พระราชพิธี ๑๒ เดือน ปฏิทินชีวิตของชาวสยามประเทศ

BACCを訪れ、お目当ての展示はやっていなかったが中の書店で見つけた店内壁画を進めるのにアイデアを得られた内容。
館内にはルノアールの絵画を実写のコラージュで再現している作品があって、影や光など緻密にやっているんでないが、面白くて目を引いた。

正直不動産 (4) – 大谷 アキラ

漫画家の画力はすごいなあ。当たり前だが上手。
ソンクラン休み前までに仕上げる予定の壁画があるので、いつもの仕事を夜遅くまでやるんじゃなくて、デッサンをやらなくてはいけない。ということで、昨晩はラムのボトルを描いた。悪くない。続けること。

河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也

バンコクのあるスクールのグラフィック・デザインコースで使うカリキュラムとスライドをつくらせてもらうことになった。デザイナーを目指す若き人達にきちんとしたものを残したくて、まずはこの本を読み返した。

これは私のバイブルでデザイナーになって間もない頃にこの本を読んで、感動したし、デザイナーと言う職業により強く憧れたし、自分は向いていると思った。

今回で5,6度目くらいになるのだが、読んでみると根源的な問いの部分を考えることになった。

「えっ、あるよ。二人とも業界のはぐれモノというのが共通点だよ」と長沢氏。ところが、このはぐれモノが、生物学上では大変重要なポジションにあるのをご存知だろうか。動物の種が絶滅せずに営々と続いてこれたのは、じつははぐれモノのおかげなのである。群をなして生活する動物にも、必ずはぐれモノがいて一匹離れてフラフラしている。当然、敵が襲ってくるとまっさきにやられる。はぐれモノは「ギャー」と悲鳴をあげる。その悲鳴を聞いて、群は一斉に逃げる。はぐれモノは、哀れにも犠牲となって群を守るのである。その二、群にとって最も大切な物は食料である。しかし、時として食料も枯渇することがある。群には死が待っている。だが、ここでもはぐれモノが、またまた群を助ける。いつもフラフラしているから、意外な場所で食料をみつける。そして、「ここにあるぞ」と叫んで群を案内するのである。もし、動物が整然と群だけで生活し、このようなはぐれモノが存在しなかったら。とうの昔に動物は滅んでいただろうといわれている。さて、二人のはぐれモノはこの世界を救えるか。

[人間は、居間でも原始的混沌状況にあるのではないか、つまり、人間はチンパンジーにもピグミーチンパンジーにもなれなかった種ではないか」と話されてニヤリとさせられた。人間は類人猿の原型から進化した、というのが定説である。オランウータンやチンパンジー、ピグミーチンパンジーなど類人猿も、その原型からから進化している。自然の中で調和を保ちながら平和に生活をしているチンパンジーなどの類人猿を詳細に研究していると人間のおろかさがよく見えてくるのだろう、と思う。

「リモデル」すれば「利も出る」

日本の車の広告は派手である。パリの街中でダンスを踊ったり、アウトバーンを軽自動車が疾走して高級車を追い抜いたり、ブローニュの森を幻想的に走ったりするテレビコマーシャルがある。別にこれらの車は、ヨーロッパの人たちに日本車を売ろうと思って、ヨーロッパでオンエアするために作られたものではない。日本人に車を買ってもらいたいがために、日本でオンエアするテレビ・コマーシャルである。

「見る」とはいったいどういうことだろうか。あまりにもあたり前すぎて考えたこともないかもしれない。たとえば、カエルは、モノの大小しか見ることができない。大きな物体が横切ると敵だと思って逃げる。小さなモノはエサだと思って、ゴミでも食べてしまう。カエルは、敵かエサかを見分けるためだけに、目がある。

この先、話が盛り上がっていく。はじめてこの文を読んだ時、ベッドの上にうつ伏せになっていたのが、ここを読んでベットから起き上がり[こんな風に考える人がいるんだ」と興奮した。デザイナー以外でも、きっと楽しめる本だと思うから、ぜひ読んでみて欲しい(バンコクにいる人であれば貸してあげられます)。

同じ機種のカメラで、同じレンズを使って同じ位置に立って、同じものを、同じフィルムを使って、複数のカメラマンが撮影したら、すべて同じ写真になるだろうか。
日本語の写真という言葉は、真実を写すという意味だが、多分これは絵画表現を意識して作られたのではないかと思う。絵で人物を描けば、絵描きの実力や用具や絵画によって微妙に描かれる人も変わるわけだが、写真は絵画よりも本物に近い。何といったって写真なのだから。しかし、すでに私達は写真と実際とのずれをなんとなく知っている。<中略>
ところが、一個人の能力や感覚によって切り取られた絵画やテレビの映像や写真はどうだろうか。もう、何も言う必要はないだろう。冒頭に問題を投げかけた。同じ条件で同じものを何人かのカメラマンが撮った場合、決して同じ写真にはならないのである。そのカメラマンの全人格全人間性以上のものは決して写らないのである。「ちょっと待ってくれよ」という人がいるかもしれない。「しろうとだって、オートフォーカスのコンパクト・カメラで結構写るし、ほかの人と比べて、大差ないよ」と思うかもしれない。
この写真の話は、しろうとの話ではない。一流と言われているカメラマンが撮った場合の話である。写真を自己表現として、プロとして生涯の仕事に選んだ人の話である。彼らは対象を真剣に撮ろうとすればするほど、自分自身が露出するのである。他のカメラマンより、気持ちだけ対象物に迫ったり、あるいは気後れして引いたり、何十分の一、何百分の一のシャッタースピードの中で微妙に、シャッターを押す。切り取る瞬間がことなるのである。
そうして出来上がってきた写真を見ると、カメラマンの、作品や本人を知っていればいるほど、サインがなくても誰の写真であるかが分かる。

デザインという概念を、うまく方法論として取り入れていったのが広告である。自社のモノを売る、という最終目的のためにマスコミ、美術、音楽、文学、科学などを調整し、プランが練り上げられ、テレビ・コマーシャルや新聞広告や雑誌広告などの具体的な広告物として仕上げられる。また、これらの目に見える広告活動と並行して、こまからマーケティング活動や販売促進活動が行われる。
このことは、広告がデザインを取り込んでいったというよりは、マーケティング全体がデザインの調整機能を、経済という面から捉えなおし、応用していったといってよいだろう。「人間の幸せ」という漠然とした曖昧な目的より、「自社のモノを売る」というはっきりとした目的の方が理論を構築するのは容易であり、実践方法を探るのもたやすい。
しかし、マーケティング理論がデザイン概念の応用で成り立っている限り、デザインの持つ方向性、つまり人間の幸せという目的をはずすことはできない。次々に商品が登場し、次々に新手の広告を作らなければ通用しない、というポイントはじつはここにある。短期的には人の心を揺さぶっても、それがデザインという全体性の中でつくられたものではないから、長期的には受け入れられないのである。

三十センチメートル以内に顔を近づける。手をにぎる。できる限りいっしょに話をする。簡単なことだが、私は家庭で、大きくなった子供や、だんだんと歳をとってきた妻にこの三つのことを実行しているかといわれれば、皆無に近い。自殺を企てる人は、こういった人間と人間との暖かいふれあいに極端に飢えていた人であろう。それが、この三つの誰にでもすぐにできることで救われるのである。

人間の幸せという大きな目的のもとに、創造力、構想力を駆使して、私達の周囲に働きかけ、様々な関係を調整する行為が「デザイン」ということである、と主旨をかかげ、小学生、中学生、高校生に街や学校や家や環境そのものに対するデザインを募集したものである。

佐藤可士和の打ち合わせ – 佐藤可士和

KADOKAWA Animation & Design Schoolのグラフィックデザイン基礎コースのカリキュラムと授業に使うスライドづくりを担当することになり、デザインについて改めて考えている。積み上げられたダンボールの中からデザイン関係の本を引っ張り出して読んでみている。

この本は、いつもの古本屋でたまたま見つけたもの。打ち合わせもデザインを進める上で大切な時間で、うなずけるもの、勉強になったものとあった。

その打ち合わせによって、プロジェクトなり、テーマなりが、少しでも前に進む、ということです。

打ち合わせに出るときは、クリエイティブな仕事をするんだ、何かをみんなで一緒に作り上げるんだ、という意識を持って臨む必要があります。

一度打ち合わせをすれば、相手の仕事のレベルはすぐにわかってしまう

確かに。他人のこともそうだが、自身の仕事のレベルが上がっていくと、打ち合わせのレベルも上がっていることを実感する。

「もしかしてこれかもしれない」と思ったことを口にすることによおって、抽象的な意識や概念は具体化していきます。たとえ間違っていたとしても、同じようなことを考え、似たようなことを繰り返すことによって、だんだんと思考の輪郭がはっきりしてくる。

しゃべることは自分のイメージを言語化する訓練になる。

NOと言うなら、どんな立場であれ代案を
打ち合わせの出席者は、善意で行動しなければいけません。

目的のない打ち合わせは、ゴールのないマラソン

「やっぱり真面目な感じがいいよね」とか「もっとラディカルで、エッジが利いたものにしたほうがいいかも」といったような「イメージ」を吐き出していく。これは、アイデアというものではありません。方向だったり、感触だったり、といったイメージなのです。

アイデアという言葉はよく出るが、イメージというのは良い。言語化することで、やっていることが明確になった。

よくあるのが「そんな感じで」「とりあえず、この方向で」といった、わかったようでよくわからない言葉で結論がつくられてしまうことです。
「感じ」や「方向」では、まったく共有がなされていないと思ったほうがいいでしょう。<中略>「感じ」や「方向」で終わらせないためにも、僕が繰り返すのが、「これでいいですか」「これでいいですよね」という言葉です。

「こんな仕事をしてくれ」と、ただ言うのではなく、「世界に出ていくような仕事をしよう」「日本中をびっくりさせよう」といった言葉を使います。

「サムライ」では、仕事のスキルを大きく二つに分けています。<中略>ひとつはクリエイティビティです。とにかく、理屈抜きで人の心を動かす魅力的なデザインができるか。新しいアイデアが考えられるか。ひらめきや感性はあるか。

そしてもうひとつが、ビジネススキルです。クリエイティビティだけでは、仕事はできません。あくまで、ビジネスの現場で仕事をさせてもらっているからです。

音楽 – 三島由紀夫

これまでに三島由紀夫を何冊か読んだが、私が好きなのは「午後の曳航」「金閣寺」それとこの「音楽」。「潮騒」や「仮面の告白」はいまひとつであった。「豊饒の海」はワット・アルンが出てくるはずなので、ぜひ読んでみたいと思って1〜4巻まではそろっているのだが、まだ手が出せていない。

この「音楽」は20代の頃に一度読んでいて、男性器を角に持った牛が出てくる所に、当時ポコチンの絵をよく描いていた私は、小説の中でこんなことをやっていいのか、そうだよな、いいんだよなと勇気を与えられた。

男性器の角を持つ牛

不真面目な比喩かもしれないが、この瞬間の彼女は、ちらと狐であることを見破られた美女という趣があった。

「牛が駆け出して来たんです。恐ろしい勢いで、土埃をもうもうと上げて、まっしぐらに私に向かって突進してくるんです。その二本の角が…いいえ、角ではなくて、もっといやらしい形をして…そうなんです。角じゃないんです。それが二本とも、人間の男のものの形なんです。

山内明美は、しかしこの問題に、多少はしたない興味を示した。

「この女がキ印だと知ったら、抱いてる彼はどんな気がするでしょう」

女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかはほとんど役に立たないと言っていい。

そんな考えははじめて芽生えた考えであったが、これまで、私の独身生活を理解を以て支えてくれるこの女に、私は内心どんなに感謝していたか知れないのである。

一歩このホテルに入って、一室に通されると、とたんに明美は彼女のいわゆる「おままごと」をはじめる。人目を憚る心配もなく小まめに私の世話を焼き、上着を脱げばハンガーにかけてくれる、煙草をくわえればすぐ火をつけてくれる、風呂の湯加減も見てくれる、至れりつくせりの家庭的な女になるのである。こういう場合に家庭的な女になり切る女が、いざ実際に家庭に入ると、ふんぞり返った怠け者に変貌する例は数多い。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺が、実は誤訳であって、原典のローマ詩人ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」という願望の意を秘めたものであることは、まことに意味が深いと言わねばならない。

「アメリカで精神分析がはやっている理由がよくわかりますね。それはつまり、多様で豊富な人間性を限局して、迷える羊を一匹一匹連れ戻して、劃一主義(コンフォーミズム)の檻の中へ入れてやるための、俗人の欲求におもねった流行なんですね。精神分析のおかげで『治った』人間は、日曜ごとに教会へ行くようになるでしょうし、向こう三軒両隣りの退屈なカクテル・パーティーへ大人しく顔を出すようになり、女房のお使いにスーパー・マーケットへ喜んで行くようになるでしょう。そして通りかかる知人に方を叩かれて、明るい微笑で、
『よかったね、治って。今は君はわれわれの本当の仲間だ』
と言われるようになるんですね。

夜の町の賑わい、愛の言葉や喧嘩口論、ネオン・サイン、狂おしいダンスのサーフィン、路ばたの一寸した目じらせ、街娼、金を持たない若者たちの貧しいポケット、夜かけるサン・グラス、ロード・ショウ映画の最終回、早くから閉める宝石店のからっぽのビロードの台座を並べた飾り窓、夜道の自動車のしめやかな軋り、地下鉄工事のひびき…

星の王子さま – サン=テグジュペリ

子供の頃に手にとったのか、学校か親に読まされたのか定かでないが、すぐに挫折したように覚えている。
しかし聖書の次に読まれている本らしく、まあ世界中で有名ということで、目にすることがあったのか、改めて読んでみようというわけで、ページをめくってみたが、いい本。誰もが知っているあの表紙もかわいい。

心があたたまるし、しっかりと自分や他人と対話を続けなければならないと思う。

そうしてその天文学者は、国際天文学会議で、自分の発見についてりっぱな発表をおこなった。ところがそのときの服装のせいで、誰も信じてくれなかったのだ。おとなってそんなものだ。

「ぼく、まっ赤な顔のおじさんがいる星に、行ったことがある。おじさんは、一度も花の香りをかいだことがなかった。星をみたこともなかった。誰も愛したことがなかった。たし算以外は、なにもしたことがなかった。一日じゅう、きみみたいにくり返してた。『大事なことで忙しい! 私は有能な人間だから!』そうしてふんぞり返ってた。でもそんなのは人間じゃない。キノコだ!」

人はしゃれたことを言おうとすると、ついうそが混じってしまうことがある。

「『なつく』って、どういうこと?」
「ずいぶん忘れられてしまっていることだ」キツネは言った。「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ…」
「絆を結ぶ?」
「そうとも」とキツネ。「きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる…」

「なつかせたもの、絆を結んだものしか、ほんとうに知ることはできないよ」キツネが言った。「人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でもだちを売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友達がいない。きみも友だちがほしいなら、ぼくをなつかせて!」
「どうすればいいの?」王子さまは聞いた。
「がまん強くなることだ」キツネは答えた。「はじめは、ぼくからちょっとだけ離れて、こんなふうに、草のなかにすわるんだ。ぼくは横目でちらっときみを見るだけだし、きみもなにも言わない。ことばは誤解のもとだから。でも、日ごとにきみは、少しずつ近くにすわるようにして…」

「たとえば、きみが夕方の四時に来るなら、ぼくは三時からうれしくなってくる。そこから時間が進めば進むほど、どんどんうれしくなってくる。そうしてとうとう四時になると、もう、そわそわしたり、どきどきしたり。こうして、幸福のアジを知るんだよ! でも、きみが来るのが行きあたりばったりだと、何時に心の準備を始めればいいのか、ちっともわからない…ならわしって、大事なんだ」

「ならわしって、なに?」王子さまが聞いた。
「これも、ずいぶん忘れられてしまっている」キツネが答えた。「ある一日を、ほかの毎日とはちがうものにすること、あるひとときを、ほかの時間とはちがうものにすること。たとえば、ここの猟師たちにはならわしがある。毎週木曜日には、村の娘たちと踊るんだ。だから、木曜日は天国さ! ぼくはブドウ畑まで、のんびり散歩にでかけられる。でももし猟師たちが、行きあたりばったりにしか踊らなかったら、毎日がみんな同じようになって、ぼくは少しも休日(ヴァカンス)が取れなくなっちゃうよ」

ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」
「ぼくが、バラのために費やした時間…]忘れないでいるために、王子さまはくり返した。
「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。「でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きいのバラに、責任がある…」

「人は、自分のいるところにけっして満足できない」鉄道員が言った。

43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層 – 石井 光太

昔からこういった異常な事件に関する本にどういうわけだか惹かれて、何冊も読んでみている。
それは自分も世の中とうまくやれない、はみだしものだからかと思ったりした。まとまって(群れをなして)生きていくのが人間なので、はみだしものが生きづらくなるわけだが、狼は群れをなして行動するが、群れから離れた一匹狼が敵に気づいたり、あらぬ場所から餌をみつけてきたりして群れを生かすこともあるようなので、本当は強く生きて欲しい。

気の良さそうな顔立ち

犯罪とアルコールの関係は深く、「傷害および殺人事件」の四十〜六十パーセント、「強姦事件」の三十〜七十パーセント、「DV事件」の四十〜八十パーセントにアルコールが関係しているという。

二〇一五年に殺人で検挙された未成年(十四歳〜十九歳)の数は、六十二名に上る。この歳が特に多いわけではなく、警察庁の統計によれば、前年が五十五名、翌年が五十一名と、例年四十〜六十名台にもなっている。

「デザイン思考」を超えるデザイン思考 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文 – 濱口 秀司

デザイン思考(Design Thinking)という言葉を世に広めたのは、IDEOのCEOティム・ブラウンとされている。・彼はデザイン思考を[デザイナーの感性と手法を用いて、顧客価値と市場機会の創出を図るもの」と定義した。

つまり、狭義のデザインに留まらず、ビジネス上の問題解決などを設計する手法としてデザインをとらえ始めたのである。

さらに、ここ10年で興味深い変化が起きている。それは「ストーリー価値」の台頭である。顧客は意味性を重視するようになっているのだ。
たとえば、いま米国で最も売れているBeatsというヘッドホンは典型例である。ビーツにはまず、低音が素晴らしいという機能価値がある。また、ファッション性も非常に高い。さらにこれは、人気ラッパーかつプロデューサーのドクター・ドレー公認のブランドである。彼が、音楽ではなく音づくりを始めたというストーリー性も加わり、爆発的ヒットを記録している。

時代とともに、技術やデザインの差異から生まれる競争優位性は、コピーという攻撃を受けた際にポジションを守ることが困難になっているが、ストーリー性だけは、コピーされてもオリジナル価値が揺るがない最後の価値である。そのストーリーとひもづけることで、デザインと機能の価値を拡大することができるのだ。

人間は視覚的な生き物であるため、まずはデザインを認識する。

3つの価値を伝えるためには、デザインは一目でわかるもの、機能はそのポイントを3つ程度で言えるもの、ストーリーは誰でも語れるものであることが肝要である。