無趣味のすすめ – 村上龍

いつの間にか僕は自立した人間になっていて、周りの甘えに浸りきった人間と時間を共にすると心をかき乱される。
もうそういう人たちとの消耗する時間はなしにして、僕は確固とした自立した男になることにする。

だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。

言われてみれば、写真が趣味だとか、ブログが趣味だとか言っている奴を振り返ると、それは単なるエクスキューズにすぎず、結局そういう人らの書いたものや撮ったものを見ても、心を熱くさせるような文章があったり、写真のクオリティーが上がっているわけでもない。レンズを買っただなんだと言っているようだが、お前自身からの変化は何もないままだ。それでいいのだろう、趣味なのだから。

ビジネスにおけるパートナーと夫婦はいろいろな面で似ている。

良くわかる。共同経営をしているときに強く感じた。そして相手の依存が強くなってくるうちに、こいつはダメだと思った。本当の本当は、会社を登記する前に一緒にやるのは止めようと打ち明けたのだが、彼は「ぼくは後藤さんとやりたいです」言ったまま、その後何も言わずに黙ってしまった。今思うと実に甘えた発言だが、当時の僕もまた甘く、なしくずしてきにやることにしてしまった(今の僕も人が良すぎるところが治っておらず、困ることがたまにある)。
こういう甘えた人間の依存は強まってくるもので、そのうちにやっぱりだめだと思い、抜けることを伝えると、今度は「じゃあ、資本金を半分ずつにしたらよくないですか?」としがみついてきて、別々になってからもかなり長く飯の誘いがあったりして、「ああ、この人は別れた女にもこうやってしつこくするんだろうなぁ」とうんざりした。

いまだ達成されていない目標は、他人に語ることで医師が「拡散」sる。

メモに限らず「書き記す」という行為は、人類にとって重要なので、

仕事とプライベートにおけるその人の優先順位が、その人の人生なのだ。

実際の交渉においてもっとも重要なのは、相手の立場に立って考えるということだ。

アルバニア人であるマザー・テレサのような英語はたどたどしく現代的な言い回しも流行の常套句もなかったが、正確で、英語圏の人々にも交換が持たれるということだった。

タイ語はTone languageなので、発音はある程度強く意識をしなければならないが、それでも同じ単語でもイサーン語のそれと、中央語のとでは、同じ表記でも発音の違うものがあるので、それほど気にすることはないのかもしれない。それよりも何を伝えたいのかをしっかりと意識して話をすることの方が大切だ。
たまにいるのは、ขอโทษครับとかน้องครับというタイ語を自信満々に大きな声で言うおじさんがいるんだが、その後が続かない。であれば、もう少し謙虚な言い方をしてくれないか。初めの勢いはどこへいった?来年も再来年も同じ調子でน้องครับだけを言っているんだろうな。

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