仮面の告白 – 三島由紀夫

積読本が溜まっているので、新しい本はなるべく買わないほうがよいのだが、プロンポンのらーめん亭へ行ったついでに、つい寄ってしまい、確か友人の一人が「仮面の告白」だったか「潮騒」が好きだといっていたようなことを思い出して。

一度読んだことがあったのだが、三島由紀夫の使う語句が今の時代にはほとんど使わないものが頻繁に出てきて、それが難しくて気づくとただ文字を追っているだけになっていて、あまり入ってこなかった。そして今村上龍の小説を読み始めたが、現代の言葉なので読みやすい。三島の「午後の曳航」は面白く読めたのだが。

きっと毒は、おみおつけに入れられたに相違なかった。

これが私の最初のejaculatioであり、また、最初の不手際な・突発的な「悪臭」だった。

私は夏を、せめて初夏をまちこがれた。彼の裸体を見る機会を、その季節がもたらすように思われた。更に私は、もっと面伏せな欲求を奥深く抱いていた。それは彼のあの「おおきなもの」を見たいという欲求だった。

しかし彼の腕に凭れて歩きながら、私の喜びは無上であった。ひ弱な生まれつきのためかして、あらゆる喜びに不吉な予感のまじってくる私であったが、彼の腕の強(きつ)い・緊迫した感じは、私の腕からの私の全身へめぐるように思われた。世界の果てまで、こうして歩いて行きたいと私は思った。

こうした屈辱を体格検査のたびに私は嘗めさせられていた。しかし今日はそれが幾分か心安くきかれたのは、近江が傍にいず私の屈辱を見ていないという安堵からだった。一瞬のうちにこの安堵が喜びにまで成長した。…

初夏の一日、それは夏の仕立見本のような一日であり、いわばまた、夏の舞台稽古のような一日だった。

級友たちの嘆声が鈍く漂った。彼の力わざへの嘆声ではないことが、誰の胸にもたずねられた。それは若さへの、生への、優越への嘆声だった。彼のむき出された腋窩に見られる豊穣な毛が、かれらをおどこかしたのである。それほど夥しい・ほとんど不必要かと思われるくらいの・いわば煩多な夏草のしげりのような毛がそこにあるのを、おそらく少年たちははじめて見たのである。それは夏の雑草が庭を覆いつくしてまだ足りずに、石の階段にまで生いのぼって来るように、近江の深く彫り込まれた腋窩をあふれて、胸の両脇へまで生い茂っていた。

たいていの乗客はひよわそうな蒼白の少年に睨みつけられて、別に怖がりもせずに、うるさそうに顔をそむけた。睨みかえす人間は滅多にいなかった。顔をそむけられると、私は勝ったと思った。こうして次第に私は人の顔を真正面から見ることができるにいたった…

私たちの腋窩には近江のそれのような旺んなものはまだ見られなかった。蘖(ひこばえ)のようなものがわずかに兆しているにすぎなかった。したがってこれまでも私も、その部分には際立った注意を払っていたわけではなかった。それを私の固定観念にしたものは明らかに近江の腋窩だった。

そこで彼のゆく道は二つしかなくなってしまう。一つはグレることであり、一つは懸命に知っているように装うことである。どちらへ行くかは彼の弱さと勇気の質が決定する問題であり、量が決定するのではない。どちらへ行くにも等量の勇気と等量の弱さがいるのだ。そしてどちらにも、怠惰に対する一種詩的な永続的な渇望が要るのである。

血の轍3 – 押見修造

この母親の女は何なんだ、と思うが、いろんな人が母親になり父親になるのだから、こういう人がいても不思議でないし、この間訪れたミャンマーでは久しぶりに、まだ16歳くらいだろうというような女の子が子供を連れている様子を何度も見たし、世界を見渡せばそんなケースはざらにあるだろう。日本ではコンビニの定員を土下座させて動画に撮影しyoutubeにアップロードしたり、老人ホームで働く人間が施設の老人達を殺したり、アメリカでは高校生が校内で自動小銃を乱射したり、おかしな事件があり、そういう場所で生きる人間がかかえるストレスから、おかしな人間が生まれ、そういう人間が子供を育てる。じゃあ発展途上国の方が人が良くなるのかと言えば、タイの田舎でも30歳の男が70歳の女性をレイプするような事件が起こるので、一概にそうとも言えないのかもしれない。ただし、相対的に見れば、発展途上の国のほうが分かりやすい問題があるように思え、そうであれば、そちらの方が複雑でなく、幾らか分かりやすく生きていけるのではないだろうか?

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇 – 菊地成孔

2年くらい前からジャズのCDを買うようになると、菊地成孔氏を知ることになり、この人の言葉が独特で、TBSラジオの粋な夜電波を聞くのが習慣になった。

youtubeにもいくつかあるし、ニコ動には全回のラジオがアップされてるから、新しい刺激が欲しい人には絶対におすすめです。

皆さんに、音楽を届けるために。世界を少しでも、気楽で、良い調子に変えるために。

神様はおっしゃる
至福は天国にあると
それは死の後の慰みだと

だからおっさんになってくると、おとぼけっていう技術ができてきて、何だか分からないフリしちゃうんですよね。「何ていうのこれ、へー。唐揚げっていうんだ。旨いね!」なんてトボケにもドライブが利き過ぎちゃって(笑)。

モテモテっていうのは「ちょっと外で会おう」とか「チューしてくれ」とかそういうことではないですよ(笑)。話題の中心になって、みんなが楽しそうになって。こんな話し始めて、途中で詰まっちゃったら全然イケてないですからね。最後まで完走しないといけませんから、我ながら頭の回転=ペテンの能力を問われるんでね、なかなか大変で、夜出かけるときには、がんばるんだ、今日も勝つんだ(笑)って感じで出かけるわけですね(笑)。

今や一億ツイッター状態で考えた事は即つぶやく、即つぶやくで、溜めのない時代ですから、言えないんだということが胆力といいますか、丹田を鍛えることになるわけなんですが、

ビギビギのビギナーの皆様、

ってわけで、ビギビギのビギナーの皆様に、もうちょっとだけ昔話をさせてください。

これ、パクリって言っちゃいけないんだけど、パクリには意識的なものと気がついてないうちにと二つあって、意識的が悪い、気がついていなかったのは仕方ねえ、というふうなつもりはありませんが、とにかく二つがあります。

ソーナイス。こんなクールでカンファタブルなジャケットなんて、そうないっす。なーんて駄洒落。

こんな小噺がありますよ。日本人がハーレムに遊びに行って、腹壊したら気のいい黒人が助けてくれた。すっかり仲良くなっちゃった。胃の薬くれたんで、ニコニコ笑いながら呑んだら、その薬が苦かったんで、思わず「にがー」って笑って言ったら、窓から放り出された。足折れたってね。別の気のいい黒人が肩貸してくれたってんで、「ギブスは甘いのにしてくれよ。俺たちの友情のために」。アタシが今10秒で作ったんですけどね。

仕事の愚痴は言わない、あらゆる暴力は振るわない、よく呑んで、よく歌って、そしていつでも面白くあること。世界はかなり過酷だ。君たちが夕方にカラコンを入れてる間にも、俺が喉を乾かせてシャンパンのことで頭の中がいっぱいになっている間にも、地獄を経験している人々がいる。
仕事の愚痴は言わない、あらゆる暴力は振るわない、よく呑んで、よく歌って、そしていつでも面白くあること。それが君たちと生きる喜びだね。誰もがうまくいくわけじゃないずっと続けられる。

いつもありがとう。愛してる。金の介在した愛だけど。金が介在しない愛なんて、無人島に。

わたしを離さないで – カズオ・イシグロ

呑みの席で、カズオ・イシグロが自身の成長の過程で、日本人である両親に日本語教育の強制をされなかったことを、感謝している。と言うようなニュアンスの話を聞いた、という話を聞いて、どんな本を書くのか読んだことがなかったので、どれを読もうか迷ったのだが、適当に選んだ。どうやら映画や舞台にもなっているようだ。

なんだか不思議な調子で話が進み、途中までは物語の中心人物たちがクローンであることも書かれないのだが、そこがインパクトのあるところかもしれない。日本語訳のせい知れないが、ある村上春樹の小説のある部分が感じられないこともないという印象があった。

ロストコーナー - 先生のその言葉が発端でした。

友人のカレー屋の名前が「ロストコーナー」というもので、彼はバンドの名前などユニークなものが多かったので、ああ、と思いだした。

絵も、詩も、そういうものはすべて、作った人の内部をさらけ出す…そう言った。作った人の魂を見せる、って

華氏451度 – レイ・ブラッドベリ

ソンクラン休暇を使って、ミャンマーへ行くのに選んだ2冊の1冊が華氏451度。本当はビルマ勤務経験のあるジョージ・オーエルの作品をとも思ったのだが、「1984年」と「動物農場」を読んでしまったので、「1984年」のようなSFを持っていくことにした。調べてみると「ビルマの日々」というジョージ・オーエルの作品があるようなので、そのうち読んでみることにする。

こんな古いジョークはなかったか?女房が電話のおしゃべりに現をぬかしているので、業を煮やした亭主は近くの店へかけこんで、今夜の夕食はどうなるのかと電話で聞いたという。

それでね、夜になるとみんなそこに座って、喋りたい時はしゃべったり、ユリーズをゆらゆらさせたり、喋りたくないときは喋らずに、1時過ごしたの。ただ座ってじっくり考え事をすることもあったそうよ。

しかし、息抜きは必要だ。

私の祖父は、私が子供の頃に亡くなったんだが、彫刻家でね。しかもじつに心やさしい人で、世界に惜しみない愛を注いでいた。街のスラムの掃除を手伝ったりしていたよ。おもちゃを作ってくれたり、あれやこれや、数えきれないくらい、いろいろなことをして明け暮れた人生だった。いつも、手を使って何かしている人だったよ。その祖父が亡くなった時に、ふいに気がついたんだ。僕はおじいちゃんのために泣いているんじゃない、おじいちゃんがしてくれたことのために泣いているんだ、自分の番が来たら、何が?こんなに少しでも楽にできるよ何が提供できるだろうかとね。

自分の番が来たら、何がいえるだろう? こんな日に、この旅を少しでも楽にできるようなことを、なにか提供できるだろうか?

不連続殺人事件 – 坂口安吾

白痴に続いて2冊目だが、まさかこんな極上の推理小説も書くなんて。
はじめの段階であっという間に登場人物が多くなり、紙とペンを用意して、相関図を作りながら読み進めていった。その紙を本の頭に挟んでおけばOK。

人見小六などはネチネチ執拗で煮えきらなくて小心臆病、根は親切で人なつっこいタチなのだが、つきあいにくい男だ。

自分のことを書かれているように思った。考えすぎずに明るくやりたいものだ。

あやかさんは目をクリクリ、花粉が飛びたつように喜んで、

血の轍 1 & 2 – 押見修造

佐渡島庸平氏のおすすめの漫画を聞いて。
なかなかに気持ちの悪い親子関係。お互いに激しい依存がある。子供と一緒に成長していくというのは、想像するだに、これまたなかかなかに複雑であるが、たくさんの親が子供を育てていて、いろんな奴がいるんだから、とするとロクでもない奴が子供を育てるってのは当たり前のこととしてあるんだから。
英語をはじめとした外国語を話せない親は、子供には英語を、と英語教育に力をいれ、例えば、インターナショナルスクールに行かせる。インターナショナルスクールの環境は、そこはまさに多国籍で様々な人種が一同に会している。そういう中で成長していく子供は、いわゆる欧米型の要素を強く持った人間になり、それは親の予想をはるかに超える。なぜなら親は、グローバルな環境に入った経験がないのだから。そうすると、子供の話と親の話はまったくかみ合わなくなり、子供からすると親は了見の狭い、島国の人というくらいになってしまい、相談事はいっさいしなくなる、というような話を読んだ。
親子の関係は寂しいものになったが、子供は親の願った道に進んでいるんだとしたら、それはそれで良しということになるのかもしれない。めでたし、めでたし。

介護基礎学 – 竹内仁

両親も年を重ねてきて、僕自身はバンコクにいて離れているため、この先のことを少しずつであるが実際面でも心においても準備を初めておいた方が良いだろう。自分自身も40を越えてから体の衰えを感じる様になった。読んでいると自分自身にも当てはまることが出てくる。

仏さんの説く「生・老・病・死」の四苦は、まさに僕らの苦しみで、全体的に暗い気持ちになりがちだが、現実はやってくるので、押しつぶされない様に備えておくことが大切だ。ここでも村上龍の言う、面倒で困難なことに正しいことが多い、というのが当てはまる。逃げるのは簡単に見えるが、それは正しくないと思う。

午後の曳航 – 三島由紀夫

屋根裏から覗いていると、女が乳房を出して、緑茶の中に母乳を混ぜるという金閣寺の場面にたまげたが、僕にとって仮面の告白と金閣寺に続いて3作目となる午後の曳航が一番の作品になった。終盤の緊張がものすごかったが、途中でさすがに子供達が大人を殺す様子が書かれることはあるまいと思うと、紅茶を一息に飲んだところで話が終わった。

そして登はおどろきを以って眺めた、彼の腹の深い毛をつんざいて誇らしげに聳え立つつややかな仏塔を。

思わずクスッとしてしまうような表現である。

今のところ、この戸惑いだけが二人の礼節だった。どこまで踏み込んで行っていいのか、竜司は彼のいわゆる「つまらない人間の底知れない傲慢さ」で測っていた。

私は何もしないで、しかし、自分だけは男だ、と思って生きてきたんです。何故って、男なら、いつか暁暗をついて孤独な澄んだ喇叭が鳴り響ひびき、光を孕んだ分厚い雲が低く垂れ、栄光の遠い鋭い声が私の名を呼び求めているときには、寝床を蹴って、一人で出ていかなければならないからです。……そんなことを思い暮らしているうちに、いつのまにか三十を越したんです」

歯をあてられた林檎の白い果肉が、その噛み跡からたちまち変色するように、別れは三日前にこの船で二人で会ったときからはじまっていた。

「大丈夫ですよ。働いて汗をかけば、風邪なんか吹っ飛んでしまう」
こういう竜司の強い言葉は、乱暴な気休めかもしれないけれど、少なくともこの家では久しく聞かれなかった「男の言葉」だった。その言葉一つで、古い柱や壁がみっしりと引き締まるのが感じられたほど。

確かに男の言葉であると感じるが、タイにいると働き者の女たちも、同じようなことを言う。

この世には彼のための特別誂えの栄光などの存在しないことを知らなくてはならぬ。

こういう想いを捨てられぬ厨二病なのだ。

正しい父親なんてものはありえない。なぜって、父親という役割そのものが悪の形だからさ。厳格な父親も、甘い父親も、その中くらいの程よい父親も、みんな同じくらい悪い。奴らは僕たちの人生のいく手に立ちふさがって、自分の劣等感だの、叶えられなかった望みだの、怨恨だの、理想だの、自分が一生とうとう人には言えなかった負け目だの、罪だの、甘ったるい夢だの、自分がとうとう従う勇気のなかった戒律だの、……そういう莫迦々々しいものを何もかも、息子に押しつけてやろうと身構えている。

一方、竜二は今度の航海の帰路、つくづく自分が船乗りの生活のみじめさと退屈に飽きはてていることを発見していた。彼はそれを味わいつくし、もう知らない味は何一つ残されていないという確信をも持った。