希望の国のエクソダス

このブログをつけ始めてからも一度読んだが、またもう一度。

おれは決して熱心な読者ではなかったがカミュやジュネは優れた作家だと思う。だが基本的におれたちのものではなくフランス人のものだ。編集長はまるで自分のもののようにカミュやジュネを語る。

何か他人に伝えるといときに、まず、伝えたいことがあるということを伝えなければならないのではないかとぼくは思うんです、

ロンドンの有名なバレエ団で活躍するダンサーで、「いろいろと大変でしょう」とおれは最初に聞いて、彼女を不機嫌にさせてしまった。別に大変じゃありません、と彼女は言った。言葉を覚えたり、食事に慣れたり、他のダンサーや振り付け師に受け入れられるまでは大変ですが、そのあとは普通にやっていけます。普通にやっていけるようになるまでが大変なんです。そのことは日本人には分かりにくいと思います。ロンドンにも多くの日本人がいますがそのほとんどは日本を背負ったままです。日本を背負わずに向こうの生活に馴染めば、普通に暮らせるようになります。

日本を脱出して他の国に住むことが、これまでのように例外的行為でなく、気軽に口に出せる目標になってしまったのだ。日本を脱出したがっている人々も増え続けていた。

うーん、考えていたわけではないんだけど、昔カナダの短編映画で、ああやってお尻にハートを描いて、矢を突き刺すやつがあったんですよ。

困ったことに、これからも日本に残って欲しい人材ほど、海外でも仕事ができる。これからの日本に必要なのは、海外でも仕事ができるような何らかのスキルを持った人間たちだ。公共心がどうのこうのとたわごとを並べるだけのバカは本当は要らない。

ローマ帝国の入り口まで攻め上った。モンゴル軍は、信じられない距離を移動した。ユーラシア大陸の端から端だよ。そして、この遠征軍の主力は、少年兵だったんだ」少年兵と言う言葉が、5人の中学生たちの顔を輝かせた。ポンちゃんはノートパソコンのモニターを全く見ていない。子供の顔になって、後藤を見ている。「千戸のうち200戸と言う割合で、各家族から1人、10代の少年が戦士として参加したわけです。しかも、彼らは10代の前半だった。妻子がいて家族を支えなければいけない大人の男が、兵隊として大量に採られると、国家基盤が揺らぐことになるんです。10代前半の少年だったら、彼らが遠い戦場へ出ても国家の基盤がある家族は維持されるわけ。考えてごらんよ。ユーラシア大陸の端から端まで、行って、帰ってくるのに、10年近くかかるんだよ。戦争しながら行くわけだから。少年たちは、部隊の中核となって、実際の戦闘で訓練を積みながら遠征を続け、様々な国でいろいろな経験をして、優秀な選手に成長するわけです。故郷に戻ってくるときには、20代半ばの素晴らしい姿になっている。10代前半の少年兵には、妻も子供もいないから、自由で、言葉や風習の違う国に行っても、すぐにその土地に馴染むんだ。

そんな事は大人になってから言うものだ。子供のくせにわかったようなことを言うんじゃない。誰のおかげでここまで大きくなったと思ってるんだ。大人の世界には大人にしかわからないことがあるんだ。そういう表現は、わかりやすく翻訳するとすべて「うるさい、黙れ」と言うことになる。

大前提的な庇護を失い、個人が個人として生きるようになると言う概念をまだ日本人は持つことができないでいるが、共同体と個人の関係性だけはなし崩し的に既に変わりつつある。誰かに何かをしてあげたい、誰かに何かをしてあげることができる存在になりたいと言う思いが、どれだけ普遍的で、切実なものかをこれから日本人は思い知るようになると思う。競争社会では、嫉妬や自己嫌悪が人間の当たり前の感情だということがよりはっきりするだろう。

「現代の最も大きな問題は高齢化社会と少子化です。ただ人口は別に少なくてもかまわないわけです。少子化は全体の人口がさほど減らないのに労働人口が減ることが問題になっているのです。はっきりいますが、老人はこの日本に必要無いのではないでしょうか。老人は大体非常に怒っていて、ほとんど仕事ができません。医療費がタダなのいいことに、毎日病院に通って、病院をサロンがわりに使っている老人がものすごく大勢いるのです。老人の介護が大変な労働です。僕の家にも祖母がずっと寝たきりでいたのでわかります。僕の母はずっと祖母の世話をしてきて自分の人生を台無しにしたと言っていました。そこで提案ですが、現代の「姨捨山」を作ればいいと思います。

私は関口さんと初めてお会いします。だから、関口さんがどんな人で、どういう価値観をお持ちで、どういった体験をしてきた人か分かりませんよね。当たり前のことですが、こういう場合は慎重になる必要があって、情報の提示の仕方も一般的になります。そういうコミニケーションのやり方は、建前、という風に誤解されて、評判が良くないのですが、世界的には常識です。日本で言うところの本音も建前も実は同じものです。自分の利益を隠すか、それともあからさまに示すか、と言う違いがあるだけで、だから本当は建前の本音も、両方とも醜いんです」そういうことを話した後で、山方はグラスに残っていたコニャックを飲み干し、一瞬悲しそうな表情をした。山方のことが少なくとも2つわかったと俺は思った。よくしゃべること、それと孤独なことだ。

居酒屋で群れているサラリーマンを見てください。彼らにしかわからない貧弱な言葉で、群れの中で笑い、群れの中で叫ぶだけです。個人として対面すると何も話せない。話すこともないし話し方も知らないし、コミニケーションが努力なしでも成立すると思っています。フリースクールの子供たちは、まず孤独です。不登校と言う大変な状況の中で、自分を確認しなくてはいけないので、自然と言葉を獲得しようとするわけです。彼らは本をよく読むし、これから自分はどういう風に生きていけばいいのかと言うことを考えていて、他人の話をよく聞きます。必死で理解しようとするわけです。自分の生き方を他人に説明したり、他人の意見を理解すると言う事は彼らにとって死活問題だらけです。

彼らは、コミュニケーションが自明ではなく、分かり合えることよりわかりあえないことの方がはるかに多いと言うことを知っているんですね。言葉の行き違いと言うことにも敏感だし、ひょっとしたら自分たちはこの人の行ったことのニュアンスを取り違えているのかもしれない、と言う危機感もあるわけです。

外国から帰ってくるとどうしてみんな生き生きとするのだろう。由美子が台湾滞在は10日間だった。急用に行ったわけではない。インタビューは疲れた、と由美子は言うが、とても元気そうだ。

ほぼ恒例になっている1ヵ月に1度のディナーだ。

長い不況を通して国民はあることに気づいた。それは今後日本経済が本格的に回復することがあっても昔のように国民が一律に豊かになる事は無い、と言うことだ。

俺は悲しい気分になっていた。何か無駄な繰り返しが若い頃に必要だとか、そういう風には決して思わない。安心できるものに囲まれて暮らす方が平凡だけど幸福なのだとも思わない。ただ確かなことがあるような気がした。それは、無駄なことの繰り返しは俺たちを安心させると言うことで、そのことが妙に悲しかったのだ。

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