BRUTUS(ブルータス) 2019年10/15号No.902[バンコク 見る、買う、食べる、101のこと。]

雑誌なんてパラパラとめくるものだし、わざわざこうして記録しておくこともないとも思うのだが、バンコクに住んでいるだけに、こういう雑誌が出た、読んだ、文章書いた、写真の一部を担当したみたいな話がツイートで流れてきて、普段だとへそ曲がりで偏屈なボクはこの手のものに手を向けないのだが、日本へ向かう飛行機の座席の前のポケットに「山の音」を入れたまま飛行機を降りてしまったので、近くのブックオフだった場所に行ってみると、すでにそこはファミリーマートに変わっていて、雑誌売場に足を運ぶと鉄道市場の写真が目に入ったので。と言い訳のような前置きはこれくらいにして、最近は会社案内やフリーペーパーに掲載する広告それに名刺など印刷物をお願いされることも増えてくると、雑誌のような多量のページデザインを、それもものすごい量の文章と写真の量もあり、校正もあって、雑誌のデザイナーはすごいなと関心して、尊敬しました。

デザイン・ルールとトンマナを決めて、今号の場合だとバンコク特集ということで、タイ国旗の赤青白を使って、細い罫線と点線を使うみたいなことがあり、あとは何人かのデザイナーで自由に、みたいな感じなのだろうか? 原稿を書いた人の名前をみるとほとんどが、以前までダコの編集長をやっていた Mai Miyajima さんで、これだけの量をほとんど一人で書いてしまうんだなと本当に感心した。ひょっとするとデザイナーも一人で、どちらも前もって頭の中で全体の構成を描いて、その場その場で処理を行っていっちゃったりするのかな、と思いつつも、やっぱりある程度の大枠を作ったほうが捗りそうだなと思い直した。写真の切り抜きは誰かにやってもらうとして、それ以外は一人でもやれないことはないだろうが、入稿前は結構たいへんなことになりそう。

ウェブと違ってコーディングをせずによく、印刷に出してしまったら修正ができないので、そこまで、という潔さもあり、雑誌のデザインはかっこいいよなあ。思えばデザイナーを目指した頃、やはり自分にとってのそれはウェブデザイナーだったんだよな。当時衝撃を受けたフラッシュがそれの中心にあって、特に目指したかったのはGyagaやWarner Brosなんかの映画配給会社のウェブデザイナーで確か働かしてもらいたい旨をメールしたけど返事がなかったんだよな。その後、小学時代を共に過ごした友人とばったり会うと、東北新社でプロデューサーか何かをやっていて、同僚のデザイナーが海外の映画を日本で上映するにあたって用意する日本語用のロゴが初めて採用されたのがいる、みたいな話を聞いて悔しい思いをしたのを思い出した。

BRUTUSのバンコク特集。白を基調にさっぱりと、切り抜き画像多様して、グリッドとグリッドをはみ出すレイアウトが混在して全体的に、遊び心のある感じというありきたりの言葉しか浮かんでこないが、個人的に好きなデザインで勉強になりました。

そういえば、この2週間の間、先週は土曜日、今週は土日ともに仕事をほとんどしなかった。こうして意識的に働かない時間をつくって頭の管理をしていかないといけない。こういう時間のある人生を。

不幸な子供 – エドワード・ゴーリー

オリラジ中田あっちゃんのおすすめで。

プレゼンがあまりに上手で、楽しみになってバンコクの紀伊国屋に行ってみたが、英語版も含めて全店に置いてなく、しかたなく日本行きを待って購入。

正直、期待をしすぎてその期待を越えては来なかったが、このエドワード・ゴーリーという人がアナグラムで名前をいじって別名で作品を発表しているなど、そのやり方が最高で、もう少し別の本も読んでみないといけない。

そしてこの先絵本を描くことを決めた。
その昔、漫画家になる夢を持ったが、小学生の頃の漫画クラブで、話を考える難しさを知り挫折。しかし、改めて、ストーリーも考えて、絵本を作る。必ず。

鍵 – 谷崎潤一郎

実家の書架にあったものを4,5年ぶりに引っ張り出してきて読み直した。
まず、何がすごいと言って、棟方志功の装丁と挿絵。
大雑把に考えられているような画風であり、繊細に考えられているようにも見えるが
実際に棟方志功がそれらを考えていたのか、天然で出来上がっているのか分からぬがいい感じ。
マティスや熊谷守一なんかも晩年には、そんな言葉でまとめてよいのか分からぬが、ここでは「シンプル」と言わせてもらうとシンプルになっていく。
今のうちのごちゃごちゃと屁理屈をこねて晩年にはシンプルなものになっていくのか。
こういうのも、その作家の歴史というものがあって、色々経てシンプルになるところに魅力があったりもするので、一概にシンプルが良いってわけでもないからおもしろい。

中で面白いのは、男の視点から書かれるのと、女の視点から書かれるのとで、字体を変えているところ。これを字体と呼ぶべきか分からぬが、男の場合にはカタカナと漢字を使い、女の場合にはひらがなと漢字が使われる。その漢字も旧字体が使われている。最近の作品でこれをやるのは無理があるのだろうが、当時は(昭和31年初版)まだこれが通ったのだろうか。ちなみに、当時のこの本の値段が三五〇圓とある。

青空文庫を見てみると、書籍と同じ用に再現されている。難しい漢字やルビも含めて、データ化するのは大変だったろう。

ソレハ四十五歳ノ女ノ足ノヨウニハ思エナイ)ノ所有者デアルヿヲ知ッテイナガラ、イヤ知ッテイルガユエニ、メッタニソノ足ヲ僕ニ見セヨウトシナイ。真夏ノ暑イ盛リデモ彼女ハ大概足袋ヲ穿はイテイル。セメテソノ足ノ甲ニ接吻サセテクレト云ッテモ、マア汚きたなイトカ、コンナ所ニ触さわルモノデハアリマセントカ云ッテ、ナカナカ願イヲ聴きイテクレナイ。

昔45才といえば、ずいぶん年の離れた遠い先のことで、あの頃、45才の女性と言えば、こんな事を言っては何だが、おばさんであり、お母さんのようであったが、実際に近づいてみると、自分と同年代の45年分の経験を持った女性に魅力を感じるようになる。若い女性が好きなのもいるがボクにはそれは良く分からない。

矢立(やたて)

画期的に思える道具。使い終わった後、筒の中に筆を収めてしまうと、乾いた筆先はカチカチになってしまうだろうが、それはどうするのか。翌日などにすぐに開けて、手でもみほぐしてまた使えばよい、という程度に考えるのであろうか。

浅ましい趣味ではあるけれども、夫は私の裸体を見ることが好きなのであるから、せめて夫に忠実な妻の勤めとして、知らないうちにハダカにされることぐらいは忍耐しなければいけないと思う。

男女平等みたいなことが言われて久しいし、どちらが上も下も無いのは事実であるが、自分の母親なんかをみると、一緒に買い物にでかけ、重そうに買い物袋を持っているのを見て、持つよと声をかけると、男に持たせるわけにはいかないわよ。と言う。そんなことはどうでもいいから、というと、あんたは海外に住んでるからそういう風な考え方をするんだね。いいから、いいから。と答えが帰ってくる。別に抑圧されているという印象はない。もちろんそれ自体が抑圧された結果だという見方もあるが、こういう人は不幸だから開放するのだというような考えに、余計なお世話だと返すのもよいではないか。

若筍わかたけの吸い物、蚕豆(そらまめ)の塩うで、きぬさやと高野豆腐こうやどうふの焚たき合せ、

当時の日本を思わせる食事。これはフランス文学やロシア文学の食卓にはあがらない。自分が子供の頃でも蚕豆の塩うでは目にした。

234ページ中67枚もある棟方志功の挿絵の一部
版画ならではの表現が光る


着物からら出ている肌の白さ


乳首を隠すように布団がかぶさっている


背景のサイケデリックさ


着物の柄


こちらも着物の柄が素晴らしい


背景の植物と削り漏れのような後だが、細かいことは気にすることない態度


見開きページのための2枚綴りの作品。さらにこの下に文字が並ぶレイアウトが書籍のデザインとして良い。1行が短くなる気持ちよさは河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也においても全体で使われており、贅沢にも感じ


上から見下ろす構図


女の耳に輝くイヤリング

棟方志功の作品集のように多くの作品見られるこの古い書籍が以外にもアマゾンで216円などで売られているので、好きな方はぜひ買ってみてみていただきたい。