モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書 – 尾原 和啓

まず、なぜあなたは、出世や金銭的な成功というニンジンを目の前にぶら下げられても走らないのでしょうか?

快楽・没頭・良好な人間関係・意味合い・達成

今は「どう遊ぶか」までを、提案してあげなければなりません。相手の潜在的な欲求を見つけ出して、体験をプロデュースしていくのが、これからの仕事なのです。

自分の遊び方くらい自分で探せと思うけど、実際に自分の好みを自分で見つけられない人が少なくなさそうで、ほとんどの人はひょっとするとそういう種類の人間なのかもしれないと思うと、そういう人らを見下すこともないのかもしれない。

「●●撮るならここから撮れ」とかいう記事なんかもあって、それをフォロワーの多い人間が発信するとそれが正解になって、皆その写真を撮りにその場所へ言って、そいつが言ってた角度から同じ用な写真をとって、同じ様にSNSにあげる。どっちを見てもバカが雁首揃えてるんだから、これを見下すこともないとはやっぱりボクは言えない。見下すこともないというのは、どうでもいいってことで。

自立とは、依存先を増やすこと

愛と幻想のファシズム(下)- 村上龍

下巻のかなりはじめの方に思っていたよりもうんとあっけなく、ゼロの言葉が出てきた。5ページ目。
そしてゼロの言葉だと記憶していたが、ゲッペルスの言葉。
また、広告でなく宣伝という言葉を選んで翻訳している意味は何か、この先の疑問とする。

ゲッペルスは、宣伝を次のように定義しています、『どんな種類の宣伝が有効か、また逆に無効かを決定する理論上の公式はない、望んだ結果を生み出す宣伝がよいのであり、それ以外はすべて悪い宣伝である、たとえどれほど魅力があってもである、宣伝の任務は、人を楽しませることではなく、結果を生み出すことにある……』

40ページくらい?、これもかなりはじめの方、クロマニヨンが福島兄弟を襲う辺りから気づくと引き込まれていた。空の浴槽に入って、シャワーから熱い湯を出して、湯をためながら本を読むのが習慣なのだが、気づくともう少しでお湯があふれるところまできていて、村上龍が「半島を出よ」の球場でロケットランチャーを撃つシーンを取り出して、「こういうのを書かせたら俺は得意だから。書けちゃうから。」というようなことを言っていて、半島を出よを書いた時よりももっと若かった村上龍の感じがたまらなく思う。そういう台詞を言うことに少し抵抗を感じてしまいそうになるが、そうではないのだと思う。矢沢永吉も「自分のことをできるんだって言ってやらなきゃダメだよ」と謙虚なのか自身がないのかで「ボクのはたいしたことじゃないけど、なんていうならやめちまえ」と。

たまに「カンブリア宮殿」が面白くて見るのだが、今の村上龍は当たり前だが、年を重ねていて、それは同じだけボクも歳を重ねているのだが、もう今の村上龍にはこういう作品は書けないし、別に書こうとも思わないのだろう。何かというと今、今の自分がやれることを全力で出していくっていう当たり前のことしかやれないんだなと思った。

結局、ゼロが言うゲッペルスの言葉が再確認できてから、どうも気が乗らなくなり、福島兄弟を襲うシーンが終わると読む気がなくなって半分くらいで読むのを止めにした。

狩猟者が数ある政治結社の中でも群を抜いた戦闘部隊を持つことを示しました、組織の結束はより強固になり、支持者も増やすことができたのは、何よりも『クロマニヨン』の攻撃精神だと思うのです。

ゲッペルスは、ヒトラーからベルリンの体管区長に選ばれて、『アタック』という気管支を発行しました。

相互依存は恐ろしい勢いで進んでいた。日本人はそのことに最も無知な民族だった。南の人々、第三世界の人々、アジアの中進国の人々はよく知っていた。彼らは痛めつけられていたからだ。自分たちの怠慢や失敗だけが、不幸の原因ではないのだと、よくわかっていた。

無条件降伏とは何だ? それも、本土決戦もせずに…ナチスドイツはしようがないよ、ベルリンが落ちたんだから、もう戦いようがない、しかし日本は違う、オレは今でもプライドを持てないね、たかが原爆二個で降伏しやがって、米軍は日本上陸に関して米兵の死者を五十万と見ていたというから、どうしてギブアップしたんだ? ベトナムごとき小国が勝った例もあるんだぜ、それほど侵攻作戦は難しいんだ、米軍の戦死予測は正しいと思うよ、それなのに、どうして平気で降伏したの?

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~ – 影山知明

Takramキャストで聴いて。Takramから得られる情報は、例えばAutomagicから得られる情報とは種類が違って、Automagicではより技術的なことやWEBとビジネスをどううまくやっていくかというようなどちらかと言うと鋭い部分を持った情報で、かたやTakramの方では、優しく生きていくために仕事や経済活動とどう共存するかというような、心の柔らかいところを擦られて温められるような感じになる。

「急がばまわれ」と言ってもいい。目的地への到達を急ぐのであればあるほど、むしろ目の前のこと、足元のことを一つ一つ丁寧に進めた方がいい。もしくは一つ一つ丁寧に進めていけば、存外早く目的地に到達できるものだ。

例えば、お店の評判や認知度を上げたいと思うとき。一つの方法は広告宣伝費を大量に使うことだが、実はそれよりも、お店を訪ねてくださるお一人お一人に丁寧に向き合うことを積み重ねていった方が、長い目で見たら近道ということは大いにある。かと言って、のんびりやっていればいいということでもない。一つ一つ、一かき一かきには全力を尽くす。

また、少しトーンは違うものの、近年では「降りていく生き方」「減速生活者(ダウンシフターズ)」といった言葉まで登場し、競争社会から少し離れ、少ない消費で、少ない収入でも等身大の充足感を実現する暮らし方の提唱も起こっている。

ぼくは常々、この中間がいいなと思ってきた。

一般に、不特定多数の、顔の見えない参加者を想定した市場では、複雑な価値の交換は成り立ちにくい。それが「多くの人に、普遍的に認められる価値」である必要があるからだ。 結果、「お金」「金銭的価値」への収斂(しゅうれん)が進む。同じモノなら安ければ安いほどいいという具合だ。ところがこれが、「私」と「あなた」のような顔の見える関係となれば必ずしもそうではなくなってくる。他の人がなんと言おうと、それが世の中一般に受け入れられている価値ではなかったとしても、「私」がそこに価値を認めるのであれば、「あなた」との間で交換が成り立つ。

経済学は、自己利潤を最大化させようと行動する主体をその前提として置いている。そして実際、そうした緊張感のある「交換/取引」の積み重ねが結果として社会の生産性を高め、ものの値段を安くし、便利や革新をもたらすという説明もそれはそれで理解しているつもりだ。 ただ、社会のすべてが、こうした「取引/交換」にで埋め尽くされていなくてもいい。

もしくlはお店に返ってこなかったとしても、その「受け取った」ことによる「健全な負債感」は、その人をして帰り道に路上のゴミをも拾わせるかもしれないし、電車でおばあさんい席を譲る気持ちにさせるかもしれない。

そもそも人が銀行にお金を預ける理由とはなんだろうか。それには振込など決済の利便性という利便性もあるだろうが、一つの理由はきっと「利子がつくから」だ。また、人が株を買う理由は「配当や値上がり益を期待して」。つまり、世の中のこうしたお金のやり取り(金融取引)では、そのほとんどがテイクを動機としている。となるとお金を預かる方も預かる方で、合わせ鏡のように振る舞うことになる。同じお泣けを受け取るなら、やり取りにかかるコスト/労力をできるだけ極小化しようとする。結果、「窓口よりATMへ。ATMよりネットへ」と推奨することになる。

お返しするのは、まず何より「約束に違わないお店」としてぼくらが日々在ることだろう。そして、特定多数の応援コミュニティに支えられたお店は経済的にも成長し、数年後、結果的に預かった以上のお金でお返しをできるようになるかもしれない。

習慣化する「利用し合う」人間関係

自分が目の前の相手に、どう力になれるか。「支援する」姿勢は一面において利他的な行為であることは事実である。ただそれは、「自分の利益を犠牲にする」ことと必ずしもイコールではない。「支援する」姿勢は、相手の「支援する」姿勢をも引き出すことで、多くの場合自身に返ってくる。昔からの知恵にならって言えば「情けは人のためならず」。

組織のために人がいるわけではない

それは「人に仕事をつける」ということでもある。誰か特定の人に合わせて仕事が生まれ、その人を失うとその仕事自体が失われる。経営学の教科書ではむしろ逆のことを教えられる。「仕事に人をつけよ」と。なぜなら、仕事を属人化させてしまうことで経営が不安定なものになるからだ。確かに、誰かが風邪を引く度に飛行機が飛ばなくなってしまうようでは一大事。そうせねばらなない仕事の曲目はたしかにあるだろう。
ただ、「仕事に人をつける」ー それを突きつけていくと人はどんどん「替えのきく」存在になっていく。Aさんがいなくなっても、何事もなかったようにBさんが現れその役割を代替する。BさんがいなくなったらCさんが。そうして組織は淡々と回っていく。しかしそのことを徹底すればするほどメンバーにとっては、「自分なんていなくなったって誰も困らない」と、自分の存在意義自体への疑念にたどり着く。

「自分の主体性が発揮でき、大変だけれどよろこびがあって、経済的にも持続可能(かつ成長可能)」。

CSRとは、「利用してきた者」による「利用されてきた者」への還元活動である、と。

今は金銭的な価値を追求すること、GDPを成長させることを(半ば無意識的に)目的として人が働いている。ただ逆説的だが、そうしようとすればするほど人の仕事の中身は空っぽになり、経済成長は遠ざかり、気が付けば日本の一人当たりのGDPは世界24位と落ち込んでいる(2013年)。

そこで、やり方を変える。
お金のために働くこと、お金のための経済を止める。お金以外の価値の大事さを見直す。一つ一つの仕事に、時間と手間をちゃんとかける。自分の目的のために目の前の人を利用するのではなく、支援するために力を尽くす。
こうした経済の有り様は、お金以外の価値を含めた「価値の総和」を大きくする方向に寄与するのみならず、実は人の可能性を引き出して、仕事の内実を高め、結果として長い目で見たときに世の金銭的価値そのものを大きくする方向にも働くのではないかと考えている。

あくまで仮説だ。

小さな会社のブランド戦略 「生き方」と「働き方」が一致するビジネスモデル – 村尾 隆介

事業を通じて、
「業界の、こんなところを変えていきたい」
「こういう顧客層に喜んでもらいたい」
「社会に存在する、あの問題を解決したい」
「この国を、少しでもこんな風に変えていきたい」

うちの会社の使命は、
・成熟していないタイのWEB業界を少しでも良くしたい。
・日本企業に限らず、タイ企業も中小企業、個人も助けられるのでれば力になりたい
そのためにやり続けていきたい。

http://phangan-traveler.com

書籍で紹介されていたパンガン・トラベラー。同じタイで企業をしてやっているということで興味をもってページを見たが、これがそう?