オールド・テロリスト – 村上龍

希望の国のエクソダスを読んだ後にネットを見ていると、最新の小説オールド・テロリストは、希望の国のエクソダスの後の時間設定というのを見つけて。
昔の日本文学も面白いのだが、時代背景が古い。しかし日本人だから分かることは分かる。外国文学は、もちろん外国を舞台にしているし、ちょうど希望の国のエクソダスで、主人公のセキグチが言ったように、外国文学は外国のものだ。人間としての普遍的な話は変わらないが、食物や街の情景など想像が及ばない部分がある。
その点、現代の日本の作家が書く小説には、しっかりと入っていくことができる。もちろん現代のつまらない小説を読むなら昔の日本文学や外国文学を読んだ方が面白いというのが、たくさんあると思うけど、村上龍は最高だ。まだ読んでいない作品がたくさんあるから、読んでみようと思っている。

当然、五十四歳という年齢もある。昔のような気力や体力がないし、学習や訓練のための、時間という資源が残り少なくなっている。

まだ40だし、やれる、という気持ちがあるが、この先こういう状態になっていくだろうことは分かる。今のうちにやるべきことはやる。

独り者の男の年寄りほど、寂しい人間はこの世にいないんではないですか。哀れと言えば哀れでしょう。

つまり、わたしども、年齢に関係なく、外の世界、人々とともに、と申しますか、関係性の中で生きております。外の世界や人々に押しつぶされる、それこそが不幸というものの正体であり、何とか折り合いをつけながら生きていく状態を普通、外の世界や人々を従わせたり、関わり合って変化させ、利益を得るのが勝ちであり幸福、というような風潮もあるかと思うんですが、わたしは、年齢を経るにつれて勝ちとか幸福ではなくて、普通を選びたいと思うようになったんですね。何とか折り合いをつけながら生きていくということですが、そのことには実際、普通以上の価値があると、今は確信しております。価値や幸福を超えたものかも知れない。

子犬達の悲鳴は止んだかね

今の時代、人との付き合いが得意で上手という人間がいるのだろうか。苦ではないという人はいるだろう。他人とのコミュニケーションには多大な労力が必要だ。妻と娘がシアトルに入ってから、おれは他人と話すのがおっくうになり、他人が怖くなった時期もあった。コミュニケーションの能力がなくなったからではない。コミュニケーションに必要な労力、つまり心のエネルギーが足りなくなり、やがて枯渇したからだ。

この国のメディアは、なんて悪い人なんでしょうと、なんてかわいそうな人たちなんでしょうと言う2つのアプローチでしかニュースを作れない。何も対策を取らなかったら人間はどこまでも堕落して、どんな悪い事でもするという前提がない。

カツラギがおれのことをどう思っているのかは不明だが、性的な関係を持つと、何かが台無しになってしまうような気がして怖かった。

今は不安になるのが当然だと思うことが大切なのだ。

記者になったばかりのころ、先輩から聞いて知ったのだが、たとえば大手広告代理店の電通や、通信社の共同通信などもその母体は満州にあるらしい。

可愛いというのは、おれのことだろうか。幼児以来、そんなことを言われたことはない。外見も、感が方も、おれほど可愛くない男はいないはずだ。

昔懐かしいロックに、君が異邦人だったら周囲の人々の佇まいが奇妙でよそよそしくみえることだろう、という歌詞があった。

ナガタという男はそう言って、右手で髪の毛に触れながら、カツラギの太ももをちらりと見た。完璧に変態の目つきだった。

天国で遊んできた人間より、地獄であがいてきた人間のほうが言葉に力がある。

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