血の轍 (4) – 押見修造

本当に気持ちの悪い話。
ひとつ思ったのは、この話に出てくる人は、目に光がない場面があり、それが感情を持たないように見えて気持ち悪さを増しているのではと。

最近 apple pencil を使い始めたが、こういった漫画も apple pencil で可能性が高いかもしれない。
まだ使い込みが足りないからか、鉛筆やマーカーを手に持って描く方が自由が効くこともあるが、apple pencil + adobe skech だからできる表現も多々ああり、これまでのwacom tablet + illustrator の組み合わせなんかよりずっと描きやすくなっている。デジタルドローイングを使って何かできるぞ。

インベスターZ(2) – 三田紀房

まさか自分が株や仮想通貨に興味を持つとは思っていなかったが、資産を作って運用するべきだという考えに至った。

通常のラインは 利食いのラインは20% 損切り10%

人差し指より薬指が長い男 成功するのはそういう男の人なんだって

オレはそういう男の人やでっ。

漫画 君たちはどう生きるか – 吉野 源三郎 (著), 羽賀 翔一 (イラスト)

佐渡島庸平氏が関わっていると知り。
ipadで読んだからか、あまり開く機会がなく、時間がかかったが、終盤に自分にとって今大事になっている言葉と出会った。

世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決してすくなくない。
人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気概を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。

他にもいい言葉はあったが、今の自分に欠けている、大事な言葉だったので、ほかは記録せずに、これだけを記録しておくことにする。

「デザイン思考」を超えるデザイン思考 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文 – 濱口秀司

デザイン思考という言葉を世に広めたのは、IDEOのCEOティム・ブラウンとされている。彼はデザイン思考を「デザイナーの感性と手法を用いて、顧客価値と地上機械の創出を図るもの」と定義した。

つまり、狭義のデザインにとどまらず、ビジネス上の問題解決などを設計する手法としてデザインをとらえ始めたのである。

さらに、ここ10年で興味深い変化が起きている。それは「ストーリー価値」の台頭である。顧客は意味性を重視するようになっているのだ。
たとえば、いま米国で最も売れているBeatsというヘッドホンは典型的である。ビーツにはまず、低音が素晴らしいという機能価値がある。また、ファッション性も非常に高い。さらにこれは、人気ラッパかつプロデューサーのドクター・ドレー公認のブランドである。彼が、音楽ではなく音づくりを始めたというストーリー性も加わり、爆発的ヒットを記録している。

キッチン – 吉本ばなな

吉本ばななの「TSUGUMI」が古本屋の棚に並んでいて、昔々あまり本を読む人ではない母親が読んでいた記憶が出てきて手にとって見ると、同じ女性作家だからか、訳者のしわざいうことなのか、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちわ」と感じが似ているところがあり、とてもおもしろく読んだ。
その後にエッセイも1冊読んでみたが、あまり響かずに、デビュー作の「キッチン」を読みたくていたんだが、「TSUGUMI」と同じくたまたま古本屋で見つけて、手にとった。

ほんの少し知った後でも彼のその、どうしてか“冷たい”印象は変わらなかった。ふるまいや口調がどんなにやさしくても彼は、ひとりで生きている感じがした。つまり彼はその程度の知り合いにすぎない、赤の他人だったのだ。

甘やかな色

この世にはーきっと、悲しいことなんか、なんにもありはしない。なにひとつなにに違いない。

先は長い。くりかえしくりかえしやってくる夜や朝の中では、いつかまたこのひと時も、夢になってゆくかもしれないのだから。

ねえ雄一、世の中にはいろんな人がいるわね。私には理解しがたい、暗い泥の中で生きている人がいる。人の嫌悪するようなことをわざとして、人の気を引こうとする人、それが高じて自分を追いつめてしまうような、私にはそんな気持ちがわからない。いかに力強く苦しんでいても同情の余地はないわ。だって私、体を張って明るく生きてきたんだもん。

彼女たちは幸せを生きている。どんなに学んでもその幸せの域を出ないように教育されている。たぶん、暖かな両親に。そして本当に楽しいことを、知りはしない。どちらがいいのかなんて、人は選べない。その人はその人を生きるようにできている。幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。私も、そういうのいいな、と思う。エプロンをして花のように笑い、料理を習い、精一杯悩んだり迷ったりしながら恋をして嫁いでゆく。そういうの、すてきだな、と思う。美しくて優やさしい。ことにひどく疲れていたり、ふきでものができたり、寂しい夜に電話をかけまくっても友人がみんな出払っていたりする時、生まれも育ちもなにもかも、私は人生自分の人生を嫌悪する。すべてを後悔してしまう。

ひかえめで、親切で、がまんがきく。

典ちゃんは、ふわふわの長い髪を押さえながら少し笑って、鈴のような声で母親と電話をする。

月明かりの下を歩きながら、私は心底、ずっとこうして旅をして生きてゆけたらいいだろうなと思った。

人はみんあ、道はたくさんあって、自分で選ぶことができると思っている。選ぶ瞬間を夢見ている、と言ったほうが近いのかもしれない。私も、そうだった。しかし今、知った。はっきりと言葉にして知ったのだ。消して運命論的な意味ではなくて、道はいつも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、くりかえす日々が自然と決めてしまうのだ。

ねえ雄一、私、雄一を失いたくない。私たちはずっと、とても寂しいけどふわふわして楽なところにいた。死はあんまり重いから、本当はそんなこと知らないはずの若い私たちはそうするしかなかったの。…今より後は、私といると苦しいことや面倒くさいことや汚いことも見てしまうかもしれないけれど、雄一さえもしよければ、二人してもっと大変で、もっと明るいところへ行こう。元気になってからでいいから、ゆっくり考えてみて。このまま、消えてしまわないで。

アンガーマネジメント入門 – 安藤俊介

怒ることとネガティブなことは、自分を良い方向に持っていかないという当たり前のことに気づき、怒ることを止めて、明るくいることを実践することにした。
実際に怒りを抑えることを意識すると、これまでなら怒って終わっていたコミュニケーションが、滞りなく進む場面に何度か出会い実感を得た。

そうすると、市川さんは、「注意をされたり、違う意見を出されたときに、自分を否定されたと感じる」というコアビリーフがあると気づきました。


「認識の修正」とは、まず自分がどうして怒るのかを記録し、客観的に把握することが基本です。

できるだけ表面的でも、演技でもいいので、怒らないようにふるまうのです。
「認識の修正」は自分自身の怒りを客観視して、よく知ることから始まります。どうしてイライラしてしまうのか、どのような状況で怒りを抱くのか、どのくらい強い怒りなのか
これをおこなっていると、自分が当たり前と思っていることでも、周囲の人は当たり前と思っていないことはいくらでもあることに気づきます。
自分の思いを主張すること。と同時に、相手の思いを聞くこと。その二つを考えながら、攻撃的になることなく、素直で率直に自分の思いを伝える。

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」- 山口 周

この本は僕のような人間には勇気を与えてくれると思う。論理に弱く、自分の感覚や完成には自信があるような人。僕らは、感覚を引き続き磨き上げながら、論理的思考も鍛えていけば、世間との大事な強い接点をつくりあげていくことができるはずだ。
企業活動というのは極めて多岐にわたる複雑な要素によって構成される全体的システムであり、従って経営の健全性は、必ずしもこのような「計測可能な指標」だけによって計れるわけではありませんし、そもそも、計られるべきではないでしょうl
高い視座でビジョンを持つことと、日常の些事に煩わされることは決して矛盾するわけではありません。自分たちが生を営んでいるこの世界はロクでもないものだということを知りつつ格闘しながら、それをどのようにしてより良いものに変えていけるかを、あきらめずに考え続けること、希望を失わないことが大事です。
絵を描くことはリーダーに求められる様々な認識能力を高めることがわかっており、実際に自ら芸術的な趣味を実践しているという人ほど、知的パフォーマンスが高いという統計結果もある
どこの統計結果かは知らないが、そうであると嬉しい。
一言で言えば「エッセンスをすくいとって、後は切り捨てる」ということです。そのエッセンスを視覚的に表現すればデザインになり、そのエッセンスを文章で表現すればコピーになり、そのエッセンスを経営の文脈で表現すればビジョンや戦略ということになります。
なにをしないのか決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。会社についてもそうだし、製品についてもそうだ。 -スティーブ・ジョブズ
美しい手を指す、美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながると思う。正しい手を指すためにどうするかではなく、美しい手を指すことを目指せば、正しい手になるだろうと考えています。このアプローチのほうが早いような気がします。 -羽生善治
会社を始める頃に抱いていた僕の考えはあながち間違っていたわけではない。日々仕事をしていると、競争意識やこなさなければいけない仕事などがあるが、そういうことに押しつぶされずに自分の想いを進めていかなければならない。
「偏差値は高いが美意識は低い」という人たち

チンギスハーン3 – 横山 光輝

これはテムジンに対して おまえが勝手になるなら われ等も勝手にやるぞという 意思表示であった

例えば列に並んでいて、自分の前に誰かが割り込んできた場合、こちらも同じ様に、もしくは別の誰かがおまえの前に割り込んでもいいんだよな? という風に考えてきたが、こういう考えでは怒り続けないとならないので疲れてしまうのかも知れない。 きっと身内に不幸が起こったなどのどうしょうもない理由でとにかく急いでいるんだと考えて、だから仕方ないよなと考えられる方が良いのかも知れないが、まだまだしばらく訓練が必要そうだ。

観察の練習 – 菅俊一

デッサンの練習やデザインに関しての考察のため、観察の練習というタイトルに惹かれて買ったのだが、中身は昔あった「VOW」という街のおかしなものを投稿型で紹介していくというような雑誌に近い、写真とコメントというスタイルであまり心に残るものではなかった。

つまり、店員が発した「いらっしゃいませ」という言葉は、私(客)が「すいません」と声を掛ける前に、同僚に客が来ているということを知らせる合図だったのだ。

きめ細かいサービスといえばそうなのかも知れないが、客が店員に声をかければすむだけの話だし、それくらいの簡単な話が気軽にやれるくらいの関係の方がやりやすいだろうと思う。

内容を見ると「みんな見ていますよ/飼い主さん/犬のフンはちゃんと/持ち帰ってくださいね」と書かれており、犬の散歩をしている飼い主に向けたメッセージであることが分かる。


デザイナーの高橋ヨシキ氏が、このステッカーに対し「見てんじゃねーよ!」と一蹴。ジョージ・オーウェルの1984の世界がこれ。

タイ語発音教室―基礎からネイティブの音まで – 岡滋訓

長い間 เอ と แอ の違いが曖昧で、はっきりと違いを認識して言うことが出来ないから、聞くこともできなくて、新しい単語を聞いたときも เอ で探せなければ แอ で探して見つかるという具合で、ずっと矯正したいと思っていて、まだタイ語学校に通っていた頃に、発音の練習にこの本を買って、かなり役に立った記憶があり改めて数年ぶりに購入。

読んでみて、なるほど良く分かった。この本とネット検索していたら เอ は日本語の え の音。 แอ は日本語で「いーだ」の口をしながら え の音。という解説も見つけて、それも役に立った。
タイ語は発音がとても大事だが、発音のことを書いている本は少ないので、タイ語の発音をものにしたいという人にはきっと役に立つ本。CD付きでおすすめです。

コンビニ人間 – 村田沙耶香

芥川賞をとった作品で久米宏がおもしろいと言っていたのに興味を持って。

現代人と言っても漱石の頃からも個人で生きていくことに悩み始めていて、今も変わらずに同じ問題があり、「個人で」「個人の」という割には他人に干渉するのが好きだから、なんともやっかいで、他人の望む自分になっていくことを選んでいく。
これ、人間としてみるとそれでいいのかって思うけど、ビジネスで考えると、顧客の望むものを提供する必要がある。ずば抜けた作家性や頑固なラーメン屋のように、やりたいようにやることでファンをつくるってのもあるけど、それは敷居が高い。とすると顧客の望むものを知りたいし、やりたいこととの間を狙っていけば大衆化しすぎずに自分らしさみたいなものを残せるかもしれない。
自分の在り方においても同じで、他人と何をどこまで共有するか。本当に他人との関わりが一番のイシューだよなと思うけど、三菱重工だか何かの関連の社長をやっていた母方の祖父が「他人との関わりが一番むずかしい」と言っていたと母から聞いたが、その解決方は聞いておらず、難しいよねで終わらしていては意味がないので、自分にとって良い加減の関わり方を作り上げなければいけない。

http://book.masatoshigoto.asia/2018-aug-10/
SNSを使ってのこの時代での関係の築き方の考えを前進させた一冊。

皆が悲壮な顔で止めてと言っても収まらないので、黙ってもらおうと思って先生に走り寄ってスカートとパンツを勢いよく下ろした。若い女の先生は仰天して泣き出して、静かになった。

幼稚園の年少か年長の頃、さすがに年長だと思うが、お遊戯だか自由時間だか何かの時間に、先生の周りに園児が集まって、先生に抱きついたり、誰かは先生に抱っこをされていたりしてワイワイと騒いで、「◯◯せんせ〜い」とか何とか先生を大声で読んでいるような時間に、ぼくが「おい、〇〇!」と先生の下の名前を叫んだら、その女性の先生は「誰だ、今言ったのは?」と怒り出し、僕はしらばっくれたことがあったのを思い出した。嫌なガキだな。

特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。
大抵のひとはそうなのではないかと、私は思っている。

環境の影響は強いよね。僕はひとりでいることが多く、そういう人はあまり他人の影響を受けない代わりにどうなるかというと、声が小さくなっていくし、顔の筋肉が固くなっていく、と思っている。

「付き合ったこととか… 恵子からそういう話、そういえば聞いたことないなって」
「ああ、ないよ」
反射的に正直に答えてしまい、皆が黙り込んだ。困惑した表情を浮かべながら、目配せをしている。ああそうだ、こういうときは、「うーん、いい感じになったことはあるけど、私って見る目がないんだよねー」と曖昧に答えて、付き合った経験はないものの、不倫かなにかの事情がある恋愛経験はあって、肉体関係をもったこともちゃんとありそうな雰囲気で返事をしたほうがいいと、以前妹が教えてくれていたのだった。「プライペートな質問は、ぼやかして答えれば、向こうが勝手に解釈してくれるから」と言われていたのに、失敗したな、と思う。

何かを見下している人は、特に目の形が面白くなる。そこに、反論に対する怯えや警戒、もしくは、反発してくるなら受けてたってやるぞという好戦的な光が宿っている場合もあれば、無意識に見下しているときは、優越感の混ざった恍惚とした快楽でできた液体に目玉が浸り、幕が張っている場合もある。

私が「恋愛をしたことがない」と言ったときより皆うれしそうで、そして全てわかっているから、という口ぶりで話し続けている。恋愛もセックスもしたことがない、就職もしたことがない、前の私のことは、たまに理解不能だというリアクションを示したが、白羽さんを家に住まわせている私のことは、未来のことまで全てお見通しだと言わんばかりだった。