最後の家族 – 村上龍

村上龍 2003年の作品。
随分前の作品だが、自立の話など普遍的。

強い人が何かするのだと思っていたが、そうではないと思うようになった。何かすることで、否応なく強くなる場合もある。知美をいじめる者は誰もいなくなった。やりたいことをやっていいのだとわかった。

大工とか、職人は、いい人が多いよ。単純だから。でも、何て言うか、態度が横柄なやつも多いんだ。現代の大工は、腕も確かで、かつ紳士的でなきゃね

とにかくおれたちの世界では、いろいろとまわりに気を遣うヒマがあったら、板の一本も削っちまったほうが金にもなるってことだよ。

前にも話したと思うけど、オヤジは印刷所で働いてて、毎日毎日同じ仕事で、家じゃ愚痴ばっかり言ってたから、勤め人はいやだったんだよ

からだも精神もボロボロに疲れているときには激励や慰めは役に立たない。好きだ、という言葉や仕草だけが、からだn皮膚の内側から自分を支えてくれるのだと思った。

そういった仲間とは、どうしても話さなければいけないことを話していたわけじゃなかった。
ただ、そういうグループは大事だ。たとえば兄のことで落ち込んでいるときに、みんなでどうでもいい話をしていると、一時的にいやなことを忘れることができる。そういうグループから追い出されたり、いじめに遭うのは恐い。いやなことをずっと自分一人で抱えていなければいけないからだ。
でも、小学生から年寄りまで、ずっとそういうグループを作って生きていかなければいけないのだろうか。年寄りはよく公園で集まって話したりゲートボールをしたりして、グループを作っている。子連れのおかあさんたちも公園でグループを作っている。テレビのドラマを見ていると、OLにもそういうグループがあるようだ。大学へ行っても、就職しても、結婚しても、年寄りになっても、そういうグループの中に入って生きていかなければならないのだろうか。グループの欠点は、みんなに合わせなければいけないということだ。何となく自分は大学に行くものだと決めていた。わたしは何をしに大学へ行くんだろうか。単に一緒に居酒屋に行って楽しくはしゃぐような、そういう新しいグループを見つけるために行くんだろうか。

自分の仕事の話で悪いんだけど、宝石のデザインというのも、コミュニケーションだと思うんだ。自分のデザインで、見る人や、お客さんに何かを伝えるわけでしょう。だから、奇をてらうっていうか、変わったデザインで、単に目立っても、意味がないんだよね。この指輪は変わってるねって言われるために、デザインしているわけじゃないんだからね。この指輪はきれいだねとか、この指輪は魅力的だねって、言ってほしいわけだから、自分がデザイン的にやりたかったことが伝わらないと意味がないわけ。相手に伝わらないと意味がない。それが全てだと思うな。

人が多いときは、あまり切実な話はできないんだよね

「辞める、っていうのと、誰かがおれを辞めさせようとしている、って全然違うでしょう。辞めようかなっていうのは、自分が一度選んだことだっていうのが、曖昧になってしまうんだよね。別に最初からそんなにやりたいわけじゃなかったし、って思えるんだよ。単調な仕事に飽きて、いやになったときに、どう思うかだよ。自分はこの仕事をやりたい。でも誰かがぼくを辞めさせようとしている。そう思うようにしたら考えが変わったんだ。」

疲れているだけでは人間は怒りださない。プライドが脅かされる。つまり生きることに困難を感じたときに人は怒り出すのだと、カウンセラーに教えられたことがある。

何がどう変わったのかはわからないが、強くなった感じがする。そして遠くなった感じもする。

近藤は、自分の決断と、わたしの決断を、ごちゃまぜにしていない。近藤の決定は、近藤のものだ。

決めるのは自分だ。

自分の考えを人に言えなかっただけではない。自分の考えを人に言うということがどういうことか、わかっていなかったのだ。

他人のことは放っとけばいい。だからおれのことも放っといてくれ。それが引きこもりを支える基本原則だ。それは正しい。他人のことは放っとけないーどうやらそれがこの社会の原則らしいが、それはクソだ。

自販機の横にゴミ箱があった。ベージュ色の容器に、缶・ビンと、白い文字で表示された二つの穴がある。穴は花束を突き刺すにはちょうどいい大きさだった。

でも、元気の反対は疲れてる、ってことだろう

対等な人間関係には、救いたいというような欲求はありません。

喪失感は、離れていった大切な人間の記憶を、心のどの場所に仕舞っておくかを決めるために必要なのだと言われた。

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