サブカル・スーパースター鬱伝 – 吉田 豪

リリー・フランキー、みうらじゅん、菊地成孔、ECDはじめ、杉作J太郎や松尾スズキの鬱話。

42歳を過ぎたボク自身は、親の問題が出てきて、この先仕事がどうなるかという不安もある。しかしそれでも自由に、とらわれずにやっていきたい。それはそういう問題を放棄するという意味ではまったくなく、全てを包括してやれるくらい柔軟で大きなものになりたというようなことなのかもしれない。

「サブカルというか文系な有名人はだいたい四〇歳前後で一度、精神的に壊れがち」ってことに気づいて。

鬱は大人のたしなみですよ

鬱にならない人って、自分はいいものを書いているつもりで、「寒くなったな、あいつ」って言われてるのを知らないまま一生生きてく。そんな人、いっぱいいるでしょ。二〜三年ちょっと鬱状態になって仕事も滞った人のほうがまだバネがつくと思う。

ほとんどの人も仕事で鬱になってるんじゃなくて、仕事をきっかけに人に対しての不信感や喪失感や疎外感を持つんじゃないのかな。

変わってかないと絶対気が滅入るって。プロとして技術もついたし、これやり続けてりゃ金になるしっていうことで生きていける人と、次の山を登らないと的な感じになってく人といるけど、サブカルの人っていうのは体育会系じゃない癖に、そのへんのロマンチシズムはすごく体育会系だから。対自分は飽きないかもしれないけど、対他人は飽きるよ。

四十歳になってもそれぐらいの感受性は持ってようよって言いたいよね。だってそれは大人の論理で生きていくか、感受性で生きていくかの問題なんだもん。これは中年の思春期なんだから。

こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しいですよ。

四十代は、単純に肉体が弱ってくるから精神も弱るんだろうなってボクも思ってるんですけど。

底が浅い、「これでいいの?」っていう歌詞を書いてる人は大丈夫みたい。

つまり、チョイスの幅を狭くしようってことなんだよね。サブカルって結局、何でも屋さんじゃない。だから、仕事を限定することでリハビリしていくという。

正確な引用でじゃなくて恐縮ですけど、昔、橋本治さんが著書で“ストレスを日々溶かしていくことが出来る人こそが、長く創作活動を続けていける”というようなことを書いていらっしゃったんですよ。

普通、男性はプライドが傷つくようなことを避けるし、勝ち負けにこだわるし、カッコよくあろうとすることによって成し遂げることもいっぱいあるわけじゃないですか。僕、そこでカッコよくあろうと思わないところがあって。

蔓延する偽りの希望 (幻冬舎文庫―すべての男は消耗品である。) – 村上 龍

もう一度村上龍の本を読んでみている。
古い本だが、本質的なことを言っているので、今読んでもためになる。

村上龍の分析と的確な言葉選びが本当に好きで納得できる。

それでも二十代のような文体ではもう書けないかというとそんなことはない。言葉は失われたわけではなくて脳のハードディスクに眠っているだけで、それを取り出すのに時間がかかるようになっただけだからだ。
綿密な描写をはじめると脳が少しずつ活性化してくるのがわかる。ウォームアップに時間がかかるようになっただけなのだが、それでも脳が退化をはじめていることに変わりはない。

経済は人間の精神に影響して文化となってしまう。狩猟民族が貯蓄という概念がないのと同じで、終身雇用幻想を文化としている国では、たとえば「個人」とか「リスク」とか「インセンティブ」といった概念がない。個人がリスクを受け入れるという言い方は、終身雇用幻想の規範から外れることだけを意味する。

わたしは作品を作るとき競争を意識している。作品の質はもちろん、どれだけ幅広いテーマとモチーフを書くことができているか、「現代」を描きながらどれだけの普遍性を獲得できているか、そして商業的にどのくらい普及し利益を上げているか、海外のマーケットではどういう評価をされているか、そういったことである。

また長く続いた非競争社会の弊害はさまざまな文化的領域、つまりコミュニケーションの中にも溢れている。たとえば日本人は結婚してしまうと男女とも努力をしなくなる傾向がある。友達になってしまうと甘え合うという特徴もある。「あいつは友達なのだからこれくらいのことはやってくれるだろう」みたいなことだ。

経済のメカニズムを知れば知るほど、巷に溢れている小説や映画やテレビドラマが現在の日本に必要かどうか疑問に思えてくる。それらの多くは、結果的に変化の痛みと矛盾をごまかすためのものばかりだからだ。

不況だと大騒ぎするわりには、過去のどの時期と比べてどのくらいの割合で景気が悪いのか、それをどの程度の水準に戻せれば景気の回復と言えるのかという基準のようなものがわからない。まさかバブルの頃を基準にするわけにもいかないだろう。

日本語で建前と本音と言うときに、それは誠実とか誠意に関係がなく、自分の利益を隠すか隠さないかの違いでしかない、という指摘をしたのは片岡義男だった。
本音で接するというのは相手に誠実に接するという意味ではなく、自分の利益となることを正直に伝えるということだ。したがって、本音には必ず甘えが含まれているし、本音の中には差別意識などが隠されていることが多い。

また魅力のある他人と親しくなるためには自分のほうにも魅力が必要だ、という事実も曖昧にできる。

当たり前のことだが、不要なものは自然になくなっていく。今の日本に希望がないのならばそれはきっと不要になってしまったのだ。

希望は、ネガティブな状況においてのみ必要なものだ。希望を持って生きるHIV感染者はエイズの発症が遅いという統計もあるそうだ。

さあみんなでリスクを取りましょうという政府の言うことを信じて、事業を始めようとする大学生がテレビなどで紹介されるようになったが、彼らは一様にバカ面をしている。

これこれ。

金融界には統合と合併の嵐が吹いているようだが、要するにリストラの口実を作っているだけだという人もいる。

当たり前のことだが、近代化を達成し一度、経済的繁栄を享受した国には没落の可能性が生まれる。没落の可能性に目を向けている人は日本の将来に悲観的だし、繁栄の要因しか見ていない人は楽観的になっている。要するにそれだけだ。

多くの人は幻想によって癒やされている。メディアからは、親の愛情は何よりも強く愛情さえあればさまざまなトラブルもすべて解決するというような嘘の情報が流れている。誠心誠意尽くせば、誰もが自分のことをわかってくれるとうような嘘も機能している。
テレビドラマから小説からニュースショーのアナウンスまで、日本の言説はそういう嘘で塗布されている。だが、日本でも現実はリアルだ。ただ、リアルな現実が塗布されて隠されているので、人々は恐怖や不安やストレスを消費することができない。リアルな現実への反応としてのネガティブな感情や意識を人々は自分の中に抱え込んでしまう。そういう恐怖や不安やストレスが実は普遍的だと言うことに気づかない。
それは将来が不安だから消費せずに貯蓄する傾向が強まっていることとパラレルである。みんな何に投資すればいいかわからないし、何を買えばいいのかもわからない。
誠心誠意頑張ればコミニュケーションが成立するという嘘は悪質だが、安易なので需要は多い。いまだに日本の常識として通用している。何をどう伝えるか、また何をどう受け取るか、ということがコミニケーションの基本だが、そういった事は問われることがない。
誠心誠意というのは具体的にどういうことなのだろうか。例えば英語しか理解できない人に日本語しか話せない人が誠心誠意頑張って意思を伝えるという文脈は笑い話でしかない。誠心誠意頑張るのではなく単に英語を学んだ方が明らかに有効だが、そういったことはほとんど誰も言わない。

親から大事な言葉を聞いていない、と言うケースも多い。ごめんね、と言う一言を親が言わなかったために、それが傷となって残り、自己評価が低くならざるを得なかったという女の子を私は何人か知っている。

MBA=マヌケ・バカ・アホと言われている人間が金融界にも大勢いるらしい。

「このままでいいのか日本経済」というような見出しはあらゆるおじさん雑誌にはほとんど毎日踊っているが、そこにエッセイや論文寄せている人にしても、対談をしている人にしても、恐ろしく巨大な「日本経済」に対して何事かを為しうると本気で考えているのだろうか。自分のことを心配したほうが良いのではないかというような人々が、あえて日本を憂い、日本の未来を考えているというのが現状だ。

異文化への真摯な興味を持つインテリ以外、日本に関心を示す西欧人などはほとんどいないと言うのが現実だからである。
そしてそのような現実は、藤田嗣治などの画家たちがヨーロッパに渡った頃から、実は変わっていないのだと思う。それに、西欧に理解され、広く読まれる小説が、日本文学として本当に優れた作品なのだろうかという根本的な疑問もある。その国固有の文化というのは、その国以外にはその独自性を正確に伝えるのは極めてむずかしいが、そのことが逆に固有の文化たり得る要因にもなっているのだ。

西欧諸国はどうして文化的に世界をリードしようとしたのだろうか。それは、西欧文化を広めることが支配を容易にするからだ。また文化的な尊敬が得られれば、政治的な国際協調においても、経済交流においても、交渉を有利に進められることを知っていたからだ。

援助交際でも、引きこもりでも、いじめでも、同級生からの恐喝でも、ストーカーでも、大切なのは恐怖や不安をシェアすることだ。誰でもいいから手当たり次第に相談することだ。

ひょっとしたら日本人は音楽やダンスに限らず「〜が好き」という概念が未発達なのではないだろうか。あるいは、〜が好き、ということと、〜に依存する、と言¥いうことを混同しがちなのではないだろうか。〜が好き、という感情は、人間にとってもっとも基本的なもので、しかもわかりにくいものだ。わかりにくいという意味は、それが個人的な嗜好に左右され他人にはわかりにくいということと、個人と言う概念が未発達な国で、果たして個人的な思考というものが存在しうるのかという疑問でもある。

「あそこでスパートしたときに何を考えていたんですか?」みたいなことを平気で聞くキャスターやレポーターがいる。スパートしようと考えてスパートしたに決まっているのに、平気でそういうことを聞く神経は信じられないが、昔からそうだったし、今後もきっと当分は変わらないのだろう。

「それでも私は日本が好き。だって山にも海にもきれいな自然が残っているし、何より私は日本人だから」と言うようなことを平気で口にする人が最近多いが、日本人だから日本が好き、と言うのはある意味で当然のことだ。外国語を一から学習するのは楽ではないし、日本語が通じるというだけでも、日本人にとっては日本のほうが住みやすいのは当たり前だ。
食事だって、おいしいソバや寿司などがある海外の都市は限られているし、日本人だったら日本の食生活の方が快適に決まっている。日本人が日本に住むメリットを充分に認めた上で、それでも海外に出たほうが人生を有利に生きられるのではないかと考える若者が増えているということなのだ。

テレビは、いろいろな意味で驚異的なメディアだった。まず、非常に多くの人が同じ疑似体験をするということはそれまでになかった。また、家族全員が受動的になるという体験もそれまでにはないものだった。

有利に生きるというのは、アドバンテージを持つ、というような曖昧なことではない。それは、高価でおいしいイタリアンレストランで食事ができるとか、広い家に住めるとか、他人からこき使われなくて済むとか、そういったミもフタないことなのだ。

白痴 3 – ドストエフスキー

読了。
1巻は順調に面白く読めていたのだが、2巻3巻となるにつれて、なんだかよく分からなくなっていった。
翻訳ということ、設定に没入しづらいことなどが理由であろうか。何とか読み切ったが残念。

あなたとは何でも全部、一番大事なことまで話したい。話したくなったらね。だからあなたのほうも、何ひとつ私に隠しちゃだめよ。私、せめて一人でも、自分自身と話すように何でも話せる相手がほしいの。

フランス語の単語で、他の多くの言葉と同じく、ロシア語の語彙に加わったものであります。

私見によれば、作家はたとえ平凡な存在の中にさえ、面白くてためになる要素を嗅ぎ分けるよう心がけるべきである。たとえば、有る種の平凡な人物の恒久不変の平凡さそのものんが、まさにその人物の本質をなしているというよおうな場合、あるいはもっとましな例だが、そうした凡人がなんとか凡庸とマンネリの域を脱しようと渾身の努力を払ったあげく、結局はひたすら不変恒久なるマンネリの域を一歩も出ぬままに終わってしまうような場合、そうした人物はむしろ一種独特な典型性さえ獲得するのである。ちょうど凡庸な人物が、なんとかいまのままの自分から脱却しようとして、独創的というべきほどの資質をまったく持たぬまま、しゃにむに独創的かつ独立的であろうと試みるようなケースである。

実際問題として、たとえば、金持ちで家柄もよく、見た目も上品で教育も有あり、頭も悪くなければ人柄も善良なのに、それでいて何の才能も、特質も、奇癖さえもなく、自分自身の思想のかけらさえもなくて、完全に「皆と同じ」人間でしかないとしたら、それほど腹立たしいことはないだろう。財産はあるがロスチャイルドほどではなく、家柄は立派とはいえ何かで顕彰されたためしは一度もなく、容貌は上品だがいたって表情に乏しく、立派な教育を受けていてもその使い道を知らず、頭は良くても自分の思想を書いていて、情はあっても広い心はなく……といった具合で、万事こんな調子なのである。こうした人間は世の中にうようよしており、一見そう思えるよりもはるかに多いほどだが、あらゆる人間集団と同じく、彼らもまた二つの種類に大別される。すなわち、浅薄な者たちと、「はるかに小利口な」者たちである。前者のほうが幸せだ。たとえば浅薄な「凡人」は、ごく簡単に自分を非凡で独創的な人間だと思い込み、そして何のためらいもなくその空想を楽しむことができる。

「おそらく、ただ笑わせるための冗談だったのではないですか」
「おっしゃることは分かります。愉快な笑いのための罪のない嘘ならば、たとえ下品なものであれ、人の心を傷つけたりはしません。ただ話相手を喜ばせようとして、いわばひたすら友情のために、嘘をつく者すらおります。しかし、もしもそこに相手への軽視の要素をちらつかせ、そしてまさにそうして軽視ぶりによって、相手との関係に辟易していることを表現するような輩がいたら、高潔な人間のとるべき道はただひとつ、そっぽを向いて絶交し、侮辱者に対して身の程を知らしめてやることでしょう」

「さもありなんですな」

ともかく人間、気分には勝てないもので、エリザヴェータ夫人もとうとう自制がきかなくなって、ヒステリーの発作に屈してしまった。

たとえ不幸でもちゃんとモノが分かっていたほうがましですよ。たとえ幸せでもただ…馬鹿にされているよりは。

さっきあんなにむき出しにぼくに反論したので、こんどはその埋め合わせにぼくのご機嫌をとっているわけだ、はっはっ! あなたはまったく子供ですねえ、公爵!

その行いによりて彼らを知るべしとは、うまく言ったものです!

生活の質が感動的に上がる なぁさんの1分極伸びストレッチ – なぁさん

ひどく硬かった体は、2年ほど続けていると前屈で地面に指先が地面につくようになったり、歩き疲れたら一度ストレッチで足を伸ばすとその後足が軽くなったり、ストレッチは継続するとその効果を実感できる。どうしても一度仕事に向かってしまうと、集中して3時間ほどそのままの姿勢になってしまうので、ひと作業を終えたらストレッチという具合に週間づけたい。

白痴 2 – ドストエフスキー

2巻目読了。いよいよ残すところ第3巻のみ。
他の本も読みつつ、年内から年明け少しくらいまでに読み終わらせたい。

これがまた有名人、しかもきわめて良き意味で有名な人物なのであった。これは近年に出現した有る種の人物群、というよりもむしろ活動家群の一人であって、高潔にして謙虚、衷心からの意識的に有益なるものを求め、たえず働き、しかも常になすべき仕事を見出すという、めったにない幸福な才能に恵まれていた。

素寒貧

去勢派信徒

スコペッツ=十八世紀後半に生まれたキリスト教系異端派セクトのひとつで、去勢による肉欲からの解放を実戦した。

ただし本当のところは分かりはしない。新しい土地で新しい人たちのことを見抜くなんて、生易しいことではない

諸君は−科学や、工業や、協同組合や、労働報酬や、その他もろもろのもので生きている諸君は、いったい何をもって世界を救おうとされるのか、世界の進むべきまっとうな道をどこに見つけられたというのですが? ええ? 信用クレジットで世界を救おうというのですか? 信用とはいったい何ですか? 信用が諸君をどこへ導いてくれるというのです?

ただし彼の意見では、緑や澄んだ大気は必ずやぼくの体になんらかの生理的な変化を引き起こすだろうし、ひいてはぼくの不安もぼくの夢も変わり、軽減されるかもしれない、というのだ。

コトバンクより、生理的とは
1 からだの機能や組織に関するさま。「生理的な現象」
2 理屈ではなく本能的であるさま。「生理的に嫌悪する」

八ヶ月ほど前、すでに体調がひどく悪化していたぼくは、あらゆる交際を絶ち、つきあっていた仲間ともすかり縁を切ってしまった。ぼくは普段からかなり無愛想な人間だったので、友人たちのほうも簡単にぼくのことを忘れた。きっとこんなことがなくたって、ぼくは忘れられていたことだろう。

世の中にはカッとしやすい自分の性格に非常な満足を覚えている人間がいるもので、とりわけかんしゃくが極限に達すると(とは言え必ずすぐにそこまで行くのだが)その満足もひとしおなのである。そうした瞬間には、彼らは腹を立てていないときよりも腹を立てているときのほうが、気分がいいようにさえ見えるくらいだ。そうして憤激した人間は、いつもあとになって後悔の念にさいなまれることになるーもちろんその人が賢くて、自分が十倍も余計に激昂してしまったことを反省する能力があればであるが。

「個別の『慈善』を否定する人間は」とぼくは話しはじめた。「人間の本性を否定し、個人の尊厳を馬鹿にしているのさ。ただし『慈善協会』のような組織の問題と個人の自由な活動の問題とは、それぞれ別個の事柄で、しかも互いを排除するわけではない。個別な善行はけっしてなくならないだろうお。なぜならそれは人間の欲求、すなわち一人の人間が他の人間にじかに働きかけたいという、生きた欲求だから。