これまでに三島由紀夫を何冊か読んだが、私が好きなのは「午後の曳航」「金閣寺」それとこの「音楽」。「潮騒」や「仮面の告白」はいまひとつであった。「豊饒の海」はワット・アルンが出てくるはずなので、ぜひ読んでみたいと思って1〜4巻まではそろっているのだが、まだ手が出せていない。
この「音楽」は20代の頃に一度読んでいて、男性器を角に持った牛が出てくる所に、当時ポコチンの絵をよく描いていた私は、小説の中でこんなことをやっていいのか、そうだよな、いいんだよなと勇気を与えられた。
不真面目な比喩かもしれないが、この瞬間の彼女は、ちらと狐であることを見破られた美女という趣があった。
「牛が駆け出して来たんです。恐ろしい勢いで、土埃をもうもうと上げて、まっしぐらに私に向かって突進してくるんです。その二本の角が…いいえ、角ではなくて、もっといやらしい形をして…そうなんです。角じゃないんです。それが二本とも、人間の男のものの形なんです。
山内明美は、しかしこの問題に、多少はしたない興味を示した。
「この女がキ印だと知ったら、抱いてる彼はどんな気がするでしょう」
女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかはほとんど役に立たないと言っていい。
そんな考えははじめて芽生えた考えであったが、これまで、私の独身生活を理解を以て支えてくれるこの女に、私は内心どんなに感謝していたか知れないのである。
一歩このホテルに入って、一室に通されると、とたんに明美は彼女のいわゆる「おままごと」をはじめる。人目を憚る心配もなく小まめに私の世話を焼き、上着を脱げばハンガーにかけてくれる、煙草をくわえればすぐ火をつけてくれる、風呂の湯加減も見てくれる、至れりつくせりの家庭的な女になるのである。こういう場合に家庭的な女になり切る女が、いざ実際に家庭に入ると、ふんぞり返った怠け者に変貌する例は数多い。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺が、実は誤訳であって、原典のローマ詩人ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」という願望の意を秘めたものであることは、まことに意味が深いと言わねばならない。
「アメリカで精神分析がはやっている理由がよくわかりますね。それはつまり、多様で豊富な人間性を限局して、迷える羊を一匹一匹連れ戻して、劃一主義(コンフォーミズム)の檻の中へ入れてやるための、俗人の欲求におもねった流行なんですね。精神分析のおかげで『治った』人間は、日曜ごとに教会へ行くようになるでしょうし、向こう三軒両隣りの退屈なカクテル・パーティーへ大人しく顔を出すようになり、女房のお使いにスーパー・マーケットへ喜んで行くようになるでしょう。そして通りかかる知人に方を叩かれて、明るい微笑で、
『よかったね、治って。今は君はわれわれの本当の仲間だ』
と言われるようになるんですね。
夜の町の賑わい、愛の言葉や喧嘩口論、ネオン・サイン、狂おしいダンスのサーフィン、路ばたの一寸した目じらせ、街娼、金を持たない若者たちの貧しいポケット、夜かけるサン・グラス、ロード・ショウ映画の最終回、早くから閉める宝石店のからっぽのビロードの台座を並べた飾り窓、夜道の自動車のしめやかな軋り、地下鉄工事のひびき…