蔓延する偽りの希望 (幻冬舎文庫―すべての男は消耗品である。) – 村上 龍

もう一度村上龍の本を読んでみている。
古い本だが、本質的なことを言っているので、今読んでもためになる。

村上龍の分析と的確な言葉選びが本当に好きで納得できる。

それでも二十代のような文体ではもう書けないかというとそんなことはない。言葉は失われたわけではなくて脳のハードディスクに眠っているだけで、それを取り出すのに時間がかかるようになっただけだからだ。
綿密な描写をはじめると脳が少しずつ活性化してくるのがわかる。ウォームアップに時間がかかるようになっただけなのだが、それでも脳が退化をはじめていることに変わりはない。

経済は人間の精神に影響して文化となってしまう。狩猟民族が貯蓄という概念がないのと同じで、終身雇用幻想を文化としている国では、たとえば「個人」とか「リスク」とか「インセンティブ」といった概念がない。個人がリスクを受け入れるという言い方は、終身雇用幻想の規範から外れることだけを意味する。

わたしは作品を作るとき競争を意識している。作品の質はもちろん、どれだけ幅広いテーマとモチーフを書くことができているか、「現代」を描きながらどれだけの普遍性を獲得できているか、そして商業的にどのくらい普及し利益を上げているか、海外のマーケットではどういう評価をされているか、そういったことである。

また長く続いた非競争社会の弊害はさまざまな文化的領域、つまりコミュニケーションの中にも溢れている。たとえば日本人は結婚してしまうと男女とも努力をしなくなる傾向がある。友達になってしまうと甘え合うという特徴もある。「あいつは友達なのだからこれくらいのことはやってくれるだろう」みたいなことだ。

経済のメカニズムを知れば知るほど、巷に溢れている小説や映画やテレビドラマが現在の日本に必要かどうか疑問に思えてくる。それらの多くは、結果的に変化の痛みと矛盾をごまかすためのものばかりだからだ。

不況だと大騒ぎするわりには、過去のどの時期と比べてどのくらいの割合で景気が悪いのか、それをどの程度の水準に戻せれば景気の回復と言えるのかという基準のようなものがわからない。まさかバブルの頃を基準にするわけにもいかないだろう。

日本語で建前と本音と言うときに、それは誠実とか誠意に関係がなく、自分の利益を隠すか隠さないかの違いでしかない、という指摘をしたのは片岡義男だった。
本音で接するというのは相手に誠実に接するという意味ではなく、自分の利益となることを正直に伝えるということだ。したがって、本音には必ず甘えが含まれているし、本音の中には差別意識などが隠されていることが多い。

また魅力のある他人と親しくなるためには自分のほうにも魅力が必要だ、という事実も曖昧にできる。

当たり前のことだが、不要なものは自然になくなっていく。今の日本に希望がないのならばそれはきっと不要になってしまったのだ。

希望は、ネガティブな状況においてのみ必要なものだ。希望を持って生きるHIV感染者はエイズの発症が遅いという統計もあるそうだ。

さあみんなでリスクを取りましょうという政府の言うことを信じて、事業を始めようとする大学生がテレビなどで紹介されるようになったが、彼らは一様にバカ面をしている。

これこれ。

金融界には統合と合併の嵐が吹いているようだが、要するにリストラの口実を作っているだけだという人もいる。

当たり前のことだが、近代化を達成し一度、経済的繁栄を享受した国には没落の可能性が生まれる。没落の可能性に目を向けている人は日本の将来に悲観的だし、繁栄の要因しか見ていない人は楽観的になっている。要するにそれだけだ。

多くの人は幻想によって癒やされている。メディアからは、親の愛情は何よりも強く愛情さえあればさまざまなトラブルもすべて解決するというような嘘の情報が流れている。誠心誠意尽くせば、誰もが自分のことをわかってくれるとうような嘘も機能している。
テレビドラマから小説からニュースショーのアナウンスまで、日本の言説はそういう嘘で塗布されている。だが、日本でも現実はリアルだ。ただ、リアルな現実が塗布されて隠されているので、人々は恐怖や不安やストレスを消費することができない。リアルな現実への反応としてのネガティブな感情や意識を人々は自分の中に抱え込んでしまう。そういう恐怖や不安やストレスが実は普遍的だと言うことに気づかない。
それは将来が不安だから消費せずに貯蓄する傾向が強まっていることとパラレルである。みんな何に投資すればいいかわからないし、何を買えばいいのかもわからない。
誠心誠意頑張ればコミニュケーションが成立するという嘘は悪質だが、安易なので需要は多い。いまだに日本の常識として通用している。何をどう伝えるか、また何をどう受け取るか、ということがコミニケーションの基本だが、そういった事は問われることがない。
誠心誠意というのは具体的にどういうことなのだろうか。例えば英語しか理解できない人に日本語しか話せない人が誠心誠意頑張って意思を伝えるという文脈は笑い話でしかない。誠心誠意頑張るのではなく単に英語を学んだ方が明らかに有効だが、そういったことはほとんど誰も言わない。

親から大事な言葉を聞いていない、と言うケースも多い。ごめんね、と言う一言を親が言わなかったために、それが傷となって残り、自己評価が低くならざるを得なかったという女の子を私は何人か知っている。

MBA=マヌケ・バカ・アホと言われている人間が金融界にも大勢いるらしい。

「このままでいいのか日本経済」というような見出しはあらゆるおじさん雑誌にはほとんど毎日踊っているが、そこにエッセイや論文寄せている人にしても、対談をしている人にしても、恐ろしく巨大な「日本経済」に対して何事かを為しうると本気で考えているのだろうか。自分のことを心配したほうが良いのではないかというような人々が、あえて日本を憂い、日本の未来を考えているというのが現状だ。

異文化への真摯な興味を持つインテリ以外、日本に関心を示す西欧人などはほとんどいないと言うのが現実だからである。
そしてそのような現実は、藤田嗣治などの画家たちがヨーロッパに渡った頃から、実は変わっていないのだと思う。それに、西欧に理解され、広く読まれる小説が、日本文学として本当に優れた作品なのだろうかという根本的な疑問もある。その国固有の文化というのは、その国以外にはその独自性を正確に伝えるのは極めてむずかしいが、そのことが逆に固有の文化たり得る要因にもなっているのだ。

西欧諸国はどうして文化的に世界をリードしようとしたのだろうか。それは、西欧文化を広めることが支配を容易にするからだ。また文化的な尊敬が得られれば、政治的な国際協調においても、経済交流においても、交渉を有利に進められることを知っていたからだ。

援助交際でも、引きこもりでも、いじめでも、同級生からの恐喝でも、ストーカーでも、大切なのは恐怖や不安をシェアすることだ。誰でもいいから手当たり次第に相談することだ。

ひょっとしたら日本人は音楽やダンスに限らず「〜が好き」という概念が未発達なのではないだろうか。あるいは、〜が好き、ということと、〜に依存する、と言¥いうことを混同しがちなのではないだろうか。〜が好き、という感情は、人間にとってもっとも基本的なもので、しかもわかりにくいものだ。わかりにくいという意味は、それが個人的な嗜好に左右され他人にはわかりにくいということと、個人と言う概念が未発達な国で、果たして個人的な思考というものが存在しうるのかという疑問でもある。

「あそこでスパートしたときに何を考えていたんですか?」みたいなことを平気で聞くキャスターやレポーターがいる。スパートしようと考えてスパートしたに決まっているのに、平気でそういうことを聞く神経は信じられないが、昔からそうだったし、今後もきっと当分は変わらないのだろう。

「それでも私は日本が好き。だって山にも海にもきれいな自然が残っているし、何より私は日本人だから」と言うようなことを平気で口にする人が最近多いが、日本人だから日本が好き、と言うのはある意味で当然のことだ。外国語を一から学習するのは楽ではないし、日本語が通じるというだけでも、日本人にとっては日本のほうが住みやすいのは当たり前だ。
食事だって、おいしいソバや寿司などがある海外の都市は限られているし、日本人だったら日本の食生活の方が快適に決まっている。日本人が日本に住むメリットを充分に認めた上で、それでも海外に出たほうが人生を有利に生きられるのではないかと考える若者が増えているということなのだ。

テレビは、いろいろな意味で驚異的なメディアだった。まず、非常に多くの人が同じ疑似体験をするということはそれまでになかった。また、家族全員が受動的になるという体験もそれまでにはないものだった。

有利に生きるというのは、アドバンテージを持つ、というような曖昧なことではない。それは、高価でおいしいイタリアンレストランで食事ができるとか、広い家に住めるとか、他人からこき使われなくて済むとか、そういったミもフタないことなのだ。

白痴 3 – ドストエフスキー

読了。
1巻は順調に面白く読めていたのだが、2巻3巻となるにつれて、なんだかよく分からなくなっていった。
翻訳ということ、設定に没入しづらいことなどが理由であろうか。何とか読み切ったが残念。

あなたとは何でも全部、一番大事なことまで話したい。話したくなったらね。だからあなたのほうも、何ひとつ私に隠しちゃだめよ。私、せめて一人でも、自分自身と話すように何でも話せる相手がほしいの。

フランス語の単語で、他の多くの言葉と同じく、ロシア語の語彙に加わったものであります。

私見によれば、作家はたとえ平凡な存在の中にさえ、面白くてためになる要素を嗅ぎ分けるよう心がけるべきである。たとえば、有る種の平凡な人物の恒久不変の平凡さそのものんが、まさにその人物の本質をなしているというよおうな場合、あるいはもっとましな例だが、そうした凡人がなんとか凡庸とマンネリの域を脱しようと渾身の努力を払ったあげく、結局はひたすら不変恒久なるマンネリの域を一歩も出ぬままに終わってしまうような場合、そうした人物はむしろ一種独特な典型性さえ獲得するのである。ちょうど凡庸な人物が、なんとかいまのままの自分から脱却しようとして、独創的というべきほどの資質をまったく持たぬまま、しゃにむに独創的かつ独立的であろうと試みるようなケースである。

実際問題として、たとえば、金持ちで家柄もよく、見た目も上品で教育も有あり、頭も悪くなければ人柄も善良なのに、それでいて何の才能も、特質も、奇癖さえもなく、自分自身の思想のかけらさえもなくて、完全に「皆と同じ」人間でしかないとしたら、それほど腹立たしいことはないだろう。財産はあるがロスチャイルドほどではなく、家柄は立派とはいえ何かで顕彰されたためしは一度もなく、容貌は上品だがいたって表情に乏しく、立派な教育を受けていてもその使い道を知らず、頭は良くても自分の思想を書いていて、情はあっても広い心はなく……といった具合で、万事こんな調子なのである。こうした人間は世の中にうようよしており、一見そう思えるよりもはるかに多いほどだが、あらゆる人間集団と同じく、彼らもまた二つの種類に大別される。すなわち、浅薄な者たちと、「はるかに小利口な」者たちである。前者のほうが幸せだ。たとえば浅薄な「凡人」は、ごく簡単に自分を非凡で独創的な人間だと思い込み、そして何のためらいもなくその空想を楽しむことができる。

「おそらく、ただ笑わせるための冗談だったのではないですか」
「おっしゃることは分かります。愉快な笑いのための罪のない嘘ならば、たとえ下品なものであれ、人の心を傷つけたりはしません。ただ話相手を喜ばせようとして、いわばひたすら友情のために、嘘をつく者すらおります。しかし、もしもそこに相手への軽視の要素をちらつかせ、そしてまさにそうして軽視ぶりによって、相手との関係に辟易していることを表現するような輩がいたら、高潔な人間のとるべき道はただひとつ、そっぽを向いて絶交し、侮辱者に対して身の程を知らしめてやることでしょう」

「さもありなんですな」

ともかく人間、気分には勝てないもので、エリザヴェータ夫人もとうとう自制がきかなくなって、ヒステリーの発作に屈してしまった。

たとえ不幸でもちゃんとモノが分かっていたほうがましですよ。たとえ幸せでもただ…馬鹿にされているよりは。

さっきあんなにむき出しにぼくに反論したので、こんどはその埋め合わせにぼくのご機嫌をとっているわけだ、はっはっ! あなたはまったく子供ですねえ、公爵!

その行いによりて彼らを知るべしとは、うまく言ったものです!

生活の質が感動的に上がる なぁさんの1分極伸びストレッチ – なぁさん

ひどく硬かった体は、2年ほど続けていると前屈で地面に指先が地面につくようになったり、歩き疲れたら一度ストレッチで足を伸ばすとその後足が軽くなったり、ストレッチは継続するとその効果を実感できる。どうしても一度仕事に向かってしまうと、集中して3時間ほどそのままの姿勢になってしまうので、ひと作業を終えたらストレッチという具合に週間づけたい。

白痴 2 – ドストエフスキー

2巻目読了。いよいよ残すところ第3巻のみ。
他の本も読みつつ、年内から年明け少しくらいまでに読み終わらせたい。

これがまた有名人、しかもきわめて良き意味で有名な人物なのであった。これは近年に出現した有る種の人物群、というよりもむしろ活動家群の一人であって、高潔にして謙虚、衷心からの意識的に有益なるものを求め、たえず働き、しかも常になすべき仕事を見出すという、めったにない幸福な才能に恵まれていた。

素寒貧

去勢派信徒

スコペッツ=十八世紀後半に生まれたキリスト教系異端派セクトのひとつで、去勢による肉欲からの解放を実戦した。

ただし本当のところは分かりはしない。新しい土地で新しい人たちのことを見抜くなんて、生易しいことではない

諸君は−科学や、工業や、協同組合や、労働報酬や、その他もろもろのもので生きている諸君は、いったい何をもって世界を救おうとされるのか、世界の進むべきまっとうな道をどこに見つけられたというのですが? ええ? 信用クレジットで世界を救おうというのですか? 信用とはいったい何ですか? 信用が諸君をどこへ導いてくれるというのです?

ただし彼の意見では、緑や澄んだ大気は必ずやぼくの体になんらかの生理的な変化を引き起こすだろうし、ひいてはぼくの不安もぼくの夢も変わり、軽減されるかもしれない、というのだ。

コトバンクより、生理的とは
1 からだの機能や組織に関するさま。「生理的な現象」
2 理屈ではなく本能的であるさま。「生理的に嫌悪する」

八ヶ月ほど前、すでに体調がひどく悪化していたぼくは、あらゆる交際を絶ち、つきあっていた仲間ともすかり縁を切ってしまった。ぼくは普段からかなり無愛想な人間だったので、友人たちのほうも簡単にぼくのことを忘れた。きっとこんなことがなくたって、ぼくは忘れられていたことだろう。

世の中にはカッとしやすい自分の性格に非常な満足を覚えている人間がいるもので、とりわけかんしゃくが極限に達すると(とは言え必ずすぐにそこまで行くのだが)その満足もひとしおなのである。そうした瞬間には、彼らは腹を立てていないときよりも腹を立てているときのほうが、気分がいいようにさえ見えるくらいだ。そうして憤激した人間は、いつもあとになって後悔の念にさいなまれることになるーもちろんその人が賢くて、自分が十倍も余計に激昂してしまったことを反省する能力があればであるが。

「個別の『慈善』を否定する人間は」とぼくは話しはじめた。「人間の本性を否定し、個人の尊厳を馬鹿にしているのさ。ただし『慈善協会』のような組織の問題と個人の自由な活動の問題とは、それぞれ別個の事柄で、しかも互いを排除するわけではない。個別な善行はけっしてなくならないだろうお。なぜならそれは人間の欲求、すなわち一人の人間が他の人間にじかに働きかけたいという、生きた欲求だから。

インドが変える世界地図 モディの衝撃-広瀬公巳

1月にインドへ行くことにしたので、前から気になっていたナレンドラ・モディ首相を学ぶ意味も含めて。

数えてみれば次のインドで通算5回目。しかし言葉はナマステ、ダンニャバード、グラム・チャイ・ディジエ、ケラしか知らない。
7,8回来ていたタイに住む前にもサワディーカップとコップンカップしか知らず、それもコップ&カップと覚えるといいという後輩の教えで覚えたようなもの。いつも旅では目の前に起こることを楽しんでいたし、そのスタイルは変わらないと思うが、こうやって読んでみると、これから行く国ということで面白く読めた。

2018年8月15日。インドの独立記念日の式典でモディ首相は、インドがフランスを抜いて世界第六位の経済大国となったことをアピールし〜

日本の敗戦記念日は、インドや韓国では独立記念日となる。

2015年にグーグルのCEOに就任したサンダー・ピチャイ。<中略>
マイクロソフトのトップを務めるサティヤ・ナデラも、1967年にインド南部アンドラプラデシュ州ハイデラバードで生まれた。<中略>
ソフトバンクの副社長やヤフーの会長を務めたニケシュ・アローラは、1968年にインド北部のウッタルプラデシュ州で生まれた。

ヤンマーは、田植機やコンバインなどの生産販売及びサービスについて、ハイデラバードの現地法人と合弁契約を結んだ。クボタも、索引など多用途に適合したトラクタの現地生産を行ない、世界最大規模のトラクタ市場で進出を加速させている。

タイの製造業と付き合うようになると、ヤンマーやクボタの活躍が見えるようになった。タイは人口6千6百万ほど、インドは13億。

インドで先行するアマゾンとの、巨大な成長市場を巡る争いが注目される。

従来、経済の基本は「ヒト」「モノ」「カネ」と言われてきた。

「経済」という大きなものについて納得のいく考えを持ちたい。
村上龍が「小説で精神的なあれこれを書いても、そんなもの経済的に説明すると3行で済むと言われたくないので、経済を学んだ」というようなことを言っていて、経済抜きではどうしても語ることが難しい社会において、いくら情動が豊かでも賢くないように思うところがあるのだ。

そんなベンガルールで、日本のカレーがインド市場に挑戦しようとしている。五十年の歴史を持つ「ボンカレー」で知られる大塚食品が、ベンガルールをインド進出の舞台に選んだ。<中略>
三井物産と株式会社壱番屋も「カレーハウスCoCo壱番屋」をインド全土で展開するために合弁会社を設立した。

日本なんて。。という気持ちがあるが、それでも日本企業が世界へ進出していくのを知るとワクワクするのは、やはりその「日本なんて」も愛情なのか。

インドは2017年前後に中国を抜き、世界一の人口大国になると予想されている。

東大寺の境内の一角には、四頭のインドライオンが背中合わせに並ぶ、少し日本の風情とは違和感のある石柱がある。

日本の寺院でみられる仏像の多くはインドにルーツがあり、ヒンドゥー教の神々が日本では仏様を守る守護神などに姿を変えている。例えば、吉祥天は女神ラクシュミー、大黒天はシヴァ神、弁財天は女神サラスヴァティー、ブッダはビシュヌ神の生まれ変わりということになる。

日本の「アルト」を改良した「マルチ800」の納車をグルガオン工場から開始した。

鈴木修氏。
http://book.masatoshigoto.asia/2018-july-06/

モディは、キャッチコピーの名手でもある。
人々が覚えやすい標語、呼びかけの決り文句を上手に考える。それを演説の中に巧みに織り込んで、雰囲気を盛り上げる。「メイク・イン・インディア」「クリーン・インディア」など、わかりやすい表現で関心を集め、世論を手動していく。

インドでは人口十三億のうち、まだ三億人が屋外で琲世を行っているという。

ウェブデザインの思考法 – 金 成奎

デザインを言語化するというのは、ボク自身も取り組んで5年くらいになる。
客先に提案する際にも当然それを用いるわけだが、それが上手に働いているのかどうかは、今一度検証する必要があるかもしれない。

「デザイン」というある種、曖昧で答えの無いように見えるものに答えを探して世に放つわけだが、その答えに確かなものがあるのかと言えば、決してそういうわけではなく、だからこそ、考察を重ねて、そうであるだろう答えに近づけていく努力をするわけだが、一度説明したそういう話が客先の心に残っているわけでもなく、公開したサイトに対して、突然に「メニューの前にアイコンを置いてください」という話が出てくることがある。

そういう場合にはもう一度丁寧に説明を重ねるわけだが、いまだに「アイコンつけるのって難しいですか?」とか「〇〇するのって大変ですか?」とか言われるわけだけど、難しいとか大変だとか言うのは、重要な話ではなくて、それを実行することがこのサイトに良い効果をもたらすのか、これまで構築してきた方針に沿っているのか、そういうことを考えることが飛ばされているこは少なくなく、さらには、打ち合わせやラインのグループ会話においては、その人の前に上司もいると、自分をアピールするために何かそれっぽいことを発言するような人もいて、「そういうところからの話になるのね。。」と半ばうんざりとしてしまう。

しかし、それでも特に最近はウェブサイトのビジネスにおける役割がより出てきているので、上手にやればデザイナーへの信頼は今までよりも強く確かなものになっていくはずなので、この本も参考に改めて、よりよい仕事をしていくことにする。

コルトレーン – パオロ・パリーシ

イタリア人によるジョン・コルトレーンの話。
かなり掻い摘んでいるので、ある程度ジョン・コルトレーンの事を知らないと良く分からないが、いくらかジョン・コルトレーンのことを知ることができた。

ポケット・トランペットなるものがある。

聞きたいのは、どこから出発したかってことじゃない。いったいどこに向かっているか、だ。 〜マイルス・デイビス

「分析」で成果を最大化する BtoBビジネスのデジタルマーケティング – 中田 義将

変化の速い世界のなか2017年の書籍。
読んでいるとベイジの枌谷氏が書いていることと似たようなことが書いてあるので、BtoBに関してはこれらを実行していくことで、それなりの成果が上げられるのかもしれないが、実行を継続するのが何より大変。プロジェクトを立ち上げるところまでは良いが、それを継続していくこと、プラスの情報を追加していくことをしていくためのリソースと費用をクライアントから捻出するのは簡単ではない。

私の会社の調査によれば、多くの顧客が、購買行動を開始する前にインターネットで情報を収集し、十分な比較検討を行ったうえで、意思決定をすることが明らかになっています。

そのため売り手も、インターネットを使うことで見込み客と接点を持ち、興味・関心を換気する方策を講じることが必要になりますが、それは決して難しいことではありません。

白痴 1 – ドストエフスキー

ずっと読みたくて新潮版が本棚にあったのだが、いよいよ読んでみようという気になって、どうも文字が小さいのが気になり調べてみると河出書房のものが読みやすいとあったので書い直して読み始めた。実際に新潮のものを読んでいないが、これは読みやすかった。

カラマーゾフの兄弟と同じように登場人物が多く、名前も親しみのないものだったので、人物相関図を作りながら読み進めるのが楽しく、少しずつ読み進めるとのめり込んでいった。登場人物の思考が疑り深く、浅はかな感じがしなく、人間模様が面白い。


読みながら作成した人物相関図です。お使いください、もしも使えるようであれば。

その結果ご面会いただければよろしいですし、いただけなければそれもまた結構、いやひょっとして大いに結構かもしれません。

まったく関係ないが、菊地成孔が「結構、結構」言った後に、山下達郎のSPARKLEが流れたのが最高だった。

ええ、時間は許しますとも。ぼくの場合、時間は全部自分のものなのです。

彼女はおおむね孤独に暮らしており、書を読み、勉学にまでいそしみ、音楽を趣味としていた。交友関係は狭く、いつも親しくしているのはどこかの貧しくて風変わりな役人の妻たちで、他にも何とかいう女優が二人と、どこかの婆さん連中とつきあいがあった。

確かに今の自分は辛く寂しい、とても寂しい気持ちでいる。つまりトーツキーさんが言い当ててたとおり、自分は愛情とはいわぬまでも、せめて家庭を得ることを新しい目標として、よみがえるることができたらと願っているのだ。

少なくとも自分は何事につけ、何人の許しも請うつもりはないし、人にもそのことを知っていてもらいたいと思っている。

だが気弱な人間の常として、彼も時々にわかに元気を取り戻し、みるみる勢いづく瞬間があった。

ぼくははじめめからおまえが悪い女なんて少しも思っていなかった。ただ不幸せな女だと思っただけだ。

ぼくは白痴扱いされているけれど、本当は賢いんだ。ただみんなにはわからないんだ……

ぼくは人づき合いが苦手なものですから、ひょっとしたら次にお邪魔するのはうんと先になるかもしれません。でもどうか悪くとらないでください。決して皆さんを軽んじて言っているわけではありませんし、何かでぼくが気を悪くしたなどともお思いにならないでください。

ある種の人たちによく見られることだが、いったん相手を罵倒して何の反発もないと見ると、ガブリーラは次第に遠慮会釈なく罵詈雑言を浴びせるようになってきた。

「水をお飲みなさい」彼はガブリーラにささやいた。「それに、そんな目つきをしてはいけません……」

ぼくのほうは彼ほどには恥ずかしさを感じません。だってぼくの場合は父親の問題なのに、彼の場合は母親でしょう。これはやっぱり違いますよ。だって男性の場合にはあんなのも恥というわけではないですから。でもこれもひょっとして、両性間の支配関係に関する偏見でしょうか。

だいたいここには誠実な人間がおそろしく少なくて、尊敬できる相手など皆無です。だからどうしても人を見下すようになりますが、相手はそれでも尊敬を要求してくる。

しかもこの女性はどうやら、おつむの弱さと顔の綺麗さが比例しているような按配だったのだ。

「ご存知ですかとトーツキーさん、噂によると、日本人もよく同じようなまねをするそうじゃないですか」ぷちーツィンがそう話しかけていた。「日本では、侮辱された人間が侮辱社者のところに行って、こう言うそうですよ。『お前は私を侮辱した。だから私はお前の目の前で腹を切りに来た』そしてそう言うとともに、本当に侮辱者の目の前で自分の腹を切り裂いて見せみせ、しかもそれで実際に敵討ちをしたのと同じような極度の満足を得るのだそうです。まったく世の中にはいろいろ変わった正確があるものですね、トーツキーさ」

BRUTUS(ブルータス) 2019年10/15号No.902[バンコク 見る、買う、食べる、101のこと。]

雑誌なんてパラパラとめくるものだし、わざわざこうして記録しておくこともないとも思うのだが、バンコクに住んでいるだけに、こういう雑誌が出た、読んだ、文章書いた、写真の一部を担当したみたいな話がツイートで流れてきて、普段だとへそ曲がりで偏屈なボクはこの手のものに手を向けないのだが、日本へ向かう飛行機の座席の前のポケットに「山の音」を入れたまま飛行機を降りてしまったので、近くのブックオフだった場所に行ってみると、すでにそこはファミリーマートに変わっていて、雑誌売場に足を運ぶと鉄道市場の写真が目に入ったので。と言い訳のような前置きはこれくらいにして、最近は会社案内やフリーペーパーに掲載する広告それに名刺など印刷物をお願いされることも増えてくると、雑誌のような多量のページデザインを、それもものすごい量の文章と写真の量もあり、校正もあって、雑誌のデザイナーはすごいなと関心して、尊敬しました。

デザイン・ルールとトンマナを決めて、今号の場合だとバンコク特集ということで、タイ国旗の赤青白を使って、細い罫線と点線を使うみたいなことがあり、あとは何人かのデザイナーで自由に、みたいな感じなのだろうか? 原稿を書いた人の名前をみるとほとんどが、以前までダコの編集長をやっていた Mai Miyajima さんで、これだけの量をほとんど一人で書いてしまうんだなと本当に感心した。ひょっとするとデザイナーも一人で、どちらも前もって頭の中で全体の構成を描いて、その場その場で処理を行っていっちゃったりするのかな、と思いつつも、やっぱりある程度の大枠を作ったほうが捗りそうだなと思い直した。写真の切り抜きは誰かにやってもらうとして、それ以外は一人でもやれないことはないだろうが、入稿前は結構たいへんなことになりそう。

ウェブと違ってコーディングをせずによく、印刷に出してしまったら修正ができないので、そこまで、という潔さもあり、雑誌のデザインはかっこいいよなあ。思えばデザイナーを目指した頃、やはり自分にとってのそれはウェブデザイナーだったんだよな。当時衝撃を受けたフラッシュがそれの中心にあって、特に目指したかったのはGyagaやWarner Brosなんかの映画配給会社のウェブデザイナーで確か働かしてもらいたい旨をメールしたけど返事がなかったんだよな。その後、小学時代を共に過ごした友人とばったり会うと、東北新社でプロデューサーか何かをやっていて、同僚のデザイナーが海外の映画を日本で上映するにあたって用意する日本語用のロゴが初めて採用されたのがいる、みたいな話を聞いて悔しい思いをしたのを思い出した。

BRUTUSのバンコク特集。白を基調にさっぱりと、切り抜き画像多様して、グリッドとグリッドをはみ出すレイアウトが混在して全体的に、遊び心のある感じというありきたりの言葉しか浮かんでこないが、個人的に好きなデザインで勉強になりました。

そういえば、この2週間の間、先週は土曜日、今週は土日ともに仕事をほとんどしなかった。こうして意識的に働かない時間をつくって頭の管理をしていかないといけない。こういう時間のある人生を。

不幸な子供 – エドワード・ゴーリー

オリラジ中田あっちゃんのおすすめで。

プレゼンがあまりに上手で、楽しみになってバンコクの紀伊国屋に行ってみたが、英語版も含めて全店に置いてなく、しかたなく日本行きを待って購入。

正直、期待をしすぎてその期待を越えては来なかったが、このエドワード・ゴーリーという人がアナグラムで名前をいじって別名で作品を発表しているなど、そのやり方が最高で、もう少し別の本も読んでみないといけない。

そしてこの先絵本を描くことを決めた。
その昔、漫画家になる夢を持ったが、小学生の頃の漫画クラブで、話を考える難しさを知り挫折。しかし、改めて、ストーリーも考えて、絵本を作る。必ず。

鍵 – 谷崎潤一郎

実家の書架にあったものを4,5年ぶりに引っ張り出してきて読み直した。
まず、何がすごいと言って、棟方志功の装丁と挿絵。
大雑把に考えられているような画風であり、繊細に考えられているようにも見えるが
実際に棟方志功がそれらを考えていたのか、天然で出来上がっているのか分からぬがいい感じ。
マティスや熊谷守一なんかも晩年には、そんな言葉でまとめてよいのか分からぬが、ここでは「シンプル」と言わせてもらうとシンプルになっていく。
今のうちのごちゃごちゃと屁理屈をこねて晩年にはシンプルなものになっていくのか。
こういうのも、その作家の歴史というものがあって、色々経てシンプルになるところに魅力があったりもするので、一概にシンプルが良いってわけでもないからおもしろい。

中で面白いのは、男の視点から書かれるのと、女の視点から書かれるのとで、字体を変えているところ。これを字体と呼ぶべきか分からぬが、男の場合にはカタカナと漢字を使い、女の場合にはひらがなと漢字が使われる。その漢字も旧字体が使われている。最近の作品でこれをやるのは無理があるのだろうが、当時は(昭和31年初版)まだこれが通ったのだろうか。ちなみに、当時のこの本の値段が三五〇圓とある。

青空文庫を見てみると、書籍と同じ用に再現されている。難しい漢字やルビも含めて、データ化するのは大変だったろう。

ソレハ四十五歳ノ女ノ足ノヨウニハ思エナイ)ノ所有者デアルヿヲ知ッテイナガラ、イヤ知ッテイルガユエニ、メッタニソノ足ヲ僕ニ見セヨウトシナイ。真夏ノ暑イ盛リデモ彼女ハ大概足袋ヲ穿はイテイル。セメテソノ足ノ甲ニ接吻サセテクレト云ッテモ、マア汚きたなイトカ、コンナ所ニ触さわルモノデハアリマセントカ云ッテ、ナカナカ願イヲ聴きイテクレナイ。

昔45才といえば、ずいぶん年の離れた遠い先のことで、あの頃、45才の女性と言えば、こんな事を言っては何だが、おばさんであり、お母さんのようであったが、実際に近づいてみると、自分と同年代の45年分の経験を持った女性に魅力を感じるようになる。若い女性が好きなのもいるがボクにはそれは良く分からない。

矢立(やたて)

画期的に思える道具。使い終わった後、筒の中に筆を収めてしまうと、乾いた筆先はカチカチになってしまうだろうが、それはどうするのか。翌日などにすぐに開けて、手でもみほぐしてまた使えばよい、という程度に考えるのであろうか。

浅ましい趣味ではあるけれども、夫は私の裸体を見ることが好きなのであるから、せめて夫に忠実な妻の勤めとして、知らないうちにハダカにされることぐらいは忍耐しなければいけないと思う。

男女平等みたいなことが言われて久しいし、どちらが上も下も無いのは事実であるが、自分の母親なんかをみると、一緒に買い物にでかけ、重そうに買い物袋を持っているのを見て、持つよと声をかけると、男に持たせるわけにはいかないわよ。と言う。そんなことはどうでもいいから、というと、あんたは海外に住んでるからそういう風な考え方をするんだね。いいから、いいから。と答えが帰ってくる。別に抑圧されているという印象はない。もちろんそれ自体が抑圧された結果だという見方もあるが、こういう人は不幸だから開放するのだというような考えに、余計なお世話だと返すのもよいではないか。

若筍わかたけの吸い物、蚕豆(そらまめ)の塩うで、きぬさやと高野豆腐こうやどうふの焚たき合せ、

当時の日本を思わせる食事。これはフランス文学やロシア文学の食卓にはあがらない。自分が子供の頃でも蚕豆の塩うでは目にした。

234ページ中67枚もある棟方志功の挿絵の一部
版画ならではの表現が光る


着物からら出ている肌の白さ


乳首を隠すように布団がかぶさっている


背景のサイケデリックさ


着物の柄


こちらも着物の柄が素晴らしい


背景の植物と削り漏れのような後だが、細かいことは気にすることない態度


見開きページのための2枚綴りの作品。さらにこの下に文字が並ぶレイアウトが書籍のデザインとして良い。1行が短くなる気持ちよさは河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也においても全体で使われており、贅沢にも感じ


上から見下ろす構図


女の耳に輝くイヤリング

棟方志功の作品集のように多くの作品見られるこの古い書籍が以外にもアマゾンで216円などで売られているので、好きな方はぜひ買ってみてみていただきたい。

侏儒の言葉 – 芥川龍之介

イケメン。
生まれてから母親の精神がおかしくなり、11歳までそういう母親とくらしていたという。どういう程度のおかしさなのかは分からないが、母親からの無償の愛というようなものを受けてはいないのかもしれない。それは祖母のものに変わったのか。

況(いわん)や

良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。

我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我我の好悪である。或いは我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、まさに溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。

人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じえないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦(また)確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

スウィフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるそうである。

完全に幸福になり得るのは白痴のみに与えられた特権である。

我我はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。

結婚は性慾を調整することには有効である

立川談志も結婚することでセックスがただできるようになる、というようなことを言っていた。

我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウェルテル、ロミオ、トリスタンー古来の恋人を考えて見ても、彼らは皆閑人ばかりである。

ふむ。

消化は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・ミア」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。

我我の恬然(てんぜん)と我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、ー或は、犬猫に対する時だけである。

あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟(ひっきょう)「臆病な」と云うことに過ぎない。

阿呆はいつでも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。

何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。

恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

リスティング広告のやさしい教科書。 ユーザーニーズと自社の強みを捉えて成果を最大化する運用メソッド – 桜井 茶人

ウェブサイトをつくって、そのウェブサイトは内部構造はしっかりできていて、アップロードもしやすく考慮して、運用体制は整っている。そういうサイトであれば、継続してなるべく利用者の求めている内容のコンテンツをアップしていくことで、検索の順位は獲得できる。それは分かった。

更新型のサイトでない場合には、他の方法で流入を稼ぐしか無い。それまでなんとなくやっていたGoogle広告は、なんとなくやっていても反応はあったので、これを掘り下げていくことにした。

やってみると数字が良くなり、興味を持っている人や企業があることも分かった。良いサイトをつくって、マーケティングもやれるということになれば、これは強い武器になる。BtoBマーケティングについて勉強をはじめよう。

AISAS Share – Action – Search -Interest – Attention

品質スコアのしくみ
・推定クリック率
・広告の関連性
・ランディングページの利便性

ゼロの焦点 – 松本清張

松本清張という人の名前とミステリーを書く作家ということは知っていたが、どんなものか読んでみたくなり。
まだ存命の方かと思ったが、1992年に他界している。

1959年、今から60年前の作品。
これは、とりわけ引き込まれるというわけでもなかったが、別の 或る「小倉日記」伝 という作品では芥川賞を受賞している。

ゼロの焦点は、モノクロ時代に映画化され、2009年にも広末涼子が出て映画化されている。
5月から8月の3ヶ月の日本滞在で、HULUにハマった。
ホームランドとウォーキング・デット。受動的に垂れ流して観続けた。
日本のHULUのオリジナル作品を観てみるが、クソつまらなくてすぐに止めた。
ネットフリックスの全裸監督はおもしろいらしい。

コインロッカー・ベイビーズ – 村上 龍

5月30日に父親が緊急入院、6月と7月を日本で母親の介護をしながら過ごすと、上手に時間をつくることができなくて、入浴中のほんの15分ほどしか本を読むことに充てられなかった。

この本は2013年あたりに入院していたチェンマイの病院で見つけて、その時は貪るように読んだ。上下巻に分かれていた。
今回は、少しずつしか進まず、実生活のことが気になって、最後の最後は読み飛ばす始末。

女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷入り煙草より細くて生魚の味がした。

こういうイカれた表現にやられるのだ。

城 – フランツ・カフカ

話の筋がなんだか良く分からず、かなり読むのに時間がかかったが、なんとか読み終えた。
文学会では評価の高い作品のようだが、未完のためもあるのか、それでなくても、ようするに何なのだか私には分からなかった。

私は小説の中の登場人物の発する言葉をメモするのが好きなのだが、この作品からはとりたててメモしておきたい言葉も見つからなかった。何度か途中で投げ出してしまおうと思ったが、とにかく終わらすことだけは終わらせようとなんとか踏ん張った。それに意味があるのかは分からない。

本を読むことにもだいぶ慣れてきたので、今一度本に対する姿勢を考え直そうと思う。
文章を味わい、内容を楽しむ。特に小説の場合には、これを意識したい。

沈黙のWebライティング —Webマーケッター ボーンの激闘—〈SEOのためのライティング教本〉- 松尾 茂起

我が社の今のウェブサイト制作業務は、サイトの目的からUIや導線を考え見た目をつくり、裏側のコードや更新性を含めた構造も良いものを提供していると思っている。

それに加えて、ウェブサイトを使った集客や検索結果の上位獲得も特定のキーワードではできている。

しかし、もっともっと多くの人に見てもらって、より目的を達するウェブサイトにしていくための運用分を鍛えるために、改めてライティングとデジタルマーケティングについて学ぶことにした1冊目。