チンギスハーン3 – 横山 光輝

これはテムジンに対して おまえが勝手になるなら われ等も勝手にやるぞという 意思表示であった

例えば列に並んでいて、自分の前に誰かが割り込んできた場合、こちらも同じ様に、もしくは別の誰かがおまえの前に割り込んでもいいんだよな? という風に考えてきたが、こういう考えでは怒り続けないとならないので疲れてしまうのかも知れない。 きっと身内に不幸が起こったなどのどうしょうもない理由でとにかく急いでいるんだと考えて、だから仕方ないよなと考えられる方が良いのかも知れないが、まだまだしばらく訓練が必要そうだ。

観察の練習 – 菅俊一

デッサンの練習やデザインに関しての考察のため、観察の練習というタイトルに惹かれて買ったのだが、中身は昔あった「VOW」という街のおかしなものを投稿型で紹介していくというような雑誌に近い、写真とコメントというスタイルであまり心に残るものではなかった。

つまり、店員が発した「いらっしゃいませ」という言葉は、私(客)が「すいません」と声を掛ける前に、同僚に客が来ているということを知らせる合図だったのだ。

きめ細かいサービスといえばそうなのかも知れないが、客が店員に声をかければすむだけの話だし、それくらいの簡単な話が気軽にやれるくらいの関係の方がやりやすいだろうと思う。

内容を見ると「みんな見ていますよ/飼い主さん/犬のフンはちゃんと/持ち帰ってくださいね」と書かれており、犬の散歩をしている飼い主に向けたメッセージであることが分かる。


デザイナーの高橋ヨシキ氏が、このステッカーに対し「見てんじゃねーよ!」と一蹴。ジョージ・オーウェルの1984の世界がこれ。

タイ語発音教室―基礎からネイティブの音まで – 岡滋訓

長い間 เอ と แอ の違いが曖昧で、はっきりと違いを認識して言うことが出来ないから、聞くこともできなくて、新しい単語を聞いたときも เอ で探せなければ แอ で探して見つかるという具合で、ずっと矯正したいと思っていて、まだタイ語学校に通っていた頃に、発音の練習にこの本を買って、かなり役に立った記憶があり改めて数年ぶりに購入。

読んでみて、なるほど良く分かった。この本とネット検索していたら เอ は日本語の え の音。 แอ は日本語で「いーだ」の口をしながら え の音。という解説も見つけて、それも役に立った。
タイ語は発音がとても大事だが、発音のことを書いている本は少ないので、タイ語の発音をものにしたいという人にはきっと役に立つ本。CD付きでおすすめです。

コンビニ人間 – 村田沙耶香

芥川賞をとった作品で久米宏がおもしろいと言っていたのに興味を持って。

現代人と言っても漱石の頃からも個人で生きていくことに悩み始めていて、今も変わらずに同じ問題があり、「個人で」「個人の」という割には他人に干渉するのが好きだから、なんともやっかいで、他人の望む自分になっていくことを選んでいく。
これ、人間としてみるとそれでいいのかって思うけど、ビジネスで考えると、顧客の望むものを提供する必要がある。ずば抜けた作家性や頑固なラーメン屋のように、やりたいようにやることでファンをつくるってのもあるけど、それは敷居が高い。とすると顧客の望むものを知りたいし、やりたいこととの間を狙っていけば大衆化しすぎずに自分らしさみたいなものを残せるかもしれない。
自分の在り方においても同じで、他人と何をどこまで共有するか。本当に他人との関わりが一番のイシューだよなと思うけど、三菱重工だか何かの関連の社長をやっていた母方の祖父が「他人との関わりが一番むずかしい」と言っていたと母から聞いたが、その解決方は聞いておらず、難しいよねで終わらしていては意味がないので、自分にとって良い加減の関わり方を作り上げなければいけない。

http://book.masatoshigoto.asia/2018-aug-10/
SNSを使ってのこの時代での関係の築き方の考えを前進させた一冊。

皆が悲壮な顔で止めてと言っても収まらないので、黙ってもらおうと思って先生に走り寄ってスカートとパンツを勢いよく下ろした。若い女の先生は仰天して泣き出して、静かになった。

幼稚園の年少か年長の頃、さすがに年長だと思うが、お遊戯だか自由時間だか何かの時間に、先生の周りに園児が集まって、先生に抱きついたり、誰かは先生に抱っこをされていたりしてワイワイと騒いで、「◯◯せんせ〜い」とか何とか先生を大声で読んでいるような時間に、ぼくが「おい、〇〇!」と先生の下の名前を叫んだら、その女性の先生は「誰だ、今言ったのは?」と怒り出し、僕はしらばっくれたことがあったのを思い出した。嫌なガキだな。

特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。
大抵のひとはそうなのではないかと、私は思っている。

環境の影響は強いよね。僕はひとりでいることが多く、そういう人はあまり他人の影響を受けない代わりにどうなるかというと、声が小さくなっていくし、顔の筋肉が固くなっていく、と思っている。

「付き合ったこととか… 恵子からそういう話、そういえば聞いたことないなって」
「ああ、ないよ」
反射的に正直に答えてしまい、皆が黙り込んだ。困惑した表情を浮かべながら、目配せをしている。ああそうだ、こういうときは、「うーん、いい感じになったことはあるけど、私って見る目がないんだよねー」と曖昧に答えて、付き合った経験はないものの、不倫かなにかの事情がある恋愛経験はあって、肉体関係をもったこともちゃんとありそうな雰囲気で返事をしたほうがいいと、以前妹が教えてくれていたのだった。「プライペートな質問は、ぼやかして答えれば、向こうが勝手に解釈してくれるから」と言われていたのに、失敗したな、と思う。

何かを見下している人は、特に目の形が面白くなる。そこに、反論に対する怯えや警戒、もしくは、反発してくるなら受けてたってやるぞという好戦的な光が宿っている場合もあれば、無意識に見下しているときは、優越感の混ざった恍惚とした快楽でできた液体に目玉が浸り、幕が張っている場合もある。

私が「恋愛をしたことがない」と言ったときより皆うれしそうで、そして全てわかっているから、という口ぶりで話し続けている。恋愛もセックスもしたことがない、就職もしたことがない、前の私のことは、たまに理解不能だというリアクションを示したが、白羽さんを家に住まわせている私のことは、未来のことまで全てお見通しだと言わんばかりだった。

WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜 – 佐渡島庸平

<a href=”https://masatoshigoto.asia/jp/after-the-2nd-year/” target=”_blank”>ウェブ制作会社ごとうまさとし事務所の2年目の挨拶記事</a>にも書いたが、ひとりでやっていくよりも誰かと協力しながらやっていくほうがいいかもしれないってことを考えている時に出会って、パワフルで頭の良い人で、これからの時代みんながこうやってやれたら、みんな仕合せになれるのかもしれないけど、みんなが自分を上手く見せられるわけじゃあない。ぼくはそうやって上手く見せられない側の人間だけど、それだって仕合せになれるんだ、ということを証明する。それを大きな目標とする。しかし、この本には感銘を受けた。また時期をあけて読んでみると面白いかも知れない。

編集者となり、作家といろいろなことを語り合い、信頼関係を築けるようになった。それで、僕の孤独は、少し癒やされた。問題はコミュニケーション能力で、社会人になってさまざまな関係の人とコニュニケーションをとるようになり、それが改善しただけかもしれない。

夏目漱石が小説で書いていることを、すごーく雑にまとめてしまうと、「個人としてどう生きるか考えよって言われても、今までコミュニティの中で役割が決められていたのだから困るなぁ。自由度が増えて、苦しみが増えた」ということ。

すごいなぁ。一言でまとめあげちゃって。 明治の頃からずっと同じことを考えているから、漱石の小説には引き込まれるところがあるんだろう。

こころ
吾輩は猫である

「何を手に入れているか」よりも「何をやっている人か」「なぜやっているか」という理由のほうが重要になってきたのだ。

無限にあると思っていた社会的な大きな不便や不満が、ほとんど解決されてしまった。残るのは、個人的な小さな不便や不満になった。

3人に共通しているのは、みんな自分の小さな問題を見つけて、その問題解決を必死にしている間に世間に認められたということだ。彼らの価値は、問題解決ではない、問題発見だ。ブレない価値観を持ち、「自分の好き」を大切にしている。世間の価値基準に合わせて、不自由を我慢していないから、自分が取り組む問題を発見できる人たちだ。

「奴隷の幸福」 

僕が起業したのは、勝ちたいからではない。幸せになるためだ。自分の人生に意味をもたせたかったから。そのために必要なのは、インターネット時代に合わせて、コミュニティをアップデートしていくことだ。

新しいことを始めるときに考えるのは基本だ。基本は、時代が変わっても変わらない。表面的な演出などが変わるだけだ。 どんな産業も、そんなにシック味は変わらないはずで、異常な仕組みは、結局は淘汰される。ネットによって、不自然なものは、より早く排除されていく。どんどんなめらかになっていくのだから、基本に忠実なほうがいい。

パレートの法則

“How are you?”と、アメリカ人が日常で知らない人に話しかけることも、意味を持ってくる。

では、そこに、Beの肩書きを加える。Aさんは、お笑い好きで、その人自身も人を笑わせるのが好きである。Bさんは、誰よりも道に詳しいことにホコリを持っている。道を知っていることが、プロの証だと思っている。

アップデート主義

チンギスハーン1 – 横山 光輝

ふうむ 父を殺したタタール族やおれたちを裏切りすべてを奪ったタイチュウト族から身を守るためには強い後ろ盾が必要だ。これはトオリルに接近しておいた方がよい

先頃になってようやく独りでいるよりも、他人と協力していく姿勢を見ていこうとした矢先に、こういう台詞を見ると心に残る。いつの時代だって本質は変わらないのだ。今更だけれども、自分にとっては気づいたときが一番早いのだから、協力できる関係を作っていこう。

田畑を耕すのに強いリーダーシップはいらない。誰がやっても、出来上がりにそれほどの差は出ない。しかし、砂漠や草原地帯では強いリーダーシップが全体を統率しなければだめなのだ。人間の集まるところには必ず異論というものが生じる。異論も拒否もしないで、みんなで妥協点を探ろうというのが村の論理であり、日本人の最も好む考え方だ。

僕自身は他人との話になると、ここで言うように妥協点を探るように動いていて、ものすごく日本人的なのかもしれない。家族では男がリーダーになるでしょう?という話をタイの女性としていて、「君はその考えには同意する?」と聞いたら、「する」という答えが帰ってきた。群れの中で生活をすることから遠ざかって長いので、自分の所属する場所でのリーダーシップについて考えていなかったが、自分の意見を持って引っ張っていく姿勢は、今の時代に誤解を恐れずに言えば男らしいことだろう。リーダーシップを意識し出すと、僕の場合には話が感情のコントロールに向いていく。異常に怒りっぽくて、怒りは恐れや不安からきているのだとすると、臆病な犬ほどよく吠えるというような話におさめてしまうが、そういえばアンガーマネージメントなんて言葉があるし、自分を成長させるために本を読むことにしよう。そして協力者を作って、必要な場所ではリーダーシップを振るっていく。

ネットで「女性」に売る – 谷本 理恵子

成果型の案件があり、売ればわたしにも金が入ってくるので、試せることはどんどんやっていきたい。書籍の内容には、頷けるところあり、何を言ってんだか、といったところあり。

本人がすごく「悩んでいる」という前提で売ろうとしても、売れるはずがありません。

女性は興味ある部分しか読まない傾向が強い

なんで 女性は なのさ。

思うがままに夢が叶う超瞑想法 – 苫米地英人

仏教に「無明(むみょう)」という言葉があります。無明とは、人間が根本に持っている無知のことであり、すべての迷いや苦しみも無明から生まれるとされます。みなさんは、自我によるスコートマのため、まさに無明の真っただ中にあるのです。

その選択の結果、ある時は優しい人になり、ある時は凶悪な犯罪者になってしまうだけなのです。

こころ – 夏目漱石

久しぶりに漱石の一冊。三四郎と門は読んでいるので、「それから」を読んで、前期三部作をすべて読んでしまおうとも思ったのだが、書架に並んでいた二冊を手に取り、何の気なしに「こころ」を選んだ。草枕と門に続き名作。

いい感じに暗くて、言葉遣いも今の時代とは違って、なんだかそれがかっこよく響き、サンキュータツオは美しい日本語を使うと評していた。漱石を読み始めた頃に、この言葉遣いに慣れていなくて難解に感じたのだが、何冊か読んでいるうちにそれがすっと入ってくるようになるのは、タイ語に慣れていくのと大差なく、むしろ言葉を増やせる喜びにも繋がる。

明治の終わりを迎える描写があり、明治時代や明治維新、幕末のことなども本で読もうと決めた。100年前の日本について知ってみたくなった。祖父や祖母が生きた時代。それから今の僕がタイで暮らしていることに繋がってくるのだから、考えてみると不思議なもんだよな。

「私は淋しい人間です」と先生が云った。「だから貴方の来て下さる事を喜んでいます。だから何故そう度々来るのかと云って聞いたのです」

「悟るの悟らないのって、-そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何か遣りたいのでしょう。それでいて出来ないんです。だから気の毒ですわ」
女は男の後ろを歩けってか。歩きますってか。

「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」

「私に云わせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方だけあって、中々お上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌になったんだとも云えるじゃありませんか。それと同なじ理屈で」

田舎者は都会のものより、却って悪い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいものです。だから油断が出来ないんです」

「ああ。叔父さん、今日はって、断って這入って来ると好かったのに」

この場面、先生と私は、知らぬ人の家の庭に這入って、ごろっと横になって時間を過ごしているんだが、こんな風に鷹揚とした感じが明治の日本にはあったんだなあ。この感じがあるなら日本もまだ捨てたもんじゃあなかったけど。

白ければ純白でなくっちゃ

学問をさせると人間がとかく理屈っぽくて不可ない

誤魔化されるのは何方にしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向こうの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我が通った事になるのですから。

しばらくするうちに、私の眼はもと程きょろ付かなくなりました。自分の心が自分の座っている所に、ちゃんと落付いているような気にもなれました。

私はこんな時に笑う女が嫌でした。

私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経った後の事でしたが、まだ奥さんと御嬢さんの晴着が脱ぎ捨てられたまま、次の室を乱雑に彩っていました。

『おれは策略で勝っても人間として負けたのだ』

感覚について: ヴィパッサナー実践の道しるべ – アルボムッレ・スマナサーラ

自分の感覚とは異なる部分もあったが、仏教や瞑想など自分を高めて、より楽に、より良く生きられる自分を作り上げる。

ある一定の仕事、とくに妄想なんかする場合は、かなり「脳の中」でしています。それはありありと頭の中に感じるはずです。しかし、きちんとした論理的な思考の場合は、脳を使っている感じはあまりしません。パッパッと答えが出るだけ。だから妄想する人びとは、かなり脳が病気なのです。それで体も病気になって、治らなくなる危険がありますから、気をつけたほうがいいのです。
言ってることに極端な所があるよな。
私が食べたかったら「おいしい」と認識するし、食べたくなかったら「べつにおいしくない」と認識する。私がこの人といっしょにいたかったら、「すごく優しい人だ」と言う。別れたい場合は、「すごく乱暴な人だ」と言うし、「失礼な人だ」とも言う。すべて「(私の)都合」によります。だから、一人の人間が親切な人になるか、失礼な人になるかは、相手しだいなのです。
現代社会で冥想したがる人というのは大体、あまりにいい加減な生き方をしてきて、社会の中で負けてしまったような人々でしょう。
ちっともそんなことないだろう。逆に一生懸命に生きているから、瞑想したがる人だっているだろう?

行動経済学まんが ヘンテコノミクス – 佐藤雅彦, 菅俊一, 高橋秀明

行動経済学に興味があり、まずは一歩目として。
確かに興味深い点があるが、これを実際の商売にどう繋げていくかを練らなければならない。

■フレーミング効果
同じ情報でも言い方を変えると異なる印象を与えてしまう現象
「死亡率20%の手術」
「成功率80%の手術」

■親近効果
私たちには、複数の情報を順番に提示された時に、後に提示された方を印象強く評価してしまう「親近効果」と呼ばれる心理現象があります。
「僕はエミちゃんと結婚したいけど、給料は安いし、口うるさい母親がいる」
「僕は給料は安いし、口うるさい母親がいるけど、エミちゃんと結婚したい!」

■極端回避性
ついつい真ん中を選んでしまう

■上昇選好
だんだん良くなる方を好みます

■認知的不協和の解消
私たちは自分の心に湧き起こる不協和を解消するために、時折心にもなかった言動をして心のバランスを取ろうとすることがあるのです。

BERNARD BUFFET ET ANNABEL – ベルナールビュフェ美術館

力強い黒の輪郭線が好みで、描かれるキャラクターが画面の中心に1体あって、背景があるという構図はビックリマンシールのようで、こういう種類の作品を描いていた私は、戦後するからこういうことをやっている人がいたんだなという驚きがあって、その作品をイラストと呼ぶか絵画と呼ぶのかなんて、その作家の決めるものでいいのだ、そうあるべきだった。

そういえば、バンコクのAKKOギャラリーが閉店するようだ。私は絵画で食っていくことは10年くらい前に諦めて、と言ってもチャレンジしたのも5年もなく、やりながらも深いところでは、自分を信じ切ることができずに、駄目だと思っていた所があるので、たいそうなものでもなんでもないのだが、絵画や芸術で食っていくことのできる人ってのは、かなり少ないのではないだろうか。食っていく術を他に持ちながら作品づくりを続ける人が圧倒的で、その持続可能性ってのはどれくらいなものなのか。AKKOギャラリーのことは何も知らない。ただ紀伊国屋へ行くと飾られているAKKOギャラリーの作家の作品を見られるのは楽しみだったので、ああいう一服の清涼剤がなくなってしまって、またひとつ世の中がクサクサしたものになると思うと寂しいし残念だが、同時に別の誰かが世の中を芸術によって明るくする何かをやっているのだろうとも思う。世の中はそう捨てたもんじゃないってことを知っているよ。

 

ネットには見つからなかったが、書籍の最後に載っている写実表現に近い「波」という作品がとても良くて、そこに添えられているベルナール・ビュフェの言葉は次のようなものだ。

「私は大海原を航海する一隻の小舟のようなもの。その波間を縫って、何とか舵をとっているのです。」

「抽象画を描きたいか」という質問にビュフェはこのように答えた。
「絵画はすべて“抽象的”です。具象画は誰にでも理解できるとされていますが、鑑賞者が絵画の中にそれぞれの“美”を見出そうとしなければ、何の意味もないのです。抽象・具象を問わず、すべての芸術が“抽象的”であるというのは、この意味においてです」


アナベルの言葉より
愛するもの同士の関係は、貴重で生き生きとしていjますが、その中で最もむずかしいのが対等という関係です。習慣よりもまずいのは譲歩です。小さな意見のぶつかり合いを避け続けていたら、いずれ相手を非難することになってしまいます。私なら、あとで恨みごとを言うより、言ってしまって後悔するほうを選びます。


私はベルナールの作品のすべてを愛しています。41年間の愛情と友情は決して消えることはありません。


ボリス・ヴィアンやサルトル、カミュ、マイルス・デイビス、フランソワーズ・サガン、コクトー、イヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオールなどの同時代の人の名が登場している。

イン ザ・ミソスープ – 村上 龍

気になっていた作品を一気に読んだ。一文が尋常でなく長い。句点(。)の代わりに読点(、)を用いて延々と一文を続けていく。

おれは昔から、ものごとを悪いほうに考えるやつだ、悲観主義者だ、と友達からよく言われてきた。親父が早い時期に死んだことが影響していると思う。親父が死んだのはやはりショックだった。最悪なことは自分が関知できないところで進行していてそれがあるとき突然に姿を現す。そしてそうやって現実になったときにはほとんどのことはもう手遅れなのだ。親父の死からおれはそういうことを学んだ。

そういうばかげた、それでいてシリアスで、人間の悪意に関わることは大切な人には言いたくない。

悪意は、寂しさや悲しさや怒りといったネガティブな感情から生まれる。何か大切なものを奪われたという、からだをナイフで本当に削り取られたような、自分の中にできた空洞から悪意は生まれる。

知ってるかね、ストレスがない場合は睡眠は必要ないんだ、睡眠というのはからだではなく、脳を休ませるためにあるんだ、からだの疲労だったら横になっていれば回復できる、だが脳は睡眠以外では回復しなくて、眠らない状態が長く続くと人間は凶暴になる、どこまでも凶暴になることができる

「要するに、セックスなんだ、彼らが目指したのはセックスなんだね、あらゆるアブノーマルなセックスだ、アナルセックスやスカトロジーや死体とのセックスだね、もともとは聖地エルサレムを守る聖堂騎士団が、アラビアの異端宗教に触れたことから始まるのだが、十四世期にはね、騎士団への入会式のときに、新しい入会者は位が高い人のアナルに接吻することが義務づけられていたらし、彼女はこういう話でどきどきするんじゃないかな、ローリング・ストーンズも一時悪魔崇拝に凝っていたんだよ、彼女はローリング・ストーンズが好きそうなタイプだものね」

おれは、どうして誰もがこれほど嘘つきなのだおると思った。まるで誰もが嘘をつかなくては生きていけないように見える。

おれは、フランクの横で、そんなことを考えている場合ではないとわかっていながら、どうやったらマキをコケにすることができるだろうと考えていた。それで、コケにする方法はまったく見つからなかった。このてのバカ女には、無知という強いバリアがあて、おまえがバカだと正確に指摘しても、バカって何? で終わってしまうのだ。

この外人に意志を伝えなくてはならない、と思った。何か言うのと、伝えるというのは違うのだと初めてわかった。

イヤなやつはイヤな形でコミュニケートしてくる。人間が壊れている、というとき、それはその人のコミュニケーションが壊れているのだ。その人間とのコミュニケーションが信じることができないときに、そいつを信じられないやつだと思う。

日本人はどこか他の民族に国を占領されたり、虐殺されたり、国を追われて難民になったり、独立するために多くの人が死んだりという歴史的苦難を味わっていない、前の戦争でも戦場になったのは中国や他の東南アジアの国々や太平洋の島々や、それに沖縄だけで、日本の本土は単に空襲にあっただけだ、目の前に敵が現れて肉親を殺されたり、犯されたり、違う言葉を強要されたりしていない、ヨーロッパも新世界も基本的にはそういう侵略と混血の歴史を持っていて、それが国際的な理解の基本になっている、だからこの国の人は外国人に対して排他的なんだ、どうつき合えばいいのかわからない、歴史的に、外国人とリアルに接したことがないんだよ、アメリカ合衆国の場合を除けば、そんな国は世界中で日本しかない、とそのレバノン人の新聞記者は彼女に教えてくれた

タイ王国も植民地になっていない国であるが、この文脈ではあたらないのか。

外を歩けるようになると、ぼくはすぐに迷子になった、まるで迷子になるために歩けるようになったような感じだな、とパパに言われたことがあるよ

人間は想像する、あらゆる動物の中で、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、機器を回避して生き延びていくためには、予測、表現、伝達、確認、などが絶対に必要で、それを支えるのは想像力だ、われわれの祖先は、ありとあらゆる恐怖を想像してそれらが現実になるのを防ごうとした、だから、現代の人間達にもそういう想像力が残っていて、それが、ポジティブに発揮されれば、芸術や科学を生むし音がディブに発揮されるとそれは必ず恐怖や不安や憎悪という形になって、われわれ自身に返ってくる

大丈夫、正常だ、精神が健康的な人というのは、ある程度の混乱と矛盾を抱えているもんなんだ、好き嫌いが石とか鉄みたいに固く安定してしまっている人のほうが危険だ、振り子がどちら側に振れるかわからない、迷いがあっていつも悩んでいるという状態でみんな生きているんだよ、それが正常なんだ

確かに、意味として、長く生きることと死なないことは同じことだ。

ロビンソン・クルーソー – ダニエル・デフォー

誰もが知っているであろうロビンソン・クルーソーは、名前は聞いたことがあったが読んだことがあるのかどうか記憶になく、ずっと興味があって岩波のものをkindleで買ったのだが、上下巻というボリュームでなかなか読む気にならなかったところ、この福音館文庫の子ども向けのものが古本屋で見つかり購入。想像していたよりもうんと面白く、無人島での話を一気に読み進めた。

第一に、この島にいれば、世の中のあらゆる悪から遠ざかっていられた。わたしには、さまざまな肉体の欲望も、悩みも、見栄もなく、身のまわりにあるものだけで満足していられたから、やたらに欲を出すこともなかった。

わたしは、できるだけ、自分の境遇の明るい面だけを見て、暗い面は見ないようにし、不足しているもののことを考えるより、今持っているもののありがたみを考えるようにした。おかげで、言葉にはあらわせないほどの喜びを、人知れず味わうのだった。

まったく、わたしたちの現在の境遇のありがたみというものは、みじめな境遇に落ち込んで、つらい目にあってみて、はじめてわかるものだし、今持っているもののねうちは、なくなってみないとわからないものだ。

まったく、人生というものは、なんと複雑な、運命の織り物だろう! そして、わたしたちの心は、情勢が変わるにつれて、なんとめまぐるしく変わることだろう! わたしたちは今日愛しているものを、明日になると憎んだり、今日求めているものを、明日になると避けたり、今日なんとしてもほしいと思っているものを、明日になると、おそれるばかりか、考えただけで身震いしたりするものだ。

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める! – 苫米地英人

ゴールを意識して生きているか。ゴールのために行動しているか。まずはそれを自問すべきです。

ゴールに向かう童貞には苦しさもあれば楽しさもあり、苦しくても楽しさがある。別の言い方をすれば、抽象度の高いゴールに向かって生きている人は、苦しさも楽しさも関係なく、ただひたむきに生きているのです。

その感情に振り回されずに、「悲しさも人生の味わいのうち」と、娯楽として味わえばよいのです。娯楽として味わっておけば、振り回されることはありません。

この世界の理を踏まえて生きていく心構えのことを「責任」と言っているのです。

「自分」とは、「他社との関係にまつわる情報」が寄り集まったものなのです。

「自分は他人の目にこんなふうに映っているんだろうなあ」というイメージは、あなた自身がつくりだしているということ。
他人の目に映っている自分というものは、自分が作り出している虚像です。「他人の目から見た自分」そのままを、自分で見ることはできないのですから、当然、それは自分が勝手につくっている虚像なのです。

「未来は最高だと」確信すれば過去も現在も最高である」

過去は未来に影響しない。本気で変わりたいならば、「これまでの自分」というゴミを捨てよ。そうすれば人は誰でも思い通りの未来をつくれる。

「自分は◯◯な人間だ」という信念は、「言語」と「イメージ」と「情動(感情)記憶」の三つの要素でできています。

あなたの自己評価を下げる相手は「ドリーム・キラー」(夢を潰す人)です。

自帰依自灯明(じきえじとうみょう)、つまり「自らを拠り所にする」のです。

日本の組織を見ていると、「やりたくないことを嫌々やる代わりに、責任はとらないよ」とみんなが言っているように見えます。

脳の判断基準は臨場感

現代認知科学でも、「リアル」とは「今、自分が臨場感を感じている世界」という定義がなされています。

恐怖を感じたら「おれらしくないな」とつぶやきましょう。

恐怖でクリアな頭を乱されている人は、「オレは何があってもビビらない」と自己イメージを高め、
「すべての感情を娯楽にする」
「ゴール達成に意味のある感情だけを自分に許可する」

この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」といいっます。そして、ゲシュタルトによって事象を認識する能力を「ゲシュタルト能力」といいます。

あの人は打てば響く

人間は自分のためだけに生きていては幸せにはなれません。自分以外の人のために行動してこそ人は幸せになれるものです。

俺は、中小企業のおやじ – 鈴木 修

カリビアン。これはタイランドのジムニーの呼び名で、バーンセンをバイクで走っているときに、黄色のカリビアンを見つけて一目惚れして、周りに話したり、調べてみるとSUZUKIのジムニーという車で、どうやら熱烈なファンがいた車種のようで、これがまた、少し前に日本で何年ぶりかにニューモデルを発売することになった。なんだか自分の中での盛り上がりと世の中の流れが一致して、新モデルはまだタイには来ていないが、来たら買おう。

「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物につかえる、あると便利なクルマ、それがアルトです」

「これだけは絶対よそに負けない、という特長のある会社にしたい」

やはり「他人をあてにしてはいかん」ということを、特にカネについては思っています。

「会社というのは、いろいろ手間がかかっても一から自力でつくりあげたほうが、いい結果が出る」という教訓です。世の中では「M&Aブーム」といわれた時期もありますが、少なくとも自動車産業でM&Aをやって大成功しているところはありません。

小さな市場でもいいから1番になりたい    

「国内で1番になるのが難しいなら海外でやってやるぞ」という気持ちです。

セダンもあるけど、ワゴンもあーる

やってみせ、言って聞かせ、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

人生を変える幸せの腰痛学校 心をワクワクさせるとカラダの痛みは消える – 伊藤 かよこ

足の手術をしてから、膝や体に不安を覚えるようになったのだが、3ヶ月前から足のことや痛みについて調べたり本を読んだり考えたりするうちに、自分のというよりは人間の可能性を信じる方が良いのだろうという、信じがたい人には何を馬鹿なという考えを重んじるようになった。そしてこの本を読んで、それは加速しているし、自分を人間をもっと信じなければいけない。これは、腰の痛みとか体の痛みの話だけではなくて、あれをやりたい、こういうことを実現したいとか言う話も全く同じで、やれると思ったことは全てやれるのだ。それが我々だ。

いい気分で数合そうと努めた

私は幸せになるんだとまず最初に決心することなんです。

体験を繰り返すことによって、『思い』や『考え』は『信念』に、そしていつの間にかその人にとっての『真実』になってしまうんです

モルヒネの6.5倍の鎮痛作用があるといわれているβエンドルフィンは、自分でつくることができるんですよ

からだは、人智を超えた存在である。このことだけは覚えといてほしいなぁ

私が変われば、世界が変わる

疑問を持つこと。
自分で考えること。
自分で決めること。
広い視野を持つこと。
受け入れること。
勇気を出すこと。
本音に向き合うこと。
感謝すること。
信じること。
仲間と共に喜び合うこと。