半島を出よ〈下〉- 村上龍

終盤のコリョとの戦いと爆破によりビルが崩壊するあたり、待ちに待っていたこともあり胸が踊った。同じシーンを映画で表現する方が容易に思うが(もちろん簡単なことではないだろうが)、ああいう場面を言葉で表現できるのは、さすがに小説家だ。バンコクのウェブマガジンやフリーペーパーなんかを見ても(読むではなく)、面白い表現に出会うことはない。そして僕が欲しいと思うような情報が書かれているわけでは決してないので、読むこともない。同じく言葉を生業にしているはずなのだが。

からだ中がヌルヌルのヤマダはモリに気づくと、やあ、ちゃんと来たんだね、と齧歯類のように微笑んだ。

その様子はニンジンと交尾の相手を同時に見つけたオスウサギのようだった。

酒は親しい雰囲気の中で飲まれることが多いが、親しい雰囲気というのは危険に充ちている。その場に蔓延した親しみに敬意を払わなければいけないし、同調することも必要だ。同調を示さないと罰を受ける。親しさが蔓延する場所では、単に一人でじっと考え事をしているだけで、どうしたんだ? つまらないのか、と責められて、そのあとあいつは暗いやつだと攻撃の対象になる。酒を飲む場所では、誰かが冗談を言ったときはそれがどんなにつまらなくても笑わなければいけない。ここにいるみんなは、居酒屋やスナックに集まって大声で笑いながら酒を飲んでいるような人間たちは抹殺しなければいけないと思っている。そしてほとんどのメンバーがすでにそれに近いことを実行した。

打ち合わせなんかでも、一対一でやると思っていたら、部下や嫁を連れてくる人間がいる。その前に連絡があれば、こちらもそういう場面を想定して行くのだが、すでにそこに相手の弱さと誠実でなさが見えてしまう。二人で腹を割って話そうよ、ということではないんだよな。

無理に抑えつけると狂気って圧縮されていつの日かそれが爆発するんだよ。正常と狂気って、実ははっきりと分かれてないのよ。念のために言うけど、正常位じゃなくて正常ね。ただ、狂気は自分の中にあるんだけど、正常さを象徴する共有感覚みたいなサムシングはどこかに浮かんでいるの。

金融にしても同じだね、国民の七割が飢えに苦しむような国家をさ、儒教の教えを上手に使ってね、情報を操作して、反抗するやつは殺して、外国から金をせびってさ、なんとか切り盛りしてきたわけだからさ、吐気がするけどね、そりゃある意味プロ中のプロよ。

修復したほうがいいとチョ・スリョンは思った。メンツをつぶされた人間は恨みを持つ。恨みは陰謀や犯行の芽になる。

スリョン、良い詩を書くことができる人間になりなさい。実際に詩を書かなくてもいい。ただいつでも書きたくなったときに良い詩を書ける人になりなさい。良い詩を書けるのは、自分の心の闇を見つめることができる人だ。強く美しいだけでは良い詩とは言えない。読む側の人の側に立った詩でなければ、本当の力はない。いいか、スリョン、読む人の側に立った詩を書くんだよ。

包茎の新兵たちも一緒に壇上に上がらされて、一斉にしごき始めて、壮観なものだよ。するとね、例の軍医殿がそわそわし始めるんだな。何しろ、古参兵のデカチンと、新兵たちの三、四十本のチンポが壇上でそそり勃ってそれがしごかれているわけだから、男色家としては至福のときなわけで、溜まりに溜まった白濁した液体が数十本のチンポの先から飛んだときにはだな、軍医殿は感動のあまり椅子から腰を浮かして、万歳と呟いたそうだ。

言葉遣いもていねいだし、驚くほど礼儀正しいが、それは排他的で閉鎖的であることの裏返しだ。外部と距離を置くだけではなく、外部を信用していない。

涙の別れ、永遠に続く愛、そして前提的な信頼などは嘘なのだとイシハラは教えてくれた。

一本目はわざとはずして犬に上を向かせたのか、とカネシロに聞かれて、内緒、とタテノは少しだけ微笑んだ。ターゲットを倒したことで興奮するわけでもなく、得意がるわけでもなく、当然だというように淡々としていた。まるで友達に頼まれて修理した大工のようだとシノハラは思った。

福岡に来る前に出会った連中はみんな何かをなぞっていた。温かな家庭とか善良な人間とか幸福な人生とかそれぞれにモデルがあって、みんなそれを模倣し、なぞっているだけだった。

愛情豊かに可愛がられた子供は大人になってから有利だ。人に好かれるし、性格に余裕のようなものが表れて就職にも影響がある。

そして何より彼女たちには子どもを育てている女性に特有のある種の正直さがあった。図々しさと言ってもいいかも知れない。可愛がり方はいろいろだが、みんな子供のことを第一に考えていて、お腹が痛いと言えば髪にカーラーをつけたまま病院に走っていくし、子供がおいしいと言ってお弁当を食べるのを見るだけで幸福な気分になる。若い母親はある時期子どものヨダレやオシッコやウンコにまみれながら過ごし、動物的な母性を獲得していくのだとある育児書に書いてあったが、まさにその通りだと思う。

夫の母親は、後悔と不幸と自尊心が顔の皺に埋め込まれているような女だった。わたしの言うとおりに生きればすべてが手に入るが、背くと何も得られないと脅しながら子どもを育てたのだろう。自分で考え、自分で判断して決定することには何の利益もないと刷り込んできたのだ。

そういった腐った大人たちから正しく生きろと言われても子どもは何のことかわからない。もちろん素直に従う子どももいる。だがそいつらは大人が正しいのだと自分で判断して従うわけではない。大人に従えば利益があって、従うのを拒否すると罰が与えられるのを知っていて、それから逃れているだけだ。大事なのは、今のヒノやタケグチみたいに、やらなければならない何かを見つけることだ。何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞き続けることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の校風もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる。

おじさんは、まあこんなもんだっぺと言って、必ずそのあとに、うまくいきすぎると早死すっぺ、と続けた。

自分がうれしかったり楽しかったりするよりも、自分が大切に思っている人がうれしそうにしたり楽しそうにしたりするのを見るほうが喜びが大きいということを兄たちは教えてくれた。

ちょっと導入部分だけ読んでみるね。一人の良い子が死ぬと、そのたびに天使がこの世に降りてきて、死んだ子を両手に抱きます。天使は大きな白い翼を広げて、生きているときにその子が好きだったあらゆる場所の上を飛んでいくのです。そして一握りの花を摘んで、その端がこの世で咲いていたときより、もっときれいに咲くようにと、天国の神様のところに持っていきます。神様がもっとも気に入った花は、声を与えられて、喜びのコーラスを一緒に歌うことができるのです。

その人が自分から話そうとしないことを聞くな、と教えてもらったからだ。

やさしい瞑想法: 中村天風直伝の“人生を自在に生きる知恵” – 沢井 淳弘

瞑想を習慣にするとどうなるか。瞑想により心と体を強く、自由にすることができるか。実験を開始。

つねに天空海闊の状態で生きろ!

自己の良心の声を聞く

瞑想が集中力をたかめるのに効果的だと気づいた人たちがいます。

瞑想時に、僧たちは時間と空間の感覚を超越し、彼らのスピリチュアルな現実把握は、私たちの科学的な日常的な現実感覚より正確である

瞑想が、他者の精神状態に共感する脳の部位に影響することが、私たちの研究によって、確認された。したがって…人間は音楽の楽器演奏やスポーツを習得するのと同じようなやりかたで、瞑想によって<他者を愛する親切心や同情心>を習得することができる

瞑想によって、人は、現下の自己の感情や想念を冷静に観察し、自己のマイナス感情をぬぐうために、その感情をうまく言語化することができるようになる。

フィロソフィーはもともとギリシア語で、「知を愛する」という意味です。

たいていの問題は気にするから、生じてくるのですね。

イーロン・マスク 世界をつくり変える男 – 竹内一正

ロボットが通りを歩いて人間を殺戮するのを実際に目にするまで、人々はどのように反応すればいいのか分からない。こうした脅威に対して現実感が非常に希薄であるように思える。

新しいことをやろうと思ったら、失敗を許容しなければならない。

まず言いたいことは「超多忙であれ」ということです。

デザインの小骨話 – 山中俊治

河北秀也のデザイン原論という僕の心に残る一冊があり、デザイナーを志したばかりの頃に読んで何をする時間も放っておいて、ものづくりを楽しむ姿勢や独特の文章に心奪われた。デザインのテクニックなどについては書かれていないが、そんなものは大して大事ではないと思う。時間をかけて、勉強をして経験を積めば、大抵のことはできるようになるのだから。

このデザインの小骨話は、久しぶりに大切な1冊になった。著者の山中俊治氏の奥様がツイッターに観察スケッチの記録をあげていて、観察スケッチは上手くなくてはいけないものではないが、この方の画力は他の方に比べて秀でていたことで気を引かれて、この本に辿り着いたのだ。

そしてデザイン原論もデザインの小骨話も行間が広く取ってあり、ひとつひとつの項(と呼ぶべきものか)が短く、非常に読みやすく、的確で正確な言葉が使われる。かっこいいよな。

ちなみに、小骨話はこぼれ話をもじっているそう。

さらには、アイデアの出し方や造形のスキル、いつ仕事をし、どう休みをとるのか、なぜその仕事に価値があると思うのか。

ようやくもらえる仕事を少しずつではあるが、自分にとってやる必要があるかを選べるようになった(会社が安定してきた)ので、仕事の価値を考えてみる。はじめからそういう姿勢でいるべきだが、まずは生き残らなければいけない。

しかし、自分、あるいは人は特別な存在ではなく、食物連鎖のひとつのピースに過ぎないという相対感覚は自然科学の基礎となる。それは多分、人と人工物の関わりを観察しながら構想する今の私のデザインを支えている。

環境が変わるたびに既存の器官を流用して適応した結果、初めからその環境に最適な設計をしていればそうはならないだろう、と思われるような過剰なデザインも少なくない。その末裔には脊索(せきさく)を巨大な情報処理器官に発展させた、私たち人間もいる。

フクロウは、その大きな頭ゆえに知恵の象徴とされるなど賢いイメージはあるが、運動が得意なイメージはない。親しみやすい風貌と、映画の影響もあって飼う人が増えているそうだが、実は飼育しやすい動物ではなく、人に慣れない孤独な、そして非常に優秀なハンターである。

正中線

20世紀型のものづくりにおいては、そして今も一般的には、基礎研究とデザインは別の職能である。だが、人そのものと深い関わりを持つ最新のテクノロジーはアートやデザインと不可分であり、デザイナーは初期段階から関わってゆく必要がある。その共同作業を通じて社会実装の方法が検討され、研究者たちも、研究の方向性についての新しい視点や方向性を得ることができる。

私が上のようなことをつぶやいたのがきっかけで、「生物が車輪を持っていないのは何故か」ということについてツイッター上で議論が盛り上がった。
「血管を持つ生き物が、360度以上回転する部位を持つことは構造上難しい」とか、「車輪は直径の1/4以上の段差は登ることができないので、でこぼこの世界に住む小さな生物には意味がない」とか、車輪を持てなかった理由についてさまざまな意見が集まった。

私たちは、遠い昔から品種改良によって、さまざまな生き物を自分たちの都合が良いように改良してきた。そしていよいよ遺伝子を操作し、生物そのものも改変しようとしている。善かれ悪しかれ、いずれ私たちは、生物を自在にデザインすることになるだろう。

精度にこだわってものづくりすると、そのしゃきっとした感じは必ず見る人にも伝わる。でも面白いことに、しゃきっと見える理由が精度にあることは案外気づかれない。

そのあたりの検証は専門家に任せるとして、いずれにしても暦は、人が太陽の軌道上に定めた便宜上の目盛りであって、それが宇宙の営みに影響を与えることはない。しかし人という「知識を糧とする生き物」にとっては、周期の原点を定めることは、長さや重量の基本単位を定めることと同様に、自然を知り、理解し、治験を伝え合うための出発点であった。

近頃妙に冷めてしまうのは、社会性のないフリーランスが長かったせいかもしれぬ。などと考えているうちに、このどうでもいい日についてずいぶん書いてしまったが、年に一度ぐらい自らがちっぽけな存在であることを確認するのは悪いことではないわな、などと思ったりもする。

興味本位という言葉は普通良い意味で使われない。でも私は好奇心こそが真理と美に至る根源的な動機だと思う。その意味で対象にきちんと敬意を払い真摯な態度で臨む限り、興味を本位とすることは王道だと思う。

私たちは確かに、「美しくて機能的なデザイン」とか「良いデザイン」というような言葉をひんぱんに使う。よく考えるとそう簡単に定義できることではないのだが、それらの言葉が想定しているのは、人々のベネフィットだ。使う人にとっての快適性や愛着、社会に対する貢献、あるいは売る人にとっての利益など。いずれにしても作られたものが誰かにベネフィットをもたらすことを信じて、良い、あるいは美しいという言葉を使う。つまり、「美しさは人をハッピーにするものだ」という暗黙の了解のもとにデザインがなされている。

スケッチは、言葉に似ている。習得には時間がかかるが、ストレスなく使えるようになると、思考の道具であり、対話のツールである。世界を理解する方法ですらある。

このような道具としてのスケッチは芸術的な表現手段というよりも、日常言語に近い。人を感動させる文章を書くのには文才が必要であるのと同時に、人を感動させる絵を描くには才能がいるが、「グラフィック言語としての絵」には書式や文法があり、外国語と同じ様に、才能の有無にかかわらず習得が可能である。

しかし、私たちはその料理をちゃんと見ただろうか。家に帰って自宅の台所で再現しようとしてみても、材料すら思い出せないことは珍しくないし、出合った動物の耳の形も覚えていない。そういうときのための写真のはずだが、1枚の画像ではどうも心もとない。一方で、しょっとしたスケッチとメモを残しておくとちゃんと再現できる。一度スケッチしてしまえば、案外細部まで覚えているものなのだ。
スケッチは単なる記録ではない。対象物のあらゆるところを見なければ描けないが、一方で見えるもの全てを描くことはできないので、重要なところや特徴的なところをその場で選択することになる。その意味でスケッチは、観察の方法であると同時に情報を整理する方法でもある。

デザインに正解はない。観察と試作、分析を重ねればそれなりの道筋は見えてくるが、多くの場合それでも選択肢がありすぎる。部分的には最適解が見つかることはあるとしても、それらを統合して一つのプランなり形なりに帰結させるのは、結局、人の価値観であり意志である。デザイナーは少しでも好ましい解を求めて、さまざまな可能性の中から選択を重ねて一つの道筋を決定する。

実際、アイデアスケッチにおいて影を描くことは、プレゼンテーションとしても効果的である。モノが床や地面に落とす影から、構造、奥行き、向こう側の形、床からの距離、地面ん平滑さなど、私たちは無意識のうちにさまざまな情報を得ている。シンプルな絵においてこそ、正確に影を描くことは、案外たくさんの情報を伝えることになる。

ポール・セザンヌは友人への手紙の中で、「自然を円柱、球、円錐として扱え」と書いたそうだ。

製作途中のものを人に見せて意見を聞くと、しばしば新しい試みがばっさり否定される。しかし多くの場合、単に洗練が足りないだけなので、安易にそのアイデアを捨ててはいけない。

仕事場兼住居の場所の広さを仮に決める。デザインのための道具や家具、パソコンなど仕事環境に必要なものをリストアップし、仕事場のランニングコストを計算する。さらには、どんな服を着て、どんな食事をしたいか、1週間にどれくらい働くかなどについても、突き詰めた生活ストーリーをつくり、自分たちの給料を算出する。そうやってできたライフプランをもとに積算して、自分の仕事の単価を設定した。

練習は本番のつもりで、本番は練習のつもりで

フリーランスにとっては、すべてのビジネス相手は対等である。しかしだからこそ、出会いの瞬間から力比べが始まる。

フリーランスに向いている性格というものは確かにあると思う。孤独に耐えられること、何をするか自分で決められること、自分の意志で何かをしていること自体に喜びを感じること。フリーランスの仕事にはムラがあるから、仕事がないときにのんびりと過ごせる精神力も欠かせない。さらに言えば孤独はオリジナリティのある仕事の源泉でもあるとも思う。

それは、スティーブ・ジョブズの言う「人は自分が欲しいものを知らない」という言葉にも呼応する。

ザ・ゴール コミック版 – エリヤフ・ゴールドラット

書籍版が、かっこいいカバーで本屋の棚で目を引いたのだが、その分厚さから手にとることはなく、先日紀伊国屋へ行くと、似た装丁でコミック版があったので。

生産ラインが滞るのは渋滞の原理と似たところがあり、どこかにボトルネックがある。自分の仕事にも活かせるのだろうかと考える。全てをひとりでやっているので、順番に片付けていくしかないのだが、時間のかかる作業をどう処理していくかは考えてもよいし、そろそろ外部に出せる人を見つけても良い頃だろう。回せる仕事で時間を取られるのはもったいないし、その時間を別の仕事なり運動なりに使ったほうが、絶対に良いだろうから。

帯の「日本人がいま読むべき伝説の書!」というコピーに心が動かされた。すぐにありきたりの表現で、大したコピーではないと気づくのだが、同時に何れにしてもこういうコピーにやられてしまうのかもしれないとも思い、この後早速adwordsに取り入れてみることにする。

読書について 他二篇 – ショウペンハウエル

読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。衝動的なつながりはもちろん、気分的なつながりさえ感じない、いろいろなことを次々と考えていかなけれならないのである。しかし自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束はうけても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押し付けず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。重圧を加え続けると撥条(ばね)は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。

読書は思索の代用品にすぎない。

すなわち精神gが代用品に慣れて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人踏み固めた道に慣れきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。

貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。

さらに読書はもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

半島を出よ〈上〉- 村上龍

どの国でも同じですが、既得権益層をつぶし、経済を復興させるのは大変に困難です。日本の場合、金食い虫である官営組織の特殊法人をつぶすのが急務でしたが、それは結局できず、それよりはるかに簡単な憲法改正をに向かおうとしています。商工の会社にたとえると、利益が上げられなくなった会社が利益を上げようとしないで社則を改正するのと同じです。日本は治療する勇気を持てなかった死にゆく巨象です。

中高年の自殺者は昨年六万人を越えた。

敵対しているわけでもないのに何事にも非協力的でお互いの足を引っ張り合って挨拶もしないし口もきかないという関係か、またはべったりと寄り添って面白くもない冗談を言い合って自他ともに仲がいいところをひけらかす関係か、その二つしかない。

カネシロはテロのことしか考えていないから、私利私欲がまったくなく、会った人は純粋でまじめで誠実という印象を持つ。物心ついたときからずっとテロのことだけを集中して考え、いろいろなプランを練ってきたので、人柄が誠実に見えるのだ。

大切なのは今のこの社会の、多数派の人たちから離れて生きることだとイシハラはよくみんなに言った。

テロもすばらしいし、暴力もすばらしいし、殺人だってすばらしいけど、戦争はダメだ。それは戦争が多数派のものだからだ。少数では戦争に負ける。戦争をしたがるのは多数派しかいない。多数派は必ず少数派をいじめるし無視する。ぼくちゃんは痛いのが嫌いだから、できればテロとか暴力とか殺人とかはないほうがいいけど、少数派はテロや殺人や暴力をどうしても必要とするときがある。痛いのは嫌だけどそれより嫌なのがモジョリティというやつなの。モジョリティは多数派と訳されるけど、本当はみんなも知ってる通り、マジョリティ。メジョリティでもないし、モジョリティ。この世の中で最悪なのはモジョリティで、それは村も町も国もモジョリティの利益を優先させるから。国家はモジョリティを守るという必要性に迫られて生まれたんだよ。この国では多数派から遠く離れるのが本当にむずかしい。ぼくちゃんやノブチンはずっとモジョリティから無視されてきたし、それは心の傷はるか三百マイルに達しているけど、最初から多数派に入れなかったぼくちゃんはラッキーだったと言うべきだし、ラッキーはウンコではなくて運だ。このことだけは何度も言うし、大事なことだから一回しか言わないけど、多数派に入っちゃだめよ。多数派に入るくらいだったら人を殺したほうがモアベターよ。

情緒は作戦遂行を阻害する。

言葉ではなく、まるで絞めたばかりの鶏の肉に唐辛子や塩をすり込むように、血や脂汗とともに肉体や内蔵に叩き込まれる。

共和国の知識層は日本に対し基本的に憎悪を持ち、そして心の片隅ではかつて西欧を的に回して堂々と戦った国という倒錯した敬意を抱いている。その複雑な思いはおそらく中国も南朝鮮でも、あるいはベトナムやインドネシアなどの他のアジアの国でも同じではないだろうか。

戦争に負けた日本はアメリカの妾になることによって急速な経済成長を遂げたのです。テレビからキム・ハッスに視線を移して、パク・ミョンが言った。経済が破綻した今、いろいろな意味で後悔と劣等感と罪悪感に苛まれています。将来の目標が何か、そのために今何をすべきか、わかってないのです。目標を持ち、何をすべきかわかっている民族は、自国民にアフリカ人の衣装を着せたり、自国のホテルにアフリカの味付けをしたりする必要はないでしょう。

経済が破綻すれば、その国は無能力と判断されてしまう。存在感も信用も地に落ちる。

極度に不安定な状態の物質が急激に安定しようとするという概念がタケグチは気に入った。

国家と言うものは必ず少数者を犠牲にして多数派を守るものだ。イシハラが笑い終えて、そういうことを話し始めた。あいつが本当に福岡のみなさまの生命の安全をだいいちに考えるなら、あいつは絶対に北朝鮮のあいつらと戦えない。本当に北朝鮮のあいつらと戦うなら、福岡のみなさまの生命の安全をだいいちに考えるのは無理のちゃんちゃんこだ。北朝鮮のあいつらは、そのことをうんこみたいにくそみたいによく知っている。北朝鮮のあいつらは、福岡のみなさまの生命の安全をだいいちに、ってことになるのを、最初から読んでいるんだよ。死ね、このウジ虫ども。ゴキブリは自分がどうして秒速ノックダウンゴキジェットプロで殺されるのか知らない。問題は、守るべきものは何かということで、北朝鮮のあいつらはそれを骨の髄まで、パンパンに勃起した海綿体の一粒一粒まで知っているが、東京駅の夜をいろどる切ない雨に濡れたあいつはちんこのカスほども知らない。この戦いは、侵略者を殺す戦いであると同時に、少数者が死ぬのを見る戦いでもあり、誰でもあるとき少数者になるクリトリスクがあることを知る戦いになる。これは誰もあくびにもおくびにも出せないタブーだから、ぼくちゃんにしかわからない。それはぼくちゃんがいつころされてもおかしくない少数者としていきてきたからこそこそこそこそこそわかることで、おっかさんの子宮にいたころから自分は多数派だーいと思ってきたあいつは五億万回生まれ変わってもわからないだろう。

鳥のさえずりよりキムチのさえずりということわざがあったとパク・ミョンは思い出した。

政府としましては最善の努力をして全力で解決に取り組む所存です。そういった答えは質問に答えていない。嘘とごまかしだ。

対立だけが確かな現実という世界で生きてきたんだろうと横川は思った。対立だけが確かな現実、政治はそこで必要とされる。政治と言うのは利害が対立するグループや人間に資源をどう配分するかということに尽きる。利害の対立が明らかになって初めて交渉と言う概念が生まれる。横川の周囲の政治家たちがやっていたのは正確に言えば政治などではなかった。誰も高麗遠征軍と交渉しようとしないのは、相手が武器を持っているからではなく、交渉と言う概念がないからではないのか。

この一連の逮捕ですが、福岡の市民に理解され共感を得ていると思いますか。同乗している朝日新聞の記者が、チェ・ヒョイルにそう聞いていた。何と言う愚問だとチェ・ヒョイルは思った。こいつは侵略や武力制圧を何だと考えているのだろうか。平和使節団や人道奉仕団体と間違えているのではないか。支配する者は、被支配者に理解されるとか共感を持ってもらうとかいっさい考えない。考えるのはもっとも効率的な支配の方法だけだ。生存を許したほうが効率的だったら生かしておくし、殲滅したほうが効率的だったら皆殺しにする。殲滅したら国際世論から非難を受け間違いなく在日米軍が攻撃してくる。だからお前はこうやって同行取材を許され愚問を発しても生きていられるのだ。そう怒鳴りつけて、顎を砕いてやりたかったが、チェ・ヒョイルは忍耐を示し、そのことにつきましてあなたはどう思うでしょうか。と逆に質問した。

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論 – D. A. ノーマン

この話の中のドアは、発見可能性がうまく働かなかったときに何が起こるかを示している。ドアであれコンロであれ携帯電話であれ、あるいは原子力発電所であれ、操作するときには重要な部分は、目に見えなくてはならない。また、何ができるのか、どこをどうすればよいのか、適切なメッセージを伝えなくてはならない。押して開けるドアならば、どこを押したら良いのかを自然に伝えるシグナルをデザイナーは提供しなくてはならない。そのシグナルは必ずしも美しさを損なうとは限らないだろう。ドアの押す側に縦長の板をつける。あるいは、支軸を見えるようにする。これらの縦長の板や支軸は自然なシグナルであり、どうすればよいかが簡単に分かるようにしているのである。ラベルは必要ない。

我々の家庭で使われるテクノロジーが理解できない振舞いをすると、混乱、フラストレーション、さらには怒りを引き起こしかねない。これらはすべて強い負の情動である。理解できるときは、制御感、支配感、満足感、さらに自尊心さえも得ることができる。これらはすべて正の情動である。認知と情動は強く結びついている。つまり良い製品を作るためには、この両方を頭においてデザインしなければならないということである。

製品を理解でき、使えるものにするための適切な情報を提供できるかどうかは、デザイナー次第なのである。

デザイナーにとって、本能的な反応は直接知覚に関係するものである。まろやかな調和のとれた心地よい音、あるいは粗い面を爪でこする耳障りで不快感を与える音。ここではスタイルが重要である。つまり、音や見た目、手触りや香りなどの外観が本能的な反応を動かす。製品が使いやすく、効果的で、理解しやすいかどうかとは何の関係もない。好まれるか嫌われるかがすべてなのだ。優れたデザイナーは、この本能的な反応を起こさせるために美的感覚を利用するのである。
エンジニアなどの理屈にこだわる人は、本能的な反応を不適切なものだとして撥ねつけがちである。エンジニアは自分の仕事の本質的な品質に誇りをもっており、「見た目が良いだけ」の劣った製品がよく売れていると失望する。とはいえ、我々すべてがこうした判断を下しており、非常に論理的なエンジニアでさえもそうである。だから、ある道具は好み、別のものを嫌ったりするのである。本当的な反応が重要なのである。

デザイナーにとって、行動レベルにおける最も重要な側面は、日常の行為が期待と関連付けられているということである。ポジティブな結末を期待すると、結果はポジティブな感情の反応となる。ネガティブな結末を期待すると、結果はネガティブな感情の反応となる。恐怖と希望、不安と期待。評価のフィードバックループの情報により、期待通りになったり、裏切られたりし、それにより満足や安心、失望や欲求不満が起こる。

何を学ぶにしても意識的注意が必要であるが、最初の学習の後、ときには数千時間から何年にも及ぶような継続的な練習や学びを続けると、心理学者が「過剰学習」と呼ぶ状態に至る。いったんスキルが過剰学習されると、動作は努力なしで行えるようになり、ほとんど、あるいは全く意識せずに自動的に行われる。

何かがうまくいかないときは人に過失がある、という考えが深く社会の中で定着している。それが、人が周囲や自分自身を責める理由である。<中略>しかし私の経験では、たいていのヒューマンエラーはデザインが悪い結果として起こるのであり、システムエラーと呼ぶべきなのである。人は絶えず誤る。

ありきたりの本や有名な人がスピーチする際に繰り返し現れる決まり文句に、我々がなしていることについて考える習慣を養わねばならない、というものがあるが、まったくの間違いである。真実はその正反対なのだ。そのことを考えなくても遂行できる重要な操作を増やすことで、文明は進歩する。

これらのことは大切なのだろうか。そう、大切なのだ。慣習を破るとよそ者、それも無礼なよそ者というレッテルを貼られてしまうのである。

航空業界では、安全のための不可欠なツールとして共同追跡チェックリストが広く採用されている。チェックリストは通常、飛行機の二人のパイロット(機長と副操縦士)によって行われる。航空業界では、チェックリストはその価値が証明されており、すべての米国の民間航空便で義務付けられている。しかし、その有用性を確認できる強い証拠があるにもかかわらず、他の多くの産業では、依然としてチェックリストに強く抵抗している。自分たちの能力が疑われているように感じるからである。その上、二人が関わっている時、経験が浅い方の人が、経験豊かな人の行動を監視するようになっている。これは多くの文化で、権威の序列を強く侵害する。

使いみちのない風景 – 村上春樹

それは過ぎ去っていく束の間の風景ではない。我々はそれらの風景と現実的に折り合いをつけなくてはならない。我々は何を取り、何を捨てるか、何を受け入れ、何を受け入れないか、というようなことをきちんと決断しなくてはならない。
「これは綺麗な景色だな」「こういうところにずっと住めたら素敵でしょうね」だけでは済まない、ということだ。

ラム入りの紅茶を飲んで体を温め、

だんだん心愉しいものになっていった。

我々はやがてその島を出て、もう少しだけにぎやかな別の島に移った。それからもっとにぎやかなローマに移った。そしてそのあいだ、僕は相変わらず執拗にリアリスティックに休むことなく小説を書き続けた。

MUJI式 世界で愛されるマーケティング – 増田 明子

無印は、西友のプライベートブランドから生まれたのだそうだ。1980年のこと。セブンイレブンなんかでもオリジナルのカップラーメンやお菓子なんかをつくっているが、ここまで成功しているのは「MUJI」だけではないだろうか。深センにはMUJI HOTELもできている。

また、禅で学ぶ知識は、見たり聞いたりして得るもの(第一の知識)でも、科学的な原因と結果のあるような知識(第二の知識)でもなく、直覚的な理解の方法(第三の知識)で達せられる。第一・二の知識には限界があるが、第三の知識は自分自身の存在の深いところから出てくるものであり、ここを前では呼び覚まそうとしている。
その呼び覚ますために鍛錬する方法が、「座禅」にあたる。座禅は、禅寺などで体験してみるとわかるが、静かに呼吸を整えて精神を集中していく。

人生の勝算 – 前田裕二

見城徹氏の番組にキンコン西野と出てきて興味を持ったが、この手の本はどれも似たようなものではあるので、手に取らなかったがアマゾンプライムで無料だったので。

レイオフ、ファンダメンタルズ(経済用語で「基礎的事項」の意味)など最近経済というものに興味が出てきた。

花火 – 又吉直樹

前に古本屋の棚で見かけて、試しに読んでみたいなぁと思っていたのだが、また行ってみるとまだ並んでいたので手にとってみて。

以外というのはおこがましいし、失礼であるが、面白かった。やっぱり古典と言われるものよりも読みやすいのだが、ところどころに難しい言葉が使われていて、これがテクニックというか表現方法として面白く感じた。短編の小説ですっと読めて、装丁もきれいで、2015年の時点で4刷りされている。

30代の男たちの話で、良かったのだが、40代になった僕としては、40代が持つ悩みや人生を語った小説を探している。10代、20代の若者を描いたものは多くあるし、村上龍のオールド・テロリストは60,70代の老人の話であった。今の僕にあう話を探している。

「なあ、さっきから俺が珈琲カップを皿に置く時、一切音が出えへんようにしてたん気づいてた?」と神谷さんが言った。
「気づいてましたよ」
「ほな、言うて。やり始めたものの、お前が何も言わへんから、やめるタイミングなかったわ」と神谷さんは掠れた声を出した。

狡猾さから無縁の神谷さんは、必ず「真樹の金や」と懺悔のように打ち明けるのだった。

最後の一口を頬張りながら、井の頭公園入り口の緩やかな階段を降りて行くと、冬の穏やかな陽射しを跳ね返せず、吸収するだけの木々達が寒々とした表情を浮かべていた。

その美しさは平凡な奇跡だ。

心はあなたのもとに – 村上龍

コインロッカー・ベイビーうや5分後の世界や希望の国のエクソダスなんかのような村上龍を代表する作品とは少し違った感じで、争いや破壊みたいなことはなく、病気を抱えた女と充実した仕事を持った男との話。長編小説だが、終わりの終わりになるまで、男の家族に関しての話が薄く、女たちとの話がほとんどであった。久しぶりに出てくる登場人物に関する描写が説明的で、途中から読んだ人間に伝えているような気さえした。

二十代で最初の結婚に失敗したとき、離婚がいかに時間と労力をロスするか思い知って、家族間の信頼の重要性に気づき、信頼を維持するための努力を惜しまないようにした。具体的には、家族との約束は確実に守り、いっしょに過ごすための時間を確保し、家族からの依頼を最優先させるというようなことだ。

確か北陸の生まれで、祖父母に可愛がられて育ったようで性格もよかった。性格がいいというのは、幼少期のトラウマがなく、自己評価がまともで、普通にコミュニケーションができるという意味だ。

それで、もう一つ言うと、元気な女だよね。よく喋るとか、タフとか、そういう意味じゃなくて、いっしょにいるとポジティブな気分になるってことだけどね。

大村のことは前もって話してあったが、九州有数の資産家だという触れ込みの男が、地味なスーツを着て、ごく普通の中型国産車を運転して現れたので、ミサキも「サクラ」も最初拍子抜けしたような顔をした。大村はそういう男だし、また本当の金持ちとはだいたいそういうものだ。金持ちだということを隠したがる。

演奏はジョン・コルトレーンで、「バラード」というアルバムのトップチューンだが、曲名が思い出せなかった。

われ退屈よりも苦悩と刺激を選ぶものなりって、そういうことですたいと笑った。

女の気持ちと行動は市場より複雑で基本的に理解不能だ。だが対応するためには想像しなければならない。

装飾性が徹底して排除されると真の洗練が生まれるという見本のようだった。

ミサキちゃんはとてもいい笑顔で、よく笑うから、少なくともそういった仕草だけは親から学んでいるんだよ、わたしは教えた。虐待を受けて育った人の中には笑顔を上手に作れない人がいるし、声を上げて笑うことができない人もいる、というようなことも言った。

自分にとってどんなに大切な人でも、非常に重要で、しかも自分が関与できないその人固有の現実があり、その人が大切であればあるほど、自分はその現実を受け入れなければならないという理解が、他人という概念を育てる。他人という概念を持っていない人間は、愛されているという実感を持つことができない。

わかりませんという仕草をすると、婦人は流暢な英語で、一人よりも二人のほうが人生は楽しい、そう言って微笑んだ。

欧米の富裕層の男は基本的に家庭を大切にする。宗教的な理由もあるが、個人主義の社会なので、歳をとってからの孤独がいかに恐ろしいかを知っているのだ。

良い家族関係を維持するよりも家庭を崩壊させるほうがむずかしい。だから家庭を崩壊させてしまう人間は単に良い家族関係を維持する意志や能力がないというだけだ。

男と女なんて惚れたら必ずぐちゃぐちゃになる。

しかし、どうしえ男は、この女は自分といっしょにいるほうが幸福になれるはずだと思いたがるのだろう。

結局、大事な人のそばにいるのはとても大事だけど、それはとても疲れることで、そのことは相手が病気でなくても同じで、実はそれがわたしが結婚しない理由なのだと、ルミコは苦笑しながらそういうことも言った。

落ち着け、とまず自分に言い聞かせ、目の前の現実にどう対処したらいいのかわらないときは、最優先事項を明らかにしなければならないという、昔の大投資家の言葉を思い出した。

わたしも知らなかったけど、透明なペットボトルをいっぱいいっぱい挿入して、ペンライトを入れて照らすと、あそこの中とか、お尻の穴の中がね、子宮口とか直腸の入り口とかまで、きれいに見えるらしいんですよ。

そして毎回ドイツのある自動車メーカーの話で締めくくった。統合後不況に見舞われたドイツ製造業では旧東欧への工場移転が増え、リストラが進行したが、ある自動車メーカーが歴史に残る広告を打った。わが社は広告費を削減することで、従業員は一人たりとも解雇しないと決めました。したがってこれが最後の広告となりますが、今後もみなさんの支援をお願いします。その広告は、労働争議が相次いで社会問題となっていたドイツで話題となり連日マスメディアで取り上げられ、驚くべき宣伝効果をあげて、他企業がすべて赤字に転落する中でその自動車メーカーだけが売上を伸ばした。

二つのバランスが不安定になったときの解決策は二つしかない。一つは会う機会と時間を減らすこと、もう一つは、関係性の変化に目をつぶり、あえて考えないようにすることだ。

あなたはお父さんが道楽者だって言うけど、児童心理学的に言うとね、父親の役目は子どもたちにね、自分の世界は自分でエクスパンドできるってことを教えることなのよ。

仮面の告白 – 三島由紀夫

積読本が溜まっているので、新しい本はなるべく買わないほうがよいのだが、プロンポンのらーめん亭へ行ったついでに、つい寄ってしまい、確か友人の一人が「仮面の告白」だったか「潮騒」が好きだといっていたようなことを思い出して。

一度読んだことがあったのだが、三島由紀夫の使う語句が今の時代にはほとんど使わないものが頻繁に出てきて、それが難しくて気づくとただ文字を追っているだけになっていて、あまり入ってこなかった。そして今村上龍の小説を読み始めたが、現代の言葉なので読みやすい。三島の「午後の曳航」は面白く読めたのだが。

きっと毒は、おみおつけに入れられたに相違なかった。

これが私の最初のejaculatioであり、また、最初の不手際な・突発的な「悪臭」だった。

私は夏を、せめて初夏をまちこがれた。彼の裸体を見る機会を、その季節がもたらすように思われた。更に私は、もっと面伏せな欲求を奥深く抱いていた。それは彼のあの「おおきなもの」を見たいという欲求だった。

しかし彼の腕に凭れて歩きながら、私の喜びは無上であった。ひ弱な生まれつきのためかして、あらゆる喜びに不吉な予感のまじってくる私であったが、彼の腕の強(きつ)い・緊迫した感じは、私の腕からの私の全身へめぐるように思われた。世界の果てまで、こうして歩いて行きたいと私は思った。

こうした屈辱を体格検査のたびに私は嘗めさせられていた。しかし今日はそれが幾分か心安くきかれたのは、近江が傍にいず私の屈辱を見ていないという安堵からだった。一瞬のうちにこの安堵が喜びにまで成長した。…

初夏の一日、それは夏の仕立見本のような一日であり、いわばまた、夏の舞台稽古のような一日だった。

級友たちの嘆声が鈍く漂った。彼の力わざへの嘆声ではないことが、誰の胸にもたずねられた。それは若さへの、生への、優越への嘆声だった。彼のむき出された腋窩に見られる豊穣な毛が、かれらをおどこかしたのである。それほど夥しい・ほとんど不必要かと思われるくらいの・いわば煩多な夏草のしげりのような毛がそこにあるのを、おそらく少年たちははじめて見たのである。それは夏の雑草が庭を覆いつくしてまだ足りずに、石の階段にまで生いのぼって来るように、近江の深く彫り込まれた腋窩をあふれて、胸の両脇へまで生い茂っていた。

たいていの乗客はひよわそうな蒼白の少年に睨みつけられて、別に怖がりもせずに、うるさそうに顔をそむけた。睨みかえす人間は滅多にいなかった。顔をそむけられると、私は勝ったと思った。こうして次第に私は人の顔を真正面から見ることができるにいたった…

私たちの腋窩には近江のそれのような旺んなものはまだ見られなかった。蘖(ひこばえ)のようなものがわずかに兆しているにすぎなかった。したがってこれまでも私も、その部分には際立った注意を払っていたわけではなかった。それを私の固定観念にしたものは明らかに近江の腋窩だった。

そこで彼のゆく道は二つしかなくなってしまう。一つはグレることであり、一つは懸命に知っているように装うことである。どちらへ行くかは彼の弱さと勇気の質が決定する問題であり、量が決定するのではない。どちらへ行くにも等量の勇気と等量の弱さがいるのだ。そしてどちらにも、怠惰に対する一種詩的な永続的な渇望が要るのである。

血の轍3 – 押見修造

この母親の女は何なんだ、と思うが、いろんな人が母親になり父親になるのだから、こういう人がいても不思議でないし、この間訪れたミャンマーでは久しぶりに、まだ16歳くらいだろうというような女の子が子供を連れている様子を何度も見たし、世界を見渡せばそんなケースはざらにあるだろう。日本ではコンビニの定員を土下座させて動画に撮影しyoutubeにアップロードしたり、老人ホームで働く人間が施設の老人達を殺したり、アメリカでは高校生が校内で自動小銃を乱射したり、おかしな事件があり、そういう場所で生きる人間がかかえるストレスから、おかしな人間が生まれ、そういう人間が子供を育てる。じゃあ発展途上国の方が人が良くなるのかと言えば、タイの田舎でも30歳の男が70歳の女性をレイプするような事件が起こるので、一概にそうとも言えないのかもしれない。ただし、相対的に見れば、発展途上の国のほうが分かりやすい問題があるように思え、そうであれば、そちらの方が複雑でなく、幾らか分かりやすく生きていけるのではないだろうか?

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇 – 菊地成孔

2年くらい前からジャズのCDを買うようになると、菊地成孔氏を知ることになり、この人の言葉が独特で、TBSラジオの粋な夜電波を聞くのが習慣になった。

youtubeにもいくつかあるし、ニコ動には全回のラジオがアップされてるから、新しい刺激が欲しい人には絶対におすすめです。

皆さんに、音楽を届けるために。世界を少しでも、気楽で、良い調子に変えるために。

神様はおっしゃる
至福は天国にあると
それは死の後の慰みだと

だからおっさんになってくると、おとぼけっていう技術ができてきて、何だか分からないフリしちゃうんですよね。「何ていうのこれ、へー。唐揚げっていうんだ。旨いね!」なんてトボケにもドライブが利き過ぎちゃって(笑)。

モテモテっていうのは「ちょっと外で会おう」とか「チューしてくれ」とかそういうことではないですよ(笑)。話題の中心になって、みんなが楽しそうになって。こんな話し始めて、途中で詰まっちゃったら全然イケてないですからね。最後まで完走しないといけませんから、我ながら頭の回転=ペテンの能力を問われるんでね、なかなか大変で、夜出かけるときには、がんばるんだ、今日も勝つんだ(笑)って感じで出かけるわけですね(笑)。

今や一億ツイッター状態で考えた事は即つぶやく、即つぶやくで、溜めのない時代ですから、言えないんだということが胆力といいますか、丹田を鍛えることになるわけなんですが、

ビギビギのビギナーの皆様、

ってわけで、ビギビギのビギナーの皆様に、もうちょっとだけ昔話をさせてください。

これ、パクリって言っちゃいけないんだけど、パクリには意識的なものと気がついてないうちにと二つあって、意識的が悪い、気がついていなかったのは仕方ねえ、というふうなつもりはありませんが、とにかく二つがあります。

ソーナイス。こんなクールでカンファタブルなジャケットなんて、そうないっす。なーんて駄洒落。

こんな小噺がありますよ。日本人がハーレムに遊びに行って、腹壊したら気のいい黒人が助けてくれた。すっかり仲良くなっちゃった。胃の薬くれたんで、ニコニコ笑いながら呑んだら、その薬が苦かったんで、思わず「にがー」って笑って言ったら、窓から放り出された。足折れたってね。別の気のいい黒人が肩貸してくれたってんで、「ギブスは甘いのにしてくれよ。俺たちの友情のために」。アタシが今10秒で作ったんですけどね。

仕事の愚痴は言わない、あらゆる暴力は振るわない、よく呑んで、よく歌って、そしていつでも面白くあること。世界はかなり過酷だ。君たちが夕方にカラコンを入れてる間にも、俺が喉を乾かせてシャンパンのことで頭の中がいっぱいになっている間にも、地獄を経験している人々がいる。
仕事の愚痴は言わない、あらゆる暴力は振るわない、よく呑んで、よく歌って、そしていつでも面白くあること。それが君たちと生きる喜びだね。誰もがうまくいくわけじゃないずっと続けられる。

いつもありがとう。愛してる。金の介在した愛だけど。金が介在しない愛なんて、無人島に。

わたしを離さないで – カズオ・イシグロ

呑みの席で、カズオ・イシグロが自身の成長の過程で、日本人である両親に日本語教育の強制をされなかったことを、感謝している。と言うようなニュアンスの話を聞いた、という話を聞いて、どんな本を書くのか読んだことがなかったので、どれを読もうか迷ったのだが、適当に選んだ。どうやら映画や舞台にもなっているようだ。

なんだか不思議な調子で話が進み、途中までは物語の中心人物たちがクローンであることも書かれないのだが、そこがインパクトのあるところかもしれない。日本語訳のせい知れないが、ある村上春樹の小説のある部分が感じられないこともないという印象があった。

ロストコーナー - 先生のその言葉が発端でした。

友人のカレー屋の名前が「ロストコーナー」というもので、彼はバンドの名前などユニークなものが多かったので、ああ、と思いだした。

絵も、詩も、そういうものはすべて、作った人の内部をさらけ出す…そう言った。作った人の魂を見せる、って