ペスト – カミュ

「今日、ママンが死んだ」の異邦人を読んで、ペストと転落もバンコクの本棚でなかなか読むことにはならずに長く積読していたが、このロックダウンで売れている本に入っているということで、日本で新しく購入。

そう言えば、異邦人は映画になっていたのを思い出して、ひょっとするとペストも、と思ってみるとあるみたい。https://en.wikipedia.org/wiki/The_Plague_(1992_film)
残念ながらyoutubeにはない。

ここのところ自社サイトのリニューアルに時間と頭を使っていて、入浴中にやっていた読書もリニューアルまでの残りの作業やどうやって成果に繋げていくかといようなことばかりを考えているので、まったく集中できなかった。本当はそういう風に仕事のことで熱くなった頭をクールダウンさせるために小説を読めると良いと思うのだが、猛烈にとりくんでいるので、そういう余裕がないのかもしれない。

なので、ほとんど小説が残っていない。ウェブサイトはかならず成果に結びつくものにするし、そうなるだろう。

したがって、この町で人々が愛し合うその愛し方を明確に描くことは、かならずしも必要でない。男たちと女たちとは、愛欲の営みと称せられるもののなかで急速に食い尽くし合うか、さもなければ、二人同士のながい習慣のなかにはまり込むかである。この両極の間に、中間というものはそう見かけない。これもまた特異なことではない。オランでも他のところでも、時間と反省がないままにん、人々はそれと知らずに愛し合うことをいかにも余儀なくされているのである。

戦争が勃発すると、人々はいうー「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行はしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。

天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。

よく何か良くないことがあると、「止まない雨はない」というようなことを言う。今回のコロナの件でも何度か聞いたが、「いや、待てよ。そんなこともないよな」という考えがよぎった。止まない雨だってあるし、何かの問題に苦しみその問題が解決されないままに自分の命の方が先に終えることだって世界にはたくさんあるはずだ。だからと言って悲観的に生きろということでは全くないが、なるべく現実に沿って生きていたいと思うということだ。

メランコリック

「憂鬱(ゆううつ)なさま」や「ふさぎ込んでいるさま」を意味する言葉
一時村上龍の本によく出てきたような印象のある言葉。

この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この街の市民に、あたかも個人的感情など持たぬ者のように振る舞うことを余儀なくさせた、といってもいい。

我々が、自分たちは全く妥協の余地のない状態の中にあり、「折れ合う」とか「特典」とか「例外」とか言う言葉は全く意味がなくなっていることを納得するまでには、多くの日数を要したのである。

彼らはこのようにして、何の役にも立たない記憶を抱いて生活すると言う、すべての囚人、すべて流刑者の深刻な苦しみを味わった。

これも言っておかねばならぬが、ベストはすべてのものから、恋愛とさらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛はいくらかの未来を要求するものであり、しかも我々にとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。

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