蔓延する偽りの希望 (幻冬舎文庫―すべての男は消耗品である。) – 村上 龍

もう一度村上龍の本を読んでみている。
古い本だが、本質的なことを言っているので、今読んでもためになる。

村上龍の分析と的確な言葉選びが本当に好きで納得できる。

それでも二十代のような文体ではもう書けないかというとそんなことはない。言葉は失われたわけではなくて脳のハードディスクに眠っているだけで、それを取り出すのに時間がかかるようになっただけだからだ。
綿密な描写をはじめると脳が少しずつ活性化してくるのがわかる。ウォームアップに時間がかかるようになっただけなのだが、それでも脳が退化をはじめていることに変わりはない。

経済は人間の精神に影響して文化となってしまう。狩猟民族が貯蓄という概念がないのと同じで、終身雇用幻想を文化としている国では、たとえば「個人」とか「リスク」とか「インセンティブ」といった概念がない。個人がリスクを受け入れるという言い方は、終身雇用幻想の規範から外れることだけを意味する。

わたしは作品を作るとき競争を意識している。作品の質はもちろん、どれだけ幅広いテーマとモチーフを書くことができているか、「現代」を描きながらどれだけの普遍性を獲得できているか、そして商業的にどのくらい普及し利益を上げているか、海外のマーケットではどういう評価をされているか、そういったことである。

また長く続いた非競争社会の弊害はさまざまな文化的領域、つまりコミュニケーションの中にも溢れている。たとえば日本人は結婚してしまうと男女とも努力をしなくなる傾向がある。友達になってしまうと甘え合うという特徴もある。「あいつは友達なのだからこれくらいのことはやってくれるだろう」みたいなことだ。

経済のメカニズムを知れば知るほど、巷に溢れている小説や映画やテレビドラマが現在の日本に必要かどうか疑問に思えてくる。それらの多くは、結果的に変化の痛みと矛盾をごまかすためのものばかりだからだ。

不況だと大騒ぎするわりには、過去のどの時期と比べてどのくらいの割合で景気が悪いのか、それをどの程度の水準に戻せれば景気の回復と言えるのかという基準のようなものがわからない。まさかバブルの頃を基準にするわけにもいかないだろう。

日本語で建前と本音と言うときに、それは誠実とか誠意に関係がなく、自分の利益を隠すか隠さないかの違いでしかない、という指摘をしたのは片岡義男だった。
本音で接するというのは相手に誠実に接するという意味ではなく、自分の利益となることを正直に伝えるということだ。したがって、本音には必ず甘えが含まれているし、本音の中には差別意識などが隠されていることが多い。

また魅力のある他人と親しくなるためには自分のほうにも魅力が必要だ、という事実も曖昧にできる。

当たり前のことだが、不要なものは自然になくなっていく。今の日本に希望がないのならばそれはきっと不要になってしまったのだ。

希望は、ネガティブな状況においてのみ必要なものだ。希望を持って生きるHIV感染者はエイズの発症が遅いという統計もあるそうだ。

さあみんなでリスクを取りましょうという政府の言うことを信じて、事業を始めようとする大学生がテレビなどで紹介されるようになったが、彼らは一様にバカ面をしている。

これこれ。

金融界には統合と合併の嵐が吹いているようだが、要するにリストラの口実を作っているだけだという人もいる。

当たり前のことだが、近代化を達成し一度、経済的繁栄を享受した国には没落の可能性が生まれる。没落の可能性に目を向けている人は日本の将来に悲観的だし、繁栄の要因しか見ていない人は楽観的になっている。要するにそれだけだ。

多くの人は幻想によって癒やされている。メディアからは、親の愛情は何よりも強く愛情さえあればさまざまなトラブルもすべて解決するというような嘘の情報が流れている。誠心誠意尽くせば、誰もが自分のことをわかってくれるとうような嘘も機能している。
テレビドラマから小説からニュースショーのアナウンスまで、日本の言説はそういう嘘で塗布されている。だが、日本でも現実はリアルだ。ただ、リアルな現実が塗布されて隠されているので、人々は恐怖や不安やストレスを消費することができない。リアルな現実への反応としてのネガティブな感情や意識を人々は自分の中に抱え込んでしまう。そういう恐怖や不安やストレスが実は普遍的だと言うことに気づかない。
それは将来が不安だから消費せずに貯蓄する傾向が強まっていることとパラレルである。みんな何に投資すればいいかわからないし、何を買えばいいのかもわからない。
誠心誠意頑張ればコミニュケーションが成立するという嘘は悪質だが、安易なので需要は多い。いまだに日本の常識として通用している。何をどう伝えるか、また何をどう受け取るか、ということがコミニケーションの基本だが、そういった事は問われることがない。
誠心誠意というのは具体的にどういうことなのだろうか。例えば英語しか理解できない人に日本語しか話せない人が誠心誠意頑張って意思を伝えるという文脈は笑い話でしかない。誠心誠意頑張るのではなく単に英語を学んだ方が明らかに有効だが、そういったことはほとんど誰も言わない。

親から大事な言葉を聞いていない、と言うケースも多い。ごめんね、と言う一言を親が言わなかったために、それが傷となって残り、自己評価が低くならざるを得なかったという女の子を私は何人か知っている。

MBA=マヌケ・バカ・アホと言われている人間が金融界にも大勢いるらしい。

「このままでいいのか日本経済」というような見出しはあらゆるおじさん雑誌にはほとんど毎日踊っているが、そこにエッセイや論文寄せている人にしても、対談をしている人にしても、恐ろしく巨大な「日本経済」に対して何事かを為しうると本気で考えているのだろうか。自分のことを心配したほうが良いのではないかというような人々が、あえて日本を憂い、日本の未来を考えているというのが現状だ。

異文化への真摯な興味を持つインテリ以外、日本に関心を示す西欧人などはほとんどいないと言うのが現実だからである。
そしてそのような現実は、藤田嗣治などの画家たちがヨーロッパに渡った頃から、実は変わっていないのだと思う。それに、西欧に理解され、広く読まれる小説が、日本文学として本当に優れた作品なのだろうかという根本的な疑問もある。その国固有の文化というのは、その国以外にはその独自性を正確に伝えるのは極めてむずかしいが、そのことが逆に固有の文化たり得る要因にもなっているのだ。

西欧諸国はどうして文化的に世界をリードしようとしたのだろうか。それは、西欧文化を広めることが支配を容易にするからだ。また文化的な尊敬が得られれば、政治的な国際協調においても、経済交流においても、交渉を有利に進められることを知っていたからだ。

援助交際でも、引きこもりでも、いじめでも、同級生からの恐喝でも、ストーカーでも、大切なのは恐怖や不安をシェアすることだ。誰でもいいから手当たり次第に相談することだ。

ひょっとしたら日本人は音楽やダンスに限らず「〜が好き」という概念が未発達なのではないだろうか。あるいは、〜が好き、ということと、〜に依存する、と言¥いうことを混同しがちなのではないだろうか。〜が好き、という感情は、人間にとってもっとも基本的なもので、しかもわかりにくいものだ。わかりにくいという意味は、それが個人的な嗜好に左右され他人にはわかりにくいということと、個人と言う概念が未発達な国で、果たして個人的な思考というものが存在しうるのかという疑問でもある。

「あそこでスパートしたときに何を考えていたんですか?」みたいなことを平気で聞くキャスターやレポーターがいる。スパートしようと考えてスパートしたに決まっているのに、平気でそういうことを聞く神経は信じられないが、昔からそうだったし、今後もきっと当分は変わらないのだろう。

「それでも私は日本が好き。だって山にも海にもきれいな自然が残っているし、何より私は日本人だから」と言うようなことを平気で口にする人が最近多いが、日本人だから日本が好き、と言うのはある意味で当然のことだ。外国語を一から学習するのは楽ではないし、日本語が通じるというだけでも、日本人にとっては日本のほうが住みやすいのは当たり前だ。
食事だって、おいしいソバや寿司などがある海外の都市は限られているし、日本人だったら日本の食生活の方が快適に決まっている。日本人が日本に住むメリットを充分に認めた上で、それでも海外に出たほうが人生を有利に生きられるのではないかと考える若者が増えているということなのだ。

テレビは、いろいろな意味で驚異的なメディアだった。まず、非常に多くの人が同じ疑似体験をするということはそれまでになかった。また、家族全員が受動的になるという体験もそれまでにはないものだった。

有利に生きるというのは、アドバンテージを持つ、というような曖昧なことではない。それは、高価でおいしいイタリアンレストランで食事ができるとか、広い家に住めるとか、他人からこき使われなくて済むとか、そういったミもフタないことなのだ。

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