夜と霧 – V.E. フランクル

大学の頃に読んだが、古本屋で見つけて再び。

「カポー」や有力な囚人だったものが耐なければならなかったことを扱うわけではなく、知られざる収容所囚人の受難を扱うのである。なぜならばカポーたちは何の腕章もつけない普通の囚人を見下していたのだった。囚人が飢え、そして飢え死にしている間に、カポーたちは少なくとも栄養の店では悪くなかった。それどころか若干のカポーは、彼の生涯に今までなかったほど、恵まれていたのであった。したがってこれらのカポーのタイプは心理的・性格的にはナチス親衛退院や収容所の看視兵と同じように判断されてよい。すなわちカポーは彼らと心理学的・社会学的に同化したのであり、彼らに協力したのだった。カポーたちはしばしば収容所の看視兵よりも手厳しく普通の囚人を悪意を持って苦しめた人々であり、例えば親衛隊員すらよりもはるかに多くの普通の囚人を殴打したのであった。

人々を集めて、囚人と看守でその人たちを分ける。するとどのようなことになるのかを人体実験するという実際の話を映画かした作品が昔あったが、まさにそれの実際の話。映画では、囚人は囚人らくしく、看守は看守らしく振舞ってゆくのだ。
実は、僕にも同じ体験はある。2人ではじめる会社で、立場に上下をつけずにやっていくという約束であったが、会社を運営していく上で、代表は必要だということになり、僕は彼に譲った。たんにそんなことでくだらない権力の取り合いをするのが嫌だったからだ。しばらくして会社がうまく進み出すと、彼が変わっていった。まあ、そうだよななと、あの映画のことを思い出した。そして僕は会社を抜けた。肩書きによって説得力を増すことは常であるが、肩書きなんて、本当にどうでもよい。質の高い仕事を積み上げていくだけだ。そうは思わない人がたくさんいる。
アウシュヴィッツの話なんかと比べるにも及ばない小さな小さな話だ。

彼はどなった。「糞くらえ!」

二、三の人間はそっと規則を犯して、靴にくっついている糞便にもかまわず枕の代わりに靴を用いていた。

君は気を悪くしないだろうな、だが俺ははっきり言おう。たかだか君だ。

他の場所(たとえば兵営の如き)における集団生活と反対に、ここでは暖色が全く見られなかった。

このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。

ドストエフスキーはかつて「私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた」と言った。

「カポー」や有力な囚人だったものが耐なければならなかったことを扱うわけではなく、知られざる収容所囚人の受難を扱うのである。なぜならばカポーたちは何の腕章もつけない普通の囚人を見下していたのだった。囚人が飢え、そして飢え死にしている間に、カポーたちは少なくとも栄養の店では悪くなかった。それどころか若干のカポーは、彼の生涯に今までなかったほど、恵まれていたのであった。したがってこれらのカポーのタイプは心理的・性格的にはナチス親衛退院や収容所の看視兵と同じように判断されてよい。すなわちカポーは彼らと心理学的・社会学的に同化したのであり、彼らに協力したのだった。カポーたちはしばしば収容所の看視兵よりも手厳しく普通の囚人を悪意を持って苦しめた人々であり、例えば親衛隊員すらよりもはるかに多くの普通の囚人を殴打したのであった。

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