悩む力 – 姜尚中

悩む力 表紙

大晦日に鳴った電話を見ると城田さんの名前。
年明けにKEY BOOKSでセールがあること、それと「悩む力」の紹介であった。

人に本を紹介することは、あまりしないんだがという前置きの後、著者の姜尚中という人も、我々と同じように強い自我を持ち、悩みを持ちながら生きている種類の人間であること、僕が何冊か読んでいた夏目漱石が本に出てくることなど。圧倒的に読書量の多い城田さんだが、小説はほとんど読まないというが、「悩む力」を読んで何冊か読んでみようと思っているという。

まだKEY BOOKSに同じ本が一冊残っていたという話を聞き、その日のうちに早速購入。

自我とは何かを説明するのはなかなか難しいですが、平たく言えば、「私とは何か」を自分自身に問う意識で、「自己意識」と言ってもいいでしょう。

「自我」の「発見」と言えば、すぐに思いつくのは、十七世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」という有名な言葉です。

こうした自我の問題は、百年前はいわゆる「知識人」特有の病とされたのですが、いまは誰にでも起こりうる万人の病と言っていいと思います。当時は「神経衰弱」と呼ばれ、漱石の小説中に「キーワード」のように出てきます。漱石の「断簡(メモ)」の中にも、こんな言葉が見えています。「Self-consiousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり」

「自分の城」を築こうとするものは必ず破滅するーと。

いまでは「まじめ」という言葉はあまりいい意味で使われませんし、「まじめだね」と言われるとからかわれているような気分になります。でも、私はこの言葉が好きですし、とても漱石らしいt思います。すべてが表面的に浮動するような現代社会に楔を打ち込むような潔さがあると思います。まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みのそこを「まじめ」に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。

「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」

ゲーテの「ファウスト」の中に、「悪魔は年寄りだ。だから年寄りにならないと悪魔の言葉はわかりませんよ」おいう言葉が出てくるのですが、なかなか意味深長です。若者の浅知恵は、老人の成熟した知恵にはかなわないということでしょうか。

ウェーバーも漱石も神経を失調しがちでしたが、それもうなずける気がします。かれらの著作を見ていると、その一字一字が血のしたたるような苦行の痕跡なのではないかと感じます。たいへん深遠だと思いますし、それをやめなかった彼らのまじめさと精神力に打たれます。そして、かく言う私も、自分を信じるしかない、「一人一宗教」的に自分の知性を信じるしかないと思っています。自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。あるいは、それしか方法はないということを信じる。それは「不可知論だ」と言う人もいるでしょう。でも、中途でやめてしまったら、それこそ何も信じられなくなるのではないかと思います。「信じる者は救われる」というのは、究極的には、そういう意味なのではないでしょうか。何か超越的な存在に恃(たの)むという他力本願のことではない、と思います。

サービス業の大きな特徴として、「どこまで」という制限がないことがあります。だから、中には、果てしなくのめりこんで、ときには消耗しつくして自殺する人もいるといいます。阿部真大さんの「搾取される若者たち」には、「自己実現」ということに夢中になるあまり、自分にノルマを課しすぎて破滅するバイク便ライダーの話が出ています。

人間というのは、「自分が自分として生きるために働く」のです。「自分が社会の中で生きていていい」という実感を持つためには、やはり働くしかないのです。

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