人生論 – トルストイ

なんだか言い回しのややこしい表現が続いて、難解に感じる。分かりやすく書くことの大事さを思った。

ユダヤ教徒とキリスト教徒の議論という古い笑い話がある。キリスト教徒が、ユダヤ教徒のだしたややこしい微妙な問題に答えているうちに、相手の禿げ頭をぴしゃりと音のするほど掌で叩き、いまの音は何からでたか、掌からか、それとも禿げ頭からか、と質問をだしたという話だ。こうして、信仰をめぐる議論が、新しい解決不可能な問題にとってかわられたのである。

人は永く生きれば生きるほど、快楽がますます少なくなってゆき、倦怠や、飽満や、労苦や、苦悩がますます多くなってゆくことを、いっそうはっきり知る。だが、それでもまだ足りない。力の衰えや病気を経験しはじめ、他の人々の病気や老いや死を眺めているうちに、人はさらに、そこにだけ本当の充実した生命を感じていた自分の存在そのものも、刻一刻、一挙一動ごとに、衰弱と老いと死とに近づきつつあることにも気づくのである。

もし両親が貧乏なら、子供は親から、人生の目的とは、動物的個我ができるだけ楽をするため、パンと金とを少しでもよけいに手に入れ、仕事をできるだけ少なくすることである、と知るだろう。もし贅沢な家に生まれれば、その子供は、人生の目的とはできるだけ快適に楽しく時を過ごせるよう、富と名声を持つことである、と知るだろう。
 貧乏人が身につけるすべての知識は、彼にとってもっぱら、自分個人の幸福をさらに増やすために必要である。金持ちが身につける科学や芸術のあらゆる知識は、科学や芸術の意義などという高尚な言辞にもかかわらず、もっぱら退屈をしのいで楽しく時をすごすためにのみ必要なのである。どちらの人間も、永く生きれば生きるほど、ますます強く世間の人たちの支配的な考え方がしみついてくる。やがて結婚し、家庭を持つと、動物的な生命の幸福を獲得しようという貪欲な気持ちは、家庭という口実によってさらに強化される。他人との闘争も激化し、もっぱら個人の幸福のためにのみ生命の習慣(惰性)が確立されてゆく。

「しかし、みんながみんな狂っているはずはない、とすれば、狂っているのは俺のほうなんだ。だが、違うぞ。こういうことを告げてくれるこの理性的な自分が狂っているはずはない。この自分がただひとり全世界を相手に立ち向かおうと、俺はこの自分を信じぬわけにはいかない」
こうして人は、魂を引き裂くような恐ろしい疑問をかかえたまま、世界じゅうで自分が一人ぼっちなのを意識する。それでも生きてゆかなければならない。

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