村上龍の新刊。
いきなり余談だが装丁のデザインも自身で手掛けたようで、とりわけかっこいいというものでもないけれども、失礼な言い方かもしれないが、高齢になっても自分で挑戦する姿勢は見ていて気持ちが良いしこの先の自分の糧にしたい。
これまで多くの村上龍作品を読んできたが、少しこれまでとは違うもので、読みはじめると、非現実的な世界のことが書かれていて、まるで村上春樹っぽいなと思わされた。ボクは村上龍に限らず現実的に書かれているものが好きなので、読むのに時間がかかった。
自身の幼少期の体験から、自分を分析するような内容がずっと続く。途中のツミキをいじる辺りは、コインロッカー・ベイビーズで弟の方が確か触っていたのと同じだよなあ。
表現というのは、信号や情報を発することじゃない、信号や情報を受けとり、編集して提出することだ。
いつも必ず一人きりだったが、決して寂しそうではなかった。ただし、幸福そうにも見えなかった。幸福ではないが寂しくはない、というような女性を見るのははじめてだった。
女の表情には、幸福な人間を許さないという嫉妬心が見え隠れしていた。
シューベルトの子守唄
わたしは、PC以外ではメールをしない。ほとんど一日中、PCに向かって仕事をしているわけで、わざわざハイエンドの携帯端末などでメールをやる必要がないし、小さなモニタを指先でタップするのは性に合わない。
わたしはどちらかといえば内向的で、非社交的だが、父はそうではなく、小さいころから、その孤独癖を何とかしろとか、他人と関係をするのを恐れるなとか、そんなことを言われ続けた。
かしこ
何か、こう、頭の中に、ときどきたくさんライトがですね、いや、ライトは、野球の、外野のライトじゃなくて、明かりのことですが、
村上龍のこういうユーモアが大好きだが、今回はほとんど見られなかった。
「困っている人を助けると、いつか自分も助けられる」
母親はそんなことを言ったが、説得力があった。
生後三ヶ月くらいまでの乳児が見ているのは、制御されていない自己像と世界像であり、それらはまるで密教の曼荼羅とか、ボッシュという画家が描く世界に似ているらしい。混乱に充ちているというより、混乱だけで成立している世界だが、乳児は、そこからでることを拒む場合がある。そして、そとに向かって知覚を拡大するきっかけになるのは、美しいと感じる本能、つまり黄金比などの獲得による。たとえば福笑いで、ばらばらの顔を見ると嫌悪を示し、鼻や目が整理されると微笑むようになるのは、生後三ヶ月を過ぎてからだということだった。
最近はハナの子供やケンタロウの子供などのこともあるのか、コロナで実家で足止めを食っているとはいえ、一人でいる感覚にあることが長いからなのか、子供が欲しいという思いに包まれることがある。
挑戦まで手紙が届きますかと聞くと、郵便局の職員は、わからんね、と素っ気なかった。でも、一ヶ月ほど経ったころ、信じられないことに、在籍証明が着いた。京城女子師範の職員もおそらく戦後の混乱で散り散りになっていたはずなのに、いったい誰が事務手続きをしてくれたのだろうと、不思議な気持ちになり、配線の日、朝鮮人の暴徒が押し寄せてから、あらゆることに悲観的になっていたが、真っ黒な空に小さな光が見えたような、何か暖かいものを感じた。
永遠に続く楽しみや喜びなどない、わたしはそんなことを理解したような気がする。
「身だしなみに気をつけること」