だまされないために、わたしは経済を学んだ – 村上 龍 Weekly Report

泥縄式

普段からの準備を怠り、いざ事に直面して初めて、慌てて対処に取り組み始めるさまを形容する言い回し。

逆に冷徹に全知全能のような立場で市場を見通し、経済を見通す人間がいないからこそ、人は自分の立場と自分の情報と能力のぎりぎりを絞って市場に参加し、そのような人々の間で均衡価格がシグナルとして重要な意味を持つのです。

株価が上がったり下がったりして、その都度いろいろなことが言われ、専門家の意見が分かれ、しかし結局自分の日常に変わりがなければ、わたしたちは情報に麻痺していく、という側面があります。

不安という感情がわたしたちに備わっているのは、もちろんそれがサバイバルのために必要だからです。不安がなければわたしたちは危険に対処する方法を考えようとしません。

由らしむべし,知らしむべからず、という有名な言葉は日本の特質を表しているわけではなく、その場しのぎの都合のよい慣行にすぎなかったのではないかとわたしは思います。

「人民を従わせることはできるが,なぜ従わねばならないのか,その理由をわからせることはむずかしい」という意味である。つまり,人民は政府の法律によって動かせるかもしれないが,法律を読めない人民に法律をつくった理由を納得させることは困難である,といっているにすぎない。ところが江戸時代には,法律を出した理由など人民に教える必要はない,一方的に法律(施政方針)を守らせればよいという意味に解されて,これが政治の原理の一つとなった。

ペイオフ

自分が預金している金融機関が破綻した際、その金融機関が預金保険機構の「預金保険制度」加盟金融機関であれば、預けていた金額のうち「1,000万円とその利息等」について保証されるという制度です。

キューバのカストロ政権は崩壊寸前だ、とアメリカはこの四十年間言い続けてきました。もちろんキューバは崩壊していません。

歴史的に幸福感を積極的に求めなければならなかった国民と、そうでなくても生きてこれた国民との違いということもキューバではよく考えさせられます。

二〇〇一年三月にペイオフを実施することの是非はわたしにはわかりません。ただ、今になって延期すべきだという議論が出るようなことを、実施すると明言したのはなぜなのだろうと疑問に思うわけです。金融を巡る状況は変化するものだ、そういう答えが返ってくるかも知れません。すると、そのような状況の変化は予測不可能なものだろうか、ということになります。さらにそれが予測不可能なものならば、これからは金融政策にしろ、財政政策にしろ、誰が名言しても信頼できないのではないか、ということになります。「どうせ状況は変化するもの」だからです。

「リスキーはセクシーだと女子中高生に教える」という未来証券の酒井雅子さんの提言は非常に興味深いものです。ただし、中高年に限らず、女性はいい意味で「制度的」です。彼女たちが好む「新しさ」は、すでにあらかじめ「ファッション」である必要があります。しかもそれは簡単に「飽きることができる」ものでなくてはいけません。女性には創造的価値観がないというわけではなく、価値観の変換には無謀な飛躍が必要で、いかなる意味でも女性は無謀なことには向いていないし、無謀なことを選ばなくてもいいのだという「刷り込み」が過去四百万年の人類の歴史の中で行われてきたのではないかと思います。

きっかけなどないと言った後に、「人間のすべての行動は広義の経済活動であり、重要なのは「きっかけ」などではなく、有益な経済活動の機会に遭遇しようという積極性と、機会を捉えそれを活かそうという決意と、その意志と行動を継続していくための努力だ」という風に答えると、インタビューの場は完全に白けてしまいますが、きっかけという言葉が機能している間は、日本がリスクテイク社会になることはないでしょう。

京セラ名誉会長である稲盛和夫氏は最近の講演の中で、企業統治にもっとも重要なのは本社が子会社や社員に示すことの出来る経営理念である、というようなことを言っていました。

理念、あるいはビジョンは「もっとも大事で、提示するのがもっともむずかしいもの」の一つだと思います。理念やビジョンがどうであれわたしたちはサバイバルする必要があり、食べていかなければなりません。無人島に漂着したとき、最初にすべきは理念ではなく水と食料でしょう。移民や亡命者が外国で探すのはビジョンではなく仕事です。食料や水の探し方、仕事の選び方が理念やビジョンにつながる場合もあるかも知れませんし、理念やビジョンは内部で勝手に設定できるものではなく、外部とのフェアなコミュニケーションとともに決定されていくものではないかと思います。

わたしは広義の情報である小説を書き始めるとき、卑俗な言葉を使うと「ウリ」ということを考えます。セールスポイント(死後ですね)みたいなことですが、それは読者・市場へのものではなく、自分のためのものです。つまり、これだったら自分は限界まで脳神経を稼働させるだろう、というようなモチーフの発見がわたしにとっては大事です。

一度繁栄して没落した文明が決して再興することがないのと同じで、日本の中高年が新しいビジョンを示すのは困難だと思われます。

人間の善意や良心、誠実さやモラルだけで環境・教育問題が解決できるという考え方は危険だとわたしは思っています。環境保護への経済的なインセンティブを設定しない限り、たとえば産業廃棄物の違法な投棄はなくならないでしょうし、建設省や自治体は河川や干潟や湖沼への利権がらみの観賞を止めることはないでしょう。

自立を促すものは、希望と欲望ではないかと思います。希望は、今よりも将来の方が「充実した生き方」ができる、という期待と確信で、欲望はその期待と確信を現実のものにしていこうという意思をドライブしていくものです。
そして「充実した生き方」というのは社会的に決定されたモデルがあるわけではなく、他社や社会との関係の中から、自分の想像力でイメージするものだと思います。

その設定が間違っていれば、永遠に作品を書くことができなくなったり、逆にどうしようもない作品を書いても平気になったりします。つまり、自分を偽って高いレベルに設定してしまうと、「これもダメだ。こんなのはダメだ」ということになって、結局自分が作品を書かないことを正当化する羽目になるのです。また、逆に低く設定してしまうと、作品はいくらでも書けますが、そこには規範というものがなく、小説の質は際限なく堕落します。

少し疲れていたせいか、何らかの報道規制か自主規制があったのではないか、と一瞬疑ってしまいました。そういう根拠のない疑いは脅迫神経症的な意識を生みます。わたしはいくつかのニュースショーを見ていて、あらゆるニュースが操作されて伝えられているのではないかと疑い始め、これでは本当に神経症になってしまうと恐くなりました。

ダンピング

採算を無視して商品を安売りすること。投売り。

教育は、子どもの社会的な自立のためにあるものだと思います。社会的な自立にまず必要なのは経済活動を行う能力です。何らかの労働によって対価を得なければ生きていけないということです。わかりやすく言えば、何らかの方法で食料その他サバイバルに必要なものを手に入れる必要があるということです。それは一人超然と山奥で仙人のような暮らしをする場合でも、資産家の愛人として寄生する場合でも、基本的には同じです。

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