居島一平氏の熱量に押されて購入。読んでみるとよくある自己啓発の内容と変わらぬところもあるんじゃないか、などと思いながらも、それらとはまた違う深みが感じられるのは、新渡戸稲造著だからだろうか。
耶蘇教
キリスト教の異名
男一匹たる資格は第一に勇を揮(ふる)うて己れに克つにありと思う。己れに克つものはほかに勝つこともさほど難事でない。
なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉(ほまれ)とするも、女子の働きは内助にある。しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。
なにせ初版あ1982年なので、男女の在り方が2020ではなかなか声を大にして言い難い内容。ただこれが日本人ゆえかと思えば、そのあとにイギリス人であるキングスレーの「Men must work and women must weep.」という詩を引用している。
ようするに現在は、皆様々で、男がどうとか、女がどうとか言うのを忌み嫌う人が居るわけだが、実際のところ、かくいう男性も女性もいるわけで、ある夫婦やカップルを切り取れば、能動的な男性と受け身の女性で助け合って一緒にやっていこう、という者もいるわけで。
すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を紊(みだ)すも恬(てん)として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。
あるよね。しかし、向こうにしてみれば、向こうなりの正義でやっていたりするので、こちらもいつそちら側になるかなど分からない。表裏一体なのだ。
政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措(お)いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。
これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。
こうありたい。学生時代はいわゆるやんちゃな方がかっこよいと思っていたが、長く考えが変わった。芯を持つ。
とかく人は表面に現れたことのみで測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝の中に叩き込まれんとする。溝の縁までは譲ろう。しかし溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることはできぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免を蒙(こうむ)って、あべこべに溝に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強みが発揮される。
怜悧 れいり
頭がよく、利口なこと
自分の心得の最善を尽くしている以上は、行儀作法に多少の欠点ありとするも、人はこれを宥(ゆる)すものである。自分は行儀を知らず、作法が分からぬと臆することはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際刷る値打(ねうち)なきものと思う。
世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければ良いではないか。
人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ
何人(だれ)にも可愛(かあい)がられるものは世にないと思う。もしかかる人がありとすれば、そは自己の意思なきものである。何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。
僕が友人に対して俺の飯を食いながら反対するのはけしからんという一喝は、たしかに僕の根性の曲を曝露する。しかるにこれが十二、三歳の腕白小僧の一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが潜めるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜伏する考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。
ラシャメン 羅紗緬
日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。
自己の淫奔(いんぽん)よりする者は少なく、大多数は一家のために犠牲となったのであろう。身を売る時はじつに憐れむべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾後三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲泥の差あるを発見するであろう。
「うまくやった奴が偉い奴」
ということになり了(おわ)る。僕は決して名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀(きず)つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降(くだ)る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。
負けて退(ひ)く人を弱しと思ふなよ知恵の力の強き故なり
むかしの人のいったごとく人生は棺を覆うて始めて定まるものである。
しかるに表裏(ひょうり)という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢(きたな)い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。また陽といえばよけれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。
願わくは説が違ったときは、はてな、己れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪の判断を下す前に一応は取り調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。
この度量が必要。自分の意見は全てではないし、皆が違うのが当たり前。
「可愛い子には旅をさせよ」
というは、旅は辛い、難儀である、可愛い子にはこの辛苦を嘗(な)めさせ、鍛錬させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮者は新婚旅行する。
人の力は出せば出す程ふえる