはずして犬に上を向かせたのか、とカネシロに聞かれて、内緒、とタテノは少しだけ微笑んだ。ターゲットを倒したことで興奮するわけでもなく、得意がるわけでもなく、当然だというように淡々としていた。まるで友達に頼まれて修理した大工のようだとシノハラは思った。

福岡に来る前に出会った連中はみんな何かをなぞっていた。温かな家庭とか善良な人間とか幸福な人生とかそれぞれにモデルがあって、みんなそれを模倣し、なぞっているだけだった。

愛情豊かに可愛がられた子供は大人になってから有利だ。人に好かれるし、性格に余裕のようなものが表れて就職にも影響がある。

そして何より彼女たちには子どもを育てている女性に特有のある種の正直さがあった。図々しさと言ってもいいかも知れない。可愛がり方はいろいろだが、みんな子供のことを第一に考えていて、お腹が痛いと言えば髪にカーラーをつけたまま病院に走っていくし、子供がおいしいと言ってお弁当を食べるのを見るだけで幸福な気分になる。若い母親はある時期子どものヨダレやオシッコやウンコにまみれながら過ごし、動物的な母性を獲得していくのだとある育児書に書いてあったが、まさにその通りだと思う。

夫の母親は、後悔と不幸と自尊心が顔の皺に埋め込まれているような女だった。わたしの言うとおりに生きればすべてが手に入るが、背くと何も得られないと脅しながら子どもを育てたのだろう。自分で考え、自分で判断して決定することには何の利益もないと刷り込んできたのだ。

そういった腐った大人たちから正しく生きろと言われても子どもは何のことかわからない。もちろん素直に従う子どももいる。だがそいつらは大人が正しいのだと自分で判断して従うわけではない。大人に従えば利益があって、従うのを拒否すると罰が与えられるのを知っていて、それから逃れているだけだ。大事なのは、今のヒノやタケグチみたいに、やらなければならない何かを見つけることだ。何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞き続けることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の校風もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる。

おじさんは、まあこんなもんだっぺと言って、必ずそのあとに、うまくいきすぎると早死すっぺ、と続けた。

自分がうれしかったり楽しかったりするよりも、自分が大切に思っている人がうれしそうにしたり楽しそうにしたりするのを見るほうが喜びが大きいということを兄たちは教えてくれた。

ちょっと導入部分だけ読んでみるね。一人の良い子が死ぬと、そのたびに天使がこの世に降りてきて、死んだ子を両手に抱きます。天使は大きな白い翼を広げて、生きているときにその子が好きだったあらゆる場所の上を飛んでいくのです。そして一握りの花を摘んで、その端がこの世で咲いていたときより、もっときれいに咲くようにと、天国の神様のところに持っていきます。神様がもっとも気に入った花は、声を与えられて、喜びのコーラスを一緒に歌うことができるのです。

その人が自分から話そうとしないことを聞くな、と教えてもらったからだ。

やさしい瞑想法: 中村天風直伝の“人生を自在に生きる知恵” – 沢井 淳弘

瞑想を習慣にするとどうなるか。瞑想により心と体を強く、自由にすることができるか。実験を開始。

つねに天空海闊の状態で生きろ!

自己の良心の声を聞く

瞑想が集中力をたかめるのに効果的だと気づいた人たちがいます。

瞑想時に、僧たちは時間と空間の感覚を超越し、彼らのスピリチュアルな現実把握は、私たちの科学的な日常的な現実感覚より正確である

瞑想が、他者の精神状態に共感する脳の部位に影響することが、私たちの研究によって、確認された。したがって…人間は音楽の楽器演奏やスポーツを習得するのと同じようなやりかたで、瞑想によって<他者を愛する親切心や同情心>を習得することができる

瞑想によって、人は、現下の自己の感情や想念を冷静に観察し、自己のマイナス感情をぬぐうために、その感情をうまく言語化することができるようになる。

フィロソフィーはもともとギリシア語で、「知を愛する」という意味です。

たいていの問題は気にするから、生じてくるのですね。

イーロン・マスク 世界をつくり変える男 – 竹内一正

ロボットが通りを歩いて人間を殺戮するのを実際に目にするまで、人々はどのように反応すればいいのか分からない。こうした脅威に対して現実感が非常に希薄であるように思える。

新しいことをやろうと思ったら、失敗を許容しなければならない。

まず言いたいことは「超多忙であれ」ということです。

デザインの小骨話 – 山中俊治

河北秀也のデザイン原論という僕の心に残る一冊があり、デザイナーを志したばかりの頃に読んで何をする時間も放っておいて、ものづくりを楽しむ姿勢や独特の文章に心奪われた。デザインのテクニックなどについては書かれていないが、そんなものは大して大事ではないと思う。時間をかけて、勉強をして経験を積めば、大抵のことはできるようになるのだから。

このデザインの小骨話は、久しぶりに大切な1冊になった。著者の山中俊治氏の奥様がツイッターに観察スケッチの記録をあげていて、観察スケッチは上手くなくてはいけないものではないが、この方の画力は他の方に比べて秀でていたことで気を引かれて、この本に辿り着いたのだ。

そしてデザイン原論もデザインの小骨話も行間が広く取ってあり、ひとつひとつの項(と呼ぶべきものか)が短く、非常に読みやすく、的確で正確な言葉が使われる。かっこいいよな。

ちなみに、小骨話はこぼれ話をもじっているそう。

さらには、アイデアの出し方や造形のスキル、いつ仕事をし、どう休みをとるのか、なぜその仕事に価値があると思うのか。

ようやくもらえる仕事を少しずつではあるが、自分にとってやる必要があるかを選べるようになった(会社が安定してきた)ので、仕事の価値を考えてみる。はじめからそういう姿勢でいるべきだが、まずは生き残らなければいけない。

しかし、自分、あるいは人は特別な存在ではなく、食物連鎖のひとつのピースに過ぎないという相対感覚は自然科学の基礎となる。それは多分、人と人工物の関わりを観察しながら構想する今の私のデザインを支えている。

環境が変わるたびに既存の器官を流用して適応した結果、初めからその環境に最適な設計をしていればそうはならないだろう、と思われるような過剰なデザインも少なくない。その末裔には脊索(せきさく)を巨大な情報処理器官に発展させた、私たち人間もいる。

フクロウは、その大きな頭ゆえに知恵の象徴とされるなど賢いイメージはあるが、運動が得意なイメージはない。親しみやすい風貌と、映画の影響もあって飼う人が増えているそうだが、実は飼育しやすい動物ではなく、人に慣れない孤独な、そして非常に優秀なハンターである。

正中線

20世紀型のものづくりにおいては、そして今も一般的には、基礎研究とデザインは別の職能である。だが、人そのものと深い関わりを持つ最新のテクノロジーはアートやデザインと不可分であり、デザイナーは初期段階から関わってゆく必要がある。その共同作業を通じて社会実装の方法が検討され、研究者たちも、研究の方向性についての新しい視点や方向性を得ることができる。

私が上のようなことをつぶやいたのがきっかけで、「生物が車輪を持っていないのは何故か」ということについてツイッター上で議論が盛り上がった。
「血管を持つ生き物が、360度以上回転する部位を持つことは構造上難しい」とか、「車輪は直径の1/4以上の段差は登ることができないので、でこぼこの世界に住む小さな生物には意味がない」とか、車輪を持てなかった理由についてさまざまな意見が集まった。

私たちは、遠い昔から品種改良によって、さまざまな生き物を自分たちの都合が良いように改良してきた。そしていよいよ遺伝子を操作し、生物そのものも改変しようとしている。善かれ悪しかれ、いずれ私たちは、生物を自在にデザインすることになるだろう。

精度にこだわってものづくりすると、そのしゃきっとした感じは必ず見る人にも伝わる。でも面白いことに、しゃきっと見える理由が精度にあることは案外気づかれない。

そのあたりの検証は専門家に任せるとして、いずれにしても暦は、人が太陽の軌道上に定めた便宜上の目盛りであって、それが宇宙の営みに影響を与えることはない。しかし人という「知識を糧とする生き物」にとっては、周期の原点を定めることは、長さや重量の基本単位を定めることと同様に、自然を知り、理解し、治験を伝え合うための出発点であった。

近頃妙に冷めてしまうのは、社会性のないフリーランスが長かったせいかもしれぬ。などと考えているうちに、このどうでもいい日についてずいぶん書いてしまったが、年に一度ぐらい自らがちっぽけな存在であることを確認するのは悪いことではないわな、などと思ったりもする。

興味本位という言葉は普通良い意味で使われない。でも私は好奇心こそが真理と美に至る根源的な動機だと思う。その意味で対象にきちんと敬意を払い真摯な態度で臨む限り、興味を本位とすることは王道だと思う。

私たちは確かに、「美しくて機能的なデザイン」とか「良いデザイン」というような言葉をひんぱんに使う。よく考えるとそう簡単に定義できることではないのだが、それらの言葉が想定しているのは、人々のベネフィットだ。使う人にとっての快適性や愛着、社会に対する貢献、あるいは売る人にとっての利益など。いずれにしても作られたものが誰かにベネフィットをもたらすことを信じて、良い、あるいは美しいという言葉を使う。つまり、「美しさは人をハッピーにするものだ」という暗黙の了解のもとにデザインがなされている。

スケッチは、言葉に似ている。習得には時間がかかるが、ストレスなく使えるようになると、思考の道具であり、対話のツールである。世界を理解する方法ですらある。

このような道具としてのスケッチは芸術的な表現手段というよりも、日常言語に近い。人を感動させる文章を書くのには文才が必要であるのと同時に、人を感動させる絵を描くには才能がいるが、「グラフィック言語としての絵」には書式や文法があり、外国語と同じ様に、才能の有無にかかわらず習得が可能である。

しかし、私たちはその料理をちゃんと見ただろうか。家に帰って自宅の台所で再現しようとしてみても、材料すら思い出せないことは珍しくないし、出合った動物の耳の形も覚えていない。そういうときのための写真のはずだが、1枚の画像ではどうも心もとない。一方で、しょっとしたスケッチとメモを残しておくとちゃんと再現できる。一度スケッチしてしまえば、案外細部まで覚えているものなのだ。
スケッチは単なる記録ではない。対象物のあらゆるところを見なければ描けないが、一方で見えるもの全てを描くことはできないので、重要なところや特徴的なところをその場で選択することになる。その意味でスケッチは、観察の方法であると同時に情報を整理する方法でもある。

デザインに正解はない。観察と試作、分析を重ねればそれなりの道筋は見えてくるが、多くの場合それでも選択肢がありすぎる。部分的には最適解が見つかることはあるとしても、それらを統合して一つのプランなり形なりに帰結させるのは、結局、人の価値観であり意志である。デザイナーは少しでも好ましい解を求めて、さまざまな可能性の中から選択を重ねて一つの道筋を決定する。

実際、アイデアスケッチにおいて影を描くことは、プレゼンテーションとしても効果的である。モノが床や地面に落とす影から、構造、奥行き、向こう側の形、床からの距離、地面ん平滑さなど、私たちは無意識のうちにさまざまな情報を得ている。シンプルな絵においてこそ、正確に影を描くことは、案外たくさんの情報を伝えることになる。

ポール・セザンヌは友人への手紙の中で、「自然を円柱、球、円錐として扱え」と書いたそうだ。

製作途中のものを人に見せて意見を聞くと、しばしば新しい試みがばっさり否定される。しかし多くの場合、単に洗練が足りないだけなので、安易にそのアイデアを捨ててはいけない。

仕事場兼住居の場所の広さを仮に決める。デザインのための道具や家具、パソコンなど仕事環境に必要なものをリストアップし、仕事場のランニングコストを計算する。さらには、どんな服を着て、どんな食事をしたいか、1週間にどれくらい働くかなどについても、突き詰めた生活ストーリーをつくり、自分たちの給料を算出する。そうやってできたライフプランをもとに積算して、自分の仕事の単価を設定した。

練習は本番のつもりで、本番は練習のつもりで

フリーランスにとっては、すべてのビジネス相手は対等である。しかしだからこそ、出会いの瞬間から力比べが始まる。

フリーランスに向いている性格というものは確かにあると思う。孤独に耐えられること、何をするか自分で決められること、自分の意志で何かをしていること自体に喜びを感じること。フリーランスの仕事にはムラがあるから、仕事がないときにのんびりと過ごせる精神力も欠かせない。さらに言えば孤独はオリジナリティのある仕事の源泉でもあるとも思う。

それは、スティーブ・ジョブズの言う「人は自分が欲しいものを知らない」という言葉にも呼応する。

ザ・ゴール コミック版 – エリヤフ・ゴールドラット

書籍版が、かっこいいカバーで本屋の棚で目を引いたのだが、その分厚さから手にとることはなく、先日紀伊国屋へ行くと、似た装丁でコミック版があったので。

生産ラインが滞るのは渋滞の原理と似たところがあり、どこかにボトルネックがある。自分の仕事にも活かせるのだろうかと考える。全てをひとりでやっているので、順番に片付けていくしかないのだが、時間のかかる作業をどう処理していくかは考えてもよいし、そろそろ外部に出せる人を見つけても良い頃だろう。回せる仕事で時間を取られるのはもったいないし、その時間を別の仕事なり運動なりに使ったほうが、絶対に良いだろうから。

帯の「日本人がいま読むべき伝説の書!」というコピーに心が動かされた。すぐにありきたりの表現で、大したコピーではないと気づくのだが、同時に何れにしてもこういうコピーにやられてしまうのかもしれないとも思い、この後早速adwordsに取り入れてみることにする。