花火 – 又吉直樹

前に古本屋の棚で見かけて、試しに読んでみたいなぁと思っていたのだが、また行ってみるとまだ並んでいたので手にとってみて。

以外というのはおこがましいし、失礼であるが、面白かった。やっぱり古典と言われるものよりも読みやすいのだが、ところどころに難しい言葉が使われていて、これがテクニックというか表現方法として面白く感じた。短編の小説ですっと読めて、装丁もきれいで、2015年の時点で4刷りされている。

30代の男たちの話で、良かったのだが、40代になった僕としては、40代が持つ悩みや人生を語った小説を探している。10代、20代の若者を描いたものは多くあるし、村上龍のオールド・テロリストは60,70代の老人の話であった。今の僕にあう話を探している。

「なあ、さっきから俺が珈琲カップを皿に置く時、一切音が出えへんようにしてたん気づいてた?」と神谷さんが言った。
「気づいてましたよ」
「ほな、言うて。やり始めたものの、お前が何も言わへんから、やめるタイミングなかったわ」と神谷さんは掠れた声を出した。

狡猾さから無縁の神谷さんは、必ず「真樹の金や」と懺悔のように打ち明けるのだった。

最後の一口を頬張りながら、井の頭公園入り口の緩やかな階段を降りて行くと、冬の穏やかな陽射しを跳ね返せず、吸収するだけの木々達が寒々とした表情を浮かべていた。

その美しさは平凡な奇跡だ。

心はあなたのもとに – 村上龍

コインロッカー・ベイビーうや5分後の世界や希望の国のエクソダスなんかのような村上龍を代表する作品とは少し違った感じで、争いや破壊みたいなことはなく、病気を抱えた女と充実した仕事を持った男との話。長編小説だが、終わりの終わりになるまで、男の家族に関しての話が薄く、女たちとの話がほとんどであった。久しぶりに出てくる登場人物に関する描写が説明的で、途中から読んだ人間に伝えているような気さえした。

二十代で最初の結婚に失敗したとき、離婚がいかに時間と労力をロスするか思い知って、家族間の信頼の重要性に気づき、信頼を維持するための努力を惜しまないようにした。具体的には、家族との約束は確実に守り、いっしょに過ごすための時間を確保し、家族からの依頼を最優先させるというようなことだ。

確か北陸の生まれで、祖父母に可愛がられて育ったようで性格もよかった。性格がいいというのは、幼少期のトラウマがなく、自己評価がまともで、普通にコミュニケーションができるという意味だ。

それで、もう一つ言うと、元気な女だよね。よく喋るとか、タフとか、そういう意味じゃなくて、いっしょにいるとポジティブな気分になるってことだけどね。

大村のことは前もって話してあったが、九州有数の資産家だという触れ込みの男が、地味なスーツを着て、ごく普通の中型国産車を運転して現れたので、ミサキも「サクラ」も最初拍子抜けしたような顔をした。大村はそういう男だし、また本当の金持ちとはだいたいそういうものだ。金持ちだということを隠したがる。

演奏はジョン・コルトレーンで、「バラード」というアルバムのトップチューンだが、曲名が思い出せなかった。

われ退屈よりも苦悩と刺激を選ぶものなりって、そういうことですたいと笑った。

女の気持ちと行動は市場より複雑で基本的に理解不能だ。だが対応するためには想像しなければならない。

装飾性が徹底して排除されると真の洗練が生まれるという見本のようだった。

ミサキちゃんはとてもいい笑顔で、よく笑うから、少なくともそういった仕草だけは親から学んでいるんだよ、わたしは教えた。虐待を受けて育った人の中には笑顔を上手に作れない人がいるし、声を上げて笑うことができない人もいる、というようなことも言った。

自分にとってどんなに大切な人でも、非常に重要で、しかも自分が関与できないその人固有の現実があり、その人が大切であればあるほど、自分はその現実を受け入れなければならないという理解が、他人という概念を育てる。他人という概念を持っていない人間は、愛されているという実感を持つことができない。

わかりませんという仕草をすると、婦人は流暢な英語で、一人よりも二人のほうが人生は楽しい、そう言って微笑んだ。

欧米の富裕層の男は基本的に家庭を大切にする。宗教的な理由もあるが、個人主義の社会なので、歳をとってからの孤独がいかに恐ろしいかを知っているのだ。

良い家族関係を維持するよりも家庭を崩壊させるほうがむずかしい。だから家庭を崩壊させてしまう人間は単に良い家族関係を維持する意志や能力がないというだけだ。

男と女なんて惚れたら必ずぐちゃぐちゃになる。

しかし、どうしえ男は、この女は自分といっしょにいるほうが幸福になれるはずだと思いたがるのだろう。

結局、大事な人のそばにいるのはとても大事だけど、それはとても疲れることで、そのことは相手が病気でなくても同じで、実はそれがわたしが結婚しない理由なのだと、ルミコは苦笑しながらそういうことも言った。

落ち着け、とまず自分に言い聞かせ、目の前の現実にどう対処したらいいのかわらないときは、最優先事項を明らかにしなければならないという、昔の大投資家の言葉を思い出した。

わたしも知らなかったけど、透明なペットボトルをいっぱいいっぱい挿入して、ペンライトを入れて照らすと、あそこの中とか、お尻の穴の中がね、子宮口とか直腸の入り口とかまで、きれいに見えるらしいんですよ。

そして毎回ドイツのある自動車メーカーの話で締めくくった。統合後不況に見舞われたドイツ製造業では旧東欧への工場移転が増え、リストラが進行したが、ある自動車メーカーが歴史に残る広告を打った。わが社は広告費を削減することで、従業員は一人たりとも解雇しないと決めました。したがってこれが最後の広告となりますが、今後もみなさんの支援をお願いします。その広告は、労働争議が相次いで社会問題となっていたドイツで話題となり連日マスメディアで取り上げられ、驚くべき宣伝効果をあげて、他企業がすべて赤字に転落する中でその自動車メーカーだけが売上を伸ばした。

二つのバランスが不安定になったときの解決策は二つしかない。一つは会う機会と時間を減らすこと、もう一つは、関係性の変化に目をつぶり、あえて考えないようにすることだ。

あなたはお父さんが道楽者だって言うけど、児童心理学的に言うとね、父親の役目は子どもたちにね、自分の世界は自分でエクスパンドできるってことを教えることなのよ。

仮面の告白 – 三島由紀夫

積読本が溜まっているので、新しい本はなるべく買わないほうがよいのだが、プロンポンのらーめん亭へ行ったついでに、つい寄ってしまい、確か友人の一人が「仮面の告白」だったか「潮騒」が好きだといっていたようなことを思い出して。

一度読んだことがあったのだが、三島由紀夫の使う語句が今の時代にはほとんど使わないものが頻繁に出てきて、それが難しくて気づくとただ文字を追っているだけになっていて、あまり入ってこなかった。そして今村上龍の小説を読み始めたが、現代の言葉なので読みやすい。三島の「午後の曳航」は面白く読めたのだが。

きっと毒は、おみおつけに入れられたに相違なかった。

これが私の最初のejaculatioであり、また、最初の不手際な・突発的な「悪臭」だった。

私は夏を、せめて初夏をまちこがれた。彼の裸体を見る機会を、その季節がもたらすように思われた。更に私は、もっと面伏せな欲求を奥深く抱いていた。それは彼のあの「おおきなもの」を見たいという欲求だった。

しかし彼の腕に凭れて歩きながら、私の喜びは無上であった。ひ弱な生まれつきのためかして、あらゆる喜びに不吉な予感のまじってくる私であったが、彼の腕の強(きつ)い・緊迫した感じは、私の腕からの私の全身へめぐるように思われた。世界の果てまで、こうして歩いて行きたいと私は思った。

こうした屈辱を体格検査のたびに私は嘗めさせられていた。しかし今日はそれが幾分か心安くきかれたのは、近江が傍にいず私の屈辱を見ていないという安堵からだった。一瞬のうちにこの安堵が喜びにまで成長した。…

初夏の一日、それは夏の仕立見本のような一日であり、いわばまた、夏の舞台稽古のような一日だった。

級友たちの嘆声が鈍く漂った。彼の力わざへの嘆声ではないことが、誰の胸にもたずねられた。それは若さへの、生への、優越への嘆声だった。彼のむき出された腋窩に見られる豊穣な毛が、かれらをおどこかしたのである。それほど夥しい・ほとんど不必要かと思われるくらいの・いわば煩多な夏草のしげりのような毛がそこにあるのを、おそらく少年たちははじめて見たのである。それは夏の雑草が庭を覆いつくしてまだ足りずに、石の階段にまで生いのぼって来るように、近江の深く彫り込まれた腋窩をあふれて、胸の両脇へまで生い茂っていた。

たいていの乗客はひよわそうな蒼白の少年に睨みつけられて、別に怖がりもせずに、うるさそうに顔をそむけた。睨みかえす人間は滅多にいなかった。顔をそむけられると、私は勝ったと思った。こうして次第に私は人の顔を真正面から見ることができるにいたった…

私たちの腋窩には近江のそれのような旺んなものはまだ見られなかった。蘖(ひこばえ)のようなものがわずかに兆しているにすぎなかった。したがってこれまでも私も、その部分には際立った注意を払っていたわけではなかった。それを私の固定観念にしたものは明らかに近江の腋窩だった。

そこで彼のゆく道は二つしかなくなってしまう。一つはグレることであり、一つは懸命に知っているように装うことである。どちらへ行くかは彼の弱さと勇気の質が決定する問題であり、量が決定するのではない。どちらへ行くにも等量の勇気と等量の弱さがいるのだ。そしてどちらにも、怠惰に対する一種詩的な永続的な渇望が要るのである。

血の轍3 – 押見修造

この母親の女は何なんだ、と思うが、いろんな人が母親になり父親になるのだから、こういう人がいても不思議でないし、この間訪れたミャンマーでは久しぶりに、まだ16歳くらいだろうというような女の子が子供を連れている様子を何度も見たし、世界を見渡せばそんなケースはざらにあるだろう。日本ではコンビニの定員を土下座させて動画に撮影しyoutubeにアップロードしたり、老人ホームで働く人間が施設の老人達を殺したり、アメリカでは高校生が校内で自動小銃を乱射したり、おかしな事件があり、そういう場所で生きる人間がかかえるストレスから、おかしな人間が生まれ、そういう人間が子供を育てる。じゃあ発展途上国の方が人が良くなるのかと言えば、タイの田舎でも30歳の男が70歳の女性をレイプするような事件が起こるので、一概にそうとも言えないのかもしれない。ただし、相対的に見れば、発展途上の国のほうが分かりやすい問題があるように思え、そうであれば、そちらの方が複雑でなく、幾らか分かりやすく生きていけるのではないだろうか?

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇 – 菊地成孔

2年くらい前からジャズのCDを買うようになると、菊地成孔氏を知ることになり、この人の言葉が独特で、TBSラジオの粋な夜電波を聞くのが習慣になった。

youtubeにもいくつかあるし、ニコ動には全回のラジオがアップされてるから、新しい刺激が欲しい人には絶対におすすめです。

皆さんに、音楽を届けるために。世界を少しでも、気楽で、良い調子に変えるために。

神様はおっしゃる
至福は天国にあると
それは死の後の慰みだと

だからおっさんになってくると、おとぼけっていう技術ができてきて、何だか分からないフリしちゃうんですよね。「何ていうのこれ、へー。唐揚げっていうんだ。旨いね!」なんてトボケにもドライブが利き過ぎちゃって(笑)。

モテモテっていうのは「ちょっと外で会おう」とか「チューしてくれ」とかそういうことではないですよ(笑)。話題の中心になって、みんなが楽しそうになって。こんな話し始めて、途中で詰まっちゃったら全然イケてないですからね。最後まで完走しないといけませんから、我ながら頭の回転=ペテンの能力を問われるんでね、なかなか大変で、夜出かけるときには、がんばるんだ、今日も勝つんだ(笑)って感じで出かけるわけですね(笑)。

今や一億ツイッター状態で考えた事は即つぶやく、即つぶやくで、溜めのない時代ですから、言えないんだということが胆力といいますか、丹田を鍛えることになるわけなんですが、

ビギビギのビギナーの皆様、

ってわけで、ビギビギのビギナーの皆様に、もうちょっとだけ昔話をさせてください。

これ、パクリって言っちゃいけないんだけど、パクリには意識的なものと気がついてないうちにと二つあって、意識的が悪い、気がついていなかったのは仕方ねえ、というふうなつもりはありませんが、とにかく二つがあります。

ソーナイス。こんなクールでカンファタブルなジャケットなんて、そうないっす。なーんて駄洒落。

こんな小噺がありますよ。日本人がハーレムに遊びに行って、腹壊したら気のいい黒人が助けてくれた。すっかり仲良くなっちゃった。胃の薬くれたんで、ニコニコ笑いながら呑んだら、その薬が苦かったんで、思わず「にがー」って笑って言ったら、窓から放り出された。足折れたってね。別の気のいい黒人が肩貸してくれたってんで、「ギブスは甘いのにしてくれよ。俺たちの友情のために」。アタシが今10秒で作ったんですけどね。

仕事の愚痴は言わない、あらゆる暴力は振るわない、よく呑んで、よく歌って、そしていつでも面白くあること。世界はかなり過酷だ。君たちが夕方にカラコンを入れてる間にも、俺が喉を乾かせてシャンパンのことで頭の中がいっぱいになっている間にも、地獄を経験している人々がいる。
仕事の愚痴は言わない、あらゆる暴力は振るわない、よく呑んで、よく歌って、そしていつでも面白くあること。それが君たちと生きる喜びだね。誰もがうまくいくわけじゃないずっと続けられる。

いつもありがとう。愛してる。金の介在した愛だけど。金が介在しない愛なんて、無人島に。

わたしを離さないで – カズオ・イシグロ

呑みの席で、カズオ・イシグロが自身の成長の過程で、日本人である両親に日本語教育の強制をされなかったことを、感謝している。と言うようなニュアンスの話を聞いた、という話を聞いて、どんな本を書くのか読んだことがなかったので、どれを読もうか迷ったのだが、適当に選んだ。どうやら映画や舞台にもなっているようだ。

なんだか不思議な調子で話が進み、途中までは物語の中心人物たちがクローンであることも書かれないのだが、そこがインパクトのあるところかもしれない。日本語訳のせい知れないが、ある村上春樹の小説のある部分が感じられないこともないという印象があった。

ロストコーナー - 先生のその言葉が発端でした。

友人のカレー屋の名前が「ロストコーナー」というもので、彼はバンドの名前などユニークなものが多かったので、ああ、と思いだした。

絵も、詩も、そういうものはすべて、作った人の内部をさらけ出す…そう言った。作った人の魂を見せる、って

華氏451度 – レイ・ブラッドベリ

ソンクラン休暇を使って、ミャンマーへ行くのに選んだ2冊の1冊が華氏451度。本当はビルマ勤務経験のあるジョージ・オーエルの作品をとも思ったのだが、「1984年」と「動物農場」を読んでしまったので、「1984年」のようなSFを持っていくことにした。調べてみると「ビルマの日々」というジョージ・オーエルの作品があるようなので、そのうち読んでみることにする。

こんな古いジョークはなかったか?女房が電話のおしゃべりに現をぬかしているので、業を煮やした亭主は近くの店へかけこんで、今夜の夕食はどうなるのかと電話で聞いたという。

それでね、夜になるとみんなそこに座って、喋りたい時はしゃべったり、ユリーズをゆらゆらさせたり、喋りたくないときは喋らずに、1時過ごしたの。ただ座ってじっくり考え事をすることもあったそうよ。

しかし、息抜きは必要だ。

私の祖父は、私が子供の頃に亡くなったんだが、彫刻家でね。しかもじつに心やさしい人で、世界に惜しみない愛を注いでいた。街のスラムの掃除を手伝ったりしていたよ。おもちゃを作ってくれたり、あれやこれや、数えきれないくらい、いろいろなことをして明け暮れた人生だった。いつも、手を使って何かしている人だったよ。その祖父が亡くなった時に、ふいに気がついたんだ。僕はおじいちゃんのために泣いているんじゃない、おじいちゃんがしてくれたことのために泣いているんだ、自分の番が来たら、何が?こんなに少しでも楽にできるよ何が提供できるだろうかとね。

自分の番が来たら、何がいえるだろう? こんな日に、この旅を少しでも楽にできるようなことを、なにか提供できるだろうか?

不連続殺人事件 – 坂口安吾

白痴に続いて2冊目だが、まさかこんな極上の推理小説も書くなんて。
はじめの段階であっという間に登場人物が多くなり、紙とペンを用意して、相関図を作りながら読み進めていった。その紙を本の頭に挟んでおけばOK。

人見小六などはネチネチ執拗で煮えきらなくて小心臆病、根は親切で人なつっこいタチなのだが、つきあいにくい男だ。

自分のことを書かれているように思った。考えすぎずに明るくやりたいものだ。

あやかさんは目をクリクリ、花粉が飛びたつように喜んで、

血の轍 1 & 2 – 押見修造

佐渡島庸平氏のおすすめの漫画を聞いて。
なかなかに気持ちの悪い親子関係。お互いに激しい依存がある。子供と一緒に成長していくというのは、想像するだに、これまたなかかなかに複雑であるが、たくさんの親が子供を育てていて、いろんな奴がいるんだから、とするとロクでもない奴が子供を育てるってのは当たり前のこととしてあるんだから。
英語をはじめとした外国語を話せない親は、子供には英語を、と英語教育に力をいれ、例えば、インターナショナルスクールに行かせる。インターナショナルスクールの環境は、そこはまさに多国籍で様々な人種が一同に会している。そういう中で成長していく子供は、いわゆる欧米型の要素を強く持った人間になり、それは親の予想をはるかに超える。なぜなら親は、グローバルな環境に入った経験がないのだから。そうすると、子供の話と親の話はまったくかみ合わなくなり、子供からすると親は了見の狭い、島国の人というくらいになってしまい、相談事はいっさいしなくなる、というような話を読んだ。
親子の関係は寂しいものになったが、子供は親の願った道に進んでいるんだとしたら、それはそれで良しということになるのかもしれない。めでたし、めでたし。

介護基礎学 – 竹内仁

両親も年を重ねてきて、僕自身はバンコクにいて離れているため、この先のことを少しずつであるが実際面でも心においても準備を初めておいた方が良いだろう。自分自身も40を越えてから体の衰えを感じる様になった。読んでいると自分自身にも当てはまることが出てくる。

仏さんの説く「生・老・病・死」の四苦は、まさに僕らの苦しみで、全体的に暗い気持ちになりがちだが、現実はやってくるので、押しつぶされない様に備えておくことが大切だ。ここでも村上龍の言う、面倒で困難なことに正しいことが多い、というのが当てはまる。逃げるのは簡単に見えるが、それは正しくないと思う。

午後の曳航 – 三島由紀夫

屋根裏から覗いていると、女が乳房を出して、緑茶の中に母乳を混ぜるという金閣寺の場面にたまげたが、僕にとって仮面の告白と金閣寺に続いて3作目となる午後の曳航が一番の作品になった。終盤の緊張がものすごかったが、途中でさすがに子供達が大人を殺す様子が書かれることはあるまいと思うと、紅茶を一息に飲んだところで話が終わった。

そして登はおどろきを以って眺めた、彼の腹の深い毛をつんざいて誇らしげに聳え立つつややかな仏塔を。

思わずクスッとしてしまうような表現である。

今のところ、この戸惑いだけが二人の礼節だった。どこまで踏み込んで行っていいのか、竜司は彼のいわゆる「つまらない人間の底知れない傲慢さ」で測っていた。

私は何もしないで、しかし、自分だけは男だ、と思って生きてきたんです。何故って、男なら、いつか暁暗をついて孤独な澄んだ喇叭が鳴り響ひびき、光を孕んだ分厚い雲が低く垂れ、栄光の遠い鋭い声が私の名を呼び求めているときには、寝床を蹴って、一人で出ていかなければならないからです。……そんなことを思い暮らしているうちに、いつのまにか三十を越したんです」

歯をあてられた林檎の白い果肉が、その噛み跡からたちまち変色するように、別れは三日前にこの船で二人で会ったときからはじまっていた。

「大丈夫ですよ。働いて汗をかけば、風邪なんか吹っ飛んでしまう」
こういう竜司の強い言葉は、乱暴な気休めかもしれないけれど、少なくともこの家では久しく聞かれなかった「男の言葉」だった。その言葉一つで、古い柱や壁がみっしりと引き締まるのが感じられたほど。

確かに男の言葉であると感じるが、タイにいると働き者の女たちも、同じようなことを言う。

この世には彼のための特別誂えの栄光などの存在しないことを知らなくてはならぬ。

こういう想いを捨てられぬ厨二病なのだ。

正しい父親なんてものはありえない。なぜって、父親という役割そのものが悪の形だからさ。厳格な父親も、甘い父親も、その中くらいの程よい父親も、みんな同じくらい悪い。奴らは僕たちの人生のいく手に立ちふさがって、自分の劣等感だの、叶えられなかった望みだの、怨恨だの、理想だの、自分が一生とうとう人には言えなかった負け目だの、罪だの、甘ったるい夢だの、自分がとうとう従う勇気のなかった戒律だの、……そういう莫迦々々しいものを何もかも、息子に押しつけてやろうと身構えている。

一方、竜二は今度の航海の帰路、つくづく自分が船乗りの生活のみじめさと退屈に飽きはてていることを発見していた。彼はそれを味わいつくし、もう知らない味は何一つ残されていないという確信をも持った。

配色の設計 色の知覚と相互作用 – ジョセフ・アルバース

色について勉強したくて。
難しく感じたが、読了後にデザインをしていると、これまでの様にこの色とこの色の組み合わせがどうという考えにプラスして、いままでぼんやりとやっていた、使う色同士の配置や量により、それらの色が相互にどう関係するのかというのを意識的に考える様になった。

まず、同じ色が数え切れないほどの解釈を呼び起こすということを学ばねばならない。色相調和の法則やルールをただ機械的に用いるのではない。まったく異なるふたつの色をほとんど同じに見せるような、色の相互作用のはたらきを利用した制作によって、独特な色の現象をプレゼンテーションするのだ。

楽曲を単なる単音の集まりとして聴いている限り、私たちは音楽を聴いているとはいえない。音楽を聴くということは、音の並びや間隔、つまり音同士のあいだを認識することなのだ。同様に、ある絵に描かれた色彩が実際に何色なにかを識別するkとができてもその絵を深く味わったことにはならないし、色彩の作用を理解したとも言えない。

実際に、水彩絵の具の多くはボリューム・カラーである。何度か層を重ねると暗さや重さ、色の強さが増していく。パウル・クレーの多くの水彩画はそれを実証するものだ。

ゼロからスタート!タイ移住サバーイマニュアル – 桐越舞子

ツイッターのタイムラインに流れて来て。
僕もタイに住んで7年目なので、著者の人と同じくらいなので、目新しい情報というものはなかったけど、タイの好きな所として挙げているところが同じようなものがあり、タイの良さを再認識した。

私がタイに来て最初に住んだノンカイはラオスとの国境があるところで、何度も国境のある友好橋をバスで渡りました。ノンカイからはラオスが、ラオスからはノンカイが、いつもメコン川の向こうに見えるのがとても新鮮で、その眺めがとても好きでした。

どんな国だってきっと一長一短。良いところもあれば悪いところもあって、そして決して同じではないのです。日本と比べてサービスがなってないと文句をいうより、違いを楽しむぐらいの気概の方が絶対楽しいし、そしてそれは周りの人にも伝染します。

「サービスがなっていないから説教してやりますよ」などと偉そうに言う人がいるが、嫌な気持ちになる。こういう人が2人いるのだが、この2人は、全く同じ行動をした。というのは、食事をしていて、自分の作法のために食べ物のソースが、シャツに飛び真っ白のシャツに色がつくと、ティッシュで拭きながらしばらくすると「チッ!」と舌打ちをして、その場の空気を嫌なものに変える。別に他の誰かが何かしたわけでもないし、たいした話でもないんだが、恥を隠すためだかなんだかしらないけど、こういう態度をとる。なんだ、チミは。

初めて行った検診で驚いたのは、ほとんどの妊婦さんに旦那さんが付き添っていたことです。仕事を休んで検診に付き添うというのが一般的だということにカルチャーチョックを受けました。日本の産婦人科では見たことのない光景でした。
出産後の入院中も家族が病室の床に泊まり込み、家族総出で母子のお世話をしています。

僕は子供を持ったことがないけど、この話は想像に難くない。僕はパーイの病院に1週間ほど入院したことがあるんだが、その時もどの患者にも入れ替わりで家族がやってきて、夜はベッドの下に寝るものがいるのを見て、「ああ、こういうものなんだなぁ」と感じたのが思い出される。

電車に小さい子どもやお年寄りが乗ってきたらサッ席を譲る。お年寄りとまでもいかずとも、明らかに年配の方が乗ってきたら席を立つ。ほらあそこに座りなよと周りがみんなで座らせる。東京で妊婦をしていた頃、電車で座っている人の前に立つと寝たフりをされるということが何度かあった私は、感動すら覚えてしまいました。困っている人がいたら、力のない人がいたら、迷わず手を差し伸べる。それはきっと当たり前のことなのに。そんな風に感じることが多々あります。いつの間にか当たり前でなくなってしまったことがたくさんあるんだろうな。そう実感しました。

タイにだってろくでもない奴はいるし、30代の男が70代の女性をレイプするというようなニュースも目にするが、日本人はもっと優しくならないといけない。競争を続けて負けないためには、他人への配慮がなくたって構わなくなっている。自分がやられて嫌なことはしない、という子供の時に言われたことを実行し続けないといけない。

逆に「日本人は謝るのが好きだけど、本当に悪いと思ってるの?思ってないなら言わないほうがましじゃない?」とスルドイことも言われたこともありますが、「ほ、本当に悪いと思ってる時もあるよ!」と答えておきました。

タイに入ったばかりの頃、それはチェンマイで、隣人やその友達なんかと飲んでいて、タイのどこか好きか?というお決まりの質問に、タイ人はみんないつでも笑ってるところだ、というと「それじゃあただのバカじゃないか」と言われたことがある。確かにそうだ。タイを良く仕立て上げている僕がいた。
ところで、日本人は謝るのが好きだというのは、間違っていないと思う。日本へ変える前にお土産を買っていき、姉に渡すと「ありがとう」の代わりに「すいませんね」と言う。父親とデパートの地下で買い物をしていても、父親は買ったものを受け取ると「あー、すいません」と言う。染み付いたことではあるのだが、ありがとうとは言わないのだな、と思った。

カンブリア宮殿 村上龍の質問術 – 村上龍

日本へ戻っていた1週間は、ほとんど全く読書をしなかった。両親との時間や仕事を片付けたり、あとは間違って契約しているamazon primeの1年契約があるので、日本のドラマと映画を見ていた。「結婚できない男」というドラマに、当たり前にシンパシーを感じ、その後阿部寛の出ている映画を何本か見た。

経営者やお金の本を何冊か読んでいると、「お金とは信頼である」とか「サービスが先で利益は後」というような言い回しが出てきて、それはつまり、誠実に良い仕事を続ける、ということだと思うのだが、こんなことは当たり前のことで、人生をやっていくときに仕事に限らず、誠実に人のためにを考えることが大切だ。後は、仕事にしろ、何にしろ強い信念が必要だと思う。画家もしくはアーティストでやってみたいと考え、仕事をやめ旅をしながら絵を描いて、日本へ戻ってからもそういう活動をしていたが、今思えば、絶対にこれで生きていくんだという想いは薄かったのだと思う。今、こうしてデザイナーとしてバンコクでやっていくことは、続けていきたいと考えている。もちろんダメであれば、他に生きていく道はいくらでもあるから、そういう方向にシリアスに捉えているわけじゃあないし、間違いなく続けられるという気がするから、きっとそうなるだろう。

一般に言う成功とか失敗とかがあり、入ってくる金が増えてくれば生活の質をあげることができて、やはり金はないよりもあったほうが良い。しかし、よだれを垂らして金を求めている人達もいる。それで得た金が成功と呼べるのかどうか。自分の人生をかけて何かをやっている人間がいるとき、その時その人は成功していると呼べるはずだ。

ただ、コスト削減というのは利益を出すためにやるわけではないです。投資のために節約をするんです。たとえば無駄を省いて、そのお金を使って技術や新商品への投資に回すのであり、原価低減というのは目標がなければうまくいきません。目標があればみんな納得します。

※原価低減=コストダウン

会長は、「今日のインドを作った103人」というリストに選出された。外国人は三人だけで、あと二人は、マザー・テレサと、元首相夫人である。

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は動かず」

「まず周囲の人を喜ばせる」。そのために自分を磨く。←教養。教養がない人はギブアップしやすい、確かにそうだがなぜだろう?

私たちが産業化して作れば作るほど、逆に芸術作品を作る職人さんたちは浮かばれてくるんですよ。

棒ほど願って針ほど叶う。

こうありたい、こうなりたい、こうなっていくというヴィジョンも強く持ち続ける。ヴィジョンに見えていることが叶うのは、どうしたってしばらく後になるので、非常に歯がゆくじれったく感じるだが、目の前のことをしっかりと続けると、願いは叶う。

何より現地との信頼関係を築かなければならないし、そのためにはその国・その地域の歴史や文化、宗教や法律や生活習慣、それに人間性を知らなければならない。それは、地道で面倒な作業や交渉の連続であり、気が遠くなるような忍耐力を必要とする。

僕もタイでやっているのだが、未だタイ企業との仕事の比率は圧倒的に少ない。当初タイマーケットを積極的に狙って行きたく、今もその気持ちはあるのだが、会社を続けていくために、まずは地固めが必要で一旦置いている。近い未来には改めて積極的にチャレンジをしていくつもりだ。

その厳しい仕事を、なぜ我々はやらなきゃいけないのかという動機づけをしなければいけないじゃないですか。本当に心に火を付けないとなかなか動いてくれないんです。それを考えた時に、非常に制約された環境の中で生きている人たちに対して、生活の豊かさということで貢献することができる。世の中の人のために貢献するというような自分の仕事の達成感、仕事をした結果の効果というのが、はっきりイメージとしてつかめないと、今の若い社員たちというのは一生懸命自分の人生を賭して仕事をするのは難しいと思います。

それは両親と魂を持った会社です。

男(子ども)は、大人になる過程で多くのものを失い、手放す。母親との一体感、幼いときに描いていたさまざまな可能性、性格の一部も手放すこともあるので、優れた役者はそのころのキャラクターをカウンセリングで再獲得したりする。手放したものを取り戻すのが大人の仕事。

この世でこれほどひどい環境はないというようなナチスの強制収容所で、生き残ったのは、心身壮健なプロレスラーのような人間ではなく、ユーモアを解する人間だった、というようなニュアンスのことが書いてあった。

「安さの決定的瞬間」

銀の匙 – 中勘助

物語は主人公が幼かった頃の話で、読んでいると自分のこれまで忘れていた記憶が顔を出してきて、自分の記憶はすべてしまわれていて、何かのきっかけがあると掘り起こすことができるというのは本当かもしれないと思った。

わけもなくほしくなりすぐさま母のところへ持って行って「これをください」といった。

母親に対して「これをください」という話し言葉を使っていたのだ。

私のようなも者がかんだのまんなかに生まれたのはかっぱが砂漠で孵ったよりも不都合なことであった。

古い人の話によれば若いときたいへん学問にこって本ばかり読んでいるうちに慢心して気がふれたのだという。

気がふれるとはなくとも、知識を持っていることを偉くなったと勘違いするような人間も少なくないので、気をつけたい。教養という形で蓄えていきたい。

そこへ運悪くひとりの先生がきていきなり私の帯をつかまえ やっ と掛け声をして宙にさしあげたもので朝から目の奥にいっぱいたまってた涙が一時にあふれだして両足をぶらぶらさせながらわっと泣き出した。

僕も小学校の1年生の時に何か悪さをして、廊下に立っていろと言われて一人だけ教室の外に出された。今まで悪ガキの代表みたいなやつらが何人か廊下によく出されているのは見ていたが、いざ自分が出されると急に心細くなり涙を流したのを思い出した。

こちらは松ぼっくりを拾うので始終小走りに追いつかなければならない。

これも小1か2の頃に、どういうわけだが、ただの石ころをたくさん集めてビニール袋に入れてそれを学校から家へ持って帰っていた。たくさん入れすぎた石の重さでビニール袋は破れてしまった。なきながら石を拾い集めていると隣に住むひとつ年上のいとこが一緒に集めてくれて、ぐずぐずと泣きながら家に戻ったという記憶が出てきた。

BLUE GIANT SUPREME4 – 石塚真一

別の本を買うんで、アマゾンを開いた時にふとBLUE GIANTで検索すると、ちょうど新刊の発売日。

メジャーになるより、売れることより、自由と楽しさをどうやったら持続できるか、これが俺の一番の問題なんだ。

最も大事なこと。同時に最も大事なことは金を稼ぐこと。One for the money, two for the show とも言うからよ。

人生論 – トルストイ

なんだか言い回しのややこしい表現が続いて、難解に感じる。分かりやすく書くことの大事さを思った。

ユダヤ教徒とキリスト教徒の議論という古い笑い話がある。キリスト教徒が、ユダヤ教徒のだしたややこしい微妙な問題に答えているうちに、相手の禿げ頭をぴしゃりと音のするほど掌で叩き、いまの音は何からでたか、掌からか、それとも禿げ頭からか、と質問をだしたという話だ。こうして、信仰をめぐる議論が、新しい解決不可能な問題にとってかわられたのである。

人は永く生きれば生きるほど、快楽がますます少なくなってゆき、倦怠や、飽満や、労苦や、苦悩がますます多くなってゆくことを、いっそうはっきり知る。だが、それでもまだ足りない。力の衰えや病気を経験しはじめ、他の人々の病気や老いや死を眺めているうちに、人はさらに、そこにだけ本当の充実した生命を感じていた自分の存在そのものも、刻一刻、一挙一動ごとに、衰弱と老いと死とに近づきつつあることにも気づくのである。

もし両親が貧乏なら、子供は親から、人生の目的とは、動物的個我ができるだけ楽をするため、パンと金とを少しでもよけいに手に入れ、仕事をできるだけ少なくすることである、と知るだろう。もし贅沢な家に生まれれば、その子供は、人生の目的とはできるだけ快適に楽しく時を過ごせるよう、富と名声を持つことである、と知るだろう。
 貧乏人が身につけるすべての知識は、彼にとってもっぱら、自分個人の幸福をさらに増やすために必要である。金持ちが身につける科学や芸術のあらゆる知識は、科学や芸術の意義などという高尚な言辞にもかかわらず、もっぱら退屈をしのいで楽しく時をすごすためにのみ必要なのである。どちらの人間も、永く生きれば生きるほど、ますます強く世間の人たちの支配的な考え方がしみついてくる。やがて結婚し、家庭を持つと、動物的な生命の幸福を獲得しようという貪欲な気持ちは、家庭という口実によってさらに強化される。他人との闘争も激化し、もっぱら個人の幸福のためにのみ生命の習慣(惰性)が確立されてゆく。

「しかし、みんながみんな狂っているはずはない、とすれば、狂っているのは俺のほうなんだ。だが、違うぞ。こういうことを告げてくれるこの理性的な自分が狂っているはずはない。この自分がただひとり全世界を相手に立ち向かおうと、俺はこの自分を信じぬわけにはいかない」
こうして人は、魂を引き裂くような恐ろしい疑問をかかえたまま、世界じゅうで自分が一人ぼっちなのを意識する。それでも生きてゆかなければならない。

55歳からのハローライフ – 村上龍

村上龍の中篇小説(僕は短篇小説と呼ぶくらいのものだと思って読んでいたが、あとがきに自身が中篇と書いていた)は初めてかもしれない。コインロッカーズ・ベイビーや愛と幻想のファシズム、希望の国のエクソダス、オールド・テロリストなど破壊的なものが男っぽくて大好きだが、この55歳からのハローライフもこの先の自分や親のこと、年配の人の人生を想うにとても興味深かった。

この本の影響で、少し値のするミネラルウォーターを飲んでみている。高いと言っても、バンコクではレッドブルが65バーツするので、それを考えればミネラルを多く含んだ水を飲んでみるのは悪くないだろう。この作品とオールド・テロリストでもそうだったが、パニックになった時は水を飲むという、当たり前の動作をゆっくりと行うことで現実感が戻ってくるということをしきりに書いていた。

「ジョウビタキ、小さいのにすごいやつなんだ、お前、そう言ったろ」<中略>「あんな小さなからだで、朝鮮半島と、それに海を越えて、途中、流木とか、漁船のマストとか、留まって、休みながら、一千キロ以上旅してくるんだ、すごいやつだ、そう言ったんだよ」

グルジア産で、ミネラル分が多く、炭酸の量は少なめで喉越しが柔らかい。

いつのまにか日本語での呼び名がジョージアに変わったようだ。僕には日本語ではグルジア、英語ではジョージアの方が馴染みがある。

これまで、名の知れた中堅家具メーカーという目に見えない組織に、ちょうど鎧や衣服をまとうように守られていたのだと思った。

これは僕も旅に行く前に博報堂アイ・スタジオという会社をやめた時にまったく同じことを感じた。まさに鎧を剥がれたと気分だいう表現でまわりの人間に言ったが、アイ・スタジオで働く仲間はもちろん、他の人間にもピンときていないようだった。

咽頭喉頭異常感

あとでわかったのだが、不必要なことは聞かないし言わない、というポリシーが安心感を与えるのだそうだ。

大切な誰かを、心から受け入れるというのは、大変な作業なんだって、まずわかる。

じゃあ、どういう人だったかというと、どれだけ長くいっしょにいても疲れないし、散歩をするだけでとてもいい時間を過ごせるんです。要は、長い人生をともに歩む、パートナーだったんです。

「ゲンイチ、お前、男やからね。べちゃくちゃ喋らんでもええ。ただ、自分がいやなことを人にしたらいけんよ。」

海女たちは、ライバルでもあったが、何よりも非常に親しい友人で、都会に住む者には理解できない独特の友情で結ばれていた。

無趣味のすすめ – 村上龍

いつの間にか僕は自立した人間になっていて、周りの甘えに浸りきった人間と時間を共にすると心をかき乱される。
もうそういう人たちとの消耗する時間はなしにして、僕は確固とした自立した男になることにする。

だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。

言われてみれば、写真が趣味だとか、ブログが趣味だとか言っている奴を振り返ると、それは単なるエクスキューズにすぎず、結局そういう人らの書いたものや撮ったものを見ても、心を熱くさせるような文章があったり、写真のクオリティーが上がっているわけでもない。レンズを買っただなんだと言っているようだが、お前自身からの変化は何もないままだ。それでいいのだろう、趣味なのだから。

ビジネスにおけるパートナーと夫婦はいろいろな面で似ている。

良くわかる。共同経営をしているときに強く感じた。そして相手の依存が強くなってくるうちに、こいつはダメだと思った。本当の本当は、会社を登記する前に一緒にやるのは止めようと打ち明けたのだが、彼は「ぼくは後藤さんとやりたいです」言ったまま、その後何も言わずに黙ってしまった。今思うと実に甘えた発言だが、当時の僕もまた甘く、なしくずしてきにやることにしてしまった(今の僕も人が良すぎるところが治っておらず、困ることがたまにある)。
こういう甘えた人間の依存は強まってくるもので、そのうちにやっぱりだめだと思い、抜けることを伝えると、今度は「じゃあ、資本金を半分ずつにしたらよくないですか?」としがみついてきて、別々になってからもかなり長く飯の誘いがあったりして、「ああ、この人は別れた女にもこうやってしつこくするんだろうなぁ」とうんざりした。

いまだ達成されていない目標は、他人に語ることで医師が「拡散」sる。

メモに限らず「書き記す」という行為は、人類にとって重要なので、

仕事とプライベートにおけるその人の優先順位が、その人の人生なのだ。

実際の交渉においてもっとも重要なのは、相手の立場に立って考えるということだ。

アルバニア人であるマザー・テレサのような英語はたどたどしく現代的な言い回しも流行の常套句もなかったが、正確で、英語圏の人々にも交換が持たれるということだった。

タイ語はTone languageなので、発音はある程度強く意識をしなければならないが、それでも同じ単語でもイサーン語のそれと、中央語のとでは、同じ表記でも発音の違うものがあるので、それほど気にすることはないのかもしれない。それよりも何を伝えたいのかをしっかりと意識して話をすることの方が大切だ。
たまにいるのは、ขอโทษครับとかน้องครับというタイ語を自信満々に大きな声で言うおじさんがいるんだが、その後が続かない。であれば、もう少し謙虚な言い方をしてくれないか。初めの勢いはどこへいった?来年も再来年も同じ調子でน้องครับだけを言っているんだろうな。

ユニクロ潜入一年 – 横田増生

潜入取材という手法が面白いが、著者にユニクロに対しての憎しみがあるようで、文面にもそれが出ているので、少し読んでいて少し嫌な気持ちになる。
会社が小さい間は社長の考えを伝えることや、写真の考えや気持ちを汲み取るのもできるのだろうが、大企業にそれはできない。それは大企業のある姿なのだろうが、搾取するようなことはやめるべき。これは大企業でなくても中小企業や個人でも浅ましい考えも持っているのがたくさんいるから、同じこと。中小や個人であれば、相手にしなければとも思うが、社会を良くするという意味においては、企業の大小や個人であるかは関係ない。

そういえば、僕がまだバンコクに来たばかりの頃で、通っていたタイ語の語学学校の先生の友人が、これからオープンするというタイ1号店のユニクロの研修で笑い方の練習をさせられたと言っていた。タイ人笑い方を教えるとは、釈迦に説法であると恥ずかしくなったが、この書籍にもユニクロスマイルのことが書かれていて、マニュアル化されているとのことだった。

この本を読む少し前に、airismの下着と肌着を買ってみると、他のものより値段が張るが、着心地がよいなと感じ、次からはこういう質の高い下着や肌着を使っていくことにしようと思っていたところだった。

その辺の企業だと、自分が怠けているみたいで嫌とか、辞めていく人はゆとり世代、自分に甘い人はユニクロではつづかないなど、自分達はエリートで、ユニクロでつづかない人は怠け者といった話を繰り返し聞かされました。

大企業にいる人間の中には、もちろん力がある人もいるが、その会社が力を持っているだけで、お前に力があるわけじゃない、という人間がいる。勘違いするなよな。