白痴 2 – ドストエフスキー

2巻目読了。いよいよ残すところ第3巻のみ。
他の本も読みつつ、年内から年明け少しくらいまでに読み終わらせたい。

これがまた有名人、しかもきわめて良き意味で有名な人物なのであった。これは近年に出現した有る種の人物群、というよりもむしろ活動家群の一人であって、高潔にして謙虚、衷心からの意識的に有益なるものを求め、たえず働き、しかも常になすべき仕事を見出すという、めったにない幸福な才能に恵まれていた。

素寒貧

去勢派信徒

スコペッツ=十八世紀後半に生まれたキリスト教系異端派セクトのひとつで、去勢による肉欲からの解放を実戦した。

ただし本当のところは分かりはしない。新しい土地で新しい人たちのことを見抜くなんて、生易しいことではない

諸君は−科学や、工業や、協同組合や、労働報酬や、その他もろもろのもので生きている諸君は、いったい何をもって世界を救おうとされるのか、世界の進むべきまっとうな道をどこに見つけられたというのですが? ええ? 信用クレジットで世界を救おうというのですか? 信用とはいったい何ですか? 信用が諸君をどこへ導いてくれるというのです?

ただし彼の意見では、緑や澄んだ大気は必ずやぼくの体になんらかの生理的な変化を引き起こすだろうし、ひいてはぼくの不安もぼくの夢も変わり、軽減されるかもしれない、というのだ。

コトバンクより、生理的とは
1 からだの機能や組織に関するさま。「生理的な現象」
2 理屈ではなく本能的であるさま。「生理的に嫌悪する」

八ヶ月ほど前、すでに体調がひどく悪化していたぼくは、あらゆる交際を絶ち、つきあっていた仲間ともすかり縁を切ってしまった。ぼくは普段からかなり無愛想な人間だったので、友人たちのほうも簡単にぼくのことを忘れた。きっとこんなことがなくたって、ぼくは忘れられていたことだろう。

世の中にはカッとしやすい自分の性格に非常な満足を覚えている人間がいるもので、とりわけかんしゃくが極限に達すると(とは言え必ずすぐにそこまで行くのだが)その満足もひとしおなのである。そうした瞬間には、彼らは腹を立てていないときよりも腹を立てているときのほうが、気分がいいようにさえ見えるくらいだ。そうして憤激した人間は、いつもあとになって後悔の念にさいなまれることになるーもちろんその人が賢くて、自分が十倍も余計に激昂してしまったことを反省する能力があればであるが。

「個別の『慈善』を否定する人間は」とぼくは話しはじめた。「人間の本性を否定し、個人の尊厳を馬鹿にしているのさ。ただし『慈善協会』のような組織の問題と個人の自由な活動の問題とは、それぞれ別個の事柄で、しかも互いを排除するわけではない。個別な善行はけっしてなくならないだろうお。なぜならそれは人間の欲求、すなわち一人の人間が他の人間にじかに働きかけたいという、生きた欲求だから。

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