ラストワルツ – 村上龍

「才能がないんて思ったらダメだ。そっちの方が楽なんだから」
みたいな村上龍の歯切れの良い物言いが好きで、希望の国のエクソダスに続いてエッセイを読んだ。KEY BOOKSの半額セールで棚に見つけて手を取った。

人はどう生きるべきかという、有名で、重要とされている問いがある。多くの文学でテーマになっているし、その問いを軸にして、文芸批評が書かれたり、あるいは、政治や経済といった大きなファクターを決めたり、政策を選んだりするときの指標となることもある。どう生きるべきか、という問いは、わたしたちの社会では、おもに精神論で語られることが多い。人に優しくとか、思いやりを持ってとか、弱きを助けるとか、自立して他人に依存しないとか、そういったことだ。
わたしは、生まれてからこれまで、「どう生きるべきか」などと考えたことはないし、今も考えない。わたしが子どものころから考えてきたのは、「どうやって生きていくか」ということだった。つまり、何をして食っていくか、という具体的で切実な問いだった。

わたしのどこかに「住まわせていただいている」というような奇妙で本質的なエクスキューズのようなものがある。

タイに住ませてもらっている、ということを思う。しかしそれにとらわれすぎると消極的になりかねないので、貢献をすることでチャラにしてもらうのだ、というやや傲慢と言って良いのかもしれない気持ちもある。どこまで言ってもタイ人ではないので、自分の国ではないところに住んでいること。そういう国という考えを抜きにしても、他人と共存していることで幾分謙虚になることは必要なことかもしれない。

社会全体が老化しているわけだが、先進国というのはだいたいそういうものだ。ただ、62歳の作家にとって、良いこともある。総体的に、若い男たちには経済力がなく、刺激的な経験も乏しく、話も面白くないので、消去法的に、おじさんにいといろなチャンスが回ってくる。その現象は、とても興味深く、かつありがたいことだと素直に喜んでいる。

日本のポップスは脳が腐るので絶対に聞かないし、世界的なムーブメントとなり得るようなポップスはもう存在しない。

こういう村上龍節が僕の人間形成にいくらか影響を及ぼしているはず。それは僕がこれからも大事にしていきたいことである。

今年、62歳になった。この歳になると、友人や知人がシリアスな病に罹ることが増えてくる。そのことを思うと、他の、たとえば、集団的自衛権や、イスラエルのガザ侵攻、それにウクライナ問題などを考えるのがとてもむずかしい。どうでもいいというわけではないが、それより切実な問題として友人たちの病のことがずっとうごめいている。

ロヒンギャや憲法9条改正など、多くの問題があるが、そういう問題を継続してニュースを追ったり考えたり続けることができない。それよりも僕の生活に直結したデザインやウェブの情報、それに絵画や音楽に時間を使ってしまうからだ。ようするに僕はデザインや芸術や音楽が好きで、政治が好きなやつが政治家になるわけで、政治も野球ファンと変わらないじゃないかと言った高橋ヨシキの言っていたことに共感する。だからって困っている人がどうなっても構わないと思っているわけじゃあないんだ。

今の子どもたちにとって、写真は、紙のアルバムのページを「めくる」という体験がない場合が多いと、ITの専門家に聞いた。今の子どもたちにとって、写真は、紙のアルバムではなくタブレット型端末やスマートフォンにおさめられているもので、「めくる」のではなく、モニタ画面をタップしたりフリックしたりスワイプしながら眺めるものらしい。そんな些細なことが精神形成と関係があるのかと言われそうだが、実は、人間の精神性というのは、そういった遊びを通した操作経験の集積によって形作られるという指摘もある。

一般的に、「本や雑誌が売れない」という状況が続いているらしい。友人編集者たちがよく言うのが、「占い、ダイエットなど健康、自己啓発本、食べ物など、どちらかといえばどうでもいいものがベストセラーになることが増えた」みたいなことだ。そんな一種の愚痴には「下らないものばかりが売れるイヤな時代」というようなニュアンスが含まれている気がする。

フェイスブックや個人のブログには、昨日誰と何を食べたという書き込みがあふれている。わたしは、あの食い物に関する書き込みをみると吐き気がする。

誰もが生きていかなければならないのだ。たとえ水商売だろうが、風俗だろうが、何とかサバイバルしている人はバカになんかできない。子賢しく立ち回ってずるく金を稼ぐ、質の悪い連中が他に大勢いる。

だが、まったく我慢しない、我慢できない人は、社会生活ができないだろう。結婚も無理かも知れないし、恋愛もできないかも知れない。

一日に8時間も楽器の練習をするのは簡単ではない。そんなトレーニングを続けたミュージシャンだけが、トップバンドから誘われる。才能とはそういうものだ。つまり、一日8時間の練習を何年も続けることができる、それが才能で、それ以外、才能というものは存在しない。

存在しない!

それは感傷を生む。わたしは感傷が何よりも苦手だ。それは、わたしが人一倍感傷にとらわれやすい性格で、それがいやだからだと思う。

先日小学校の同窓会の誘いがあった。バンコクにいるので、当然参加はしなかったのだが、当時の担任の先生とメールのやりとりをすることになった。かなりセンチメンタルな気分になり、メールは1往復でやめることにした。感傷的になって、安住するのを恐れたのだ。といって、同窓会やそれをやっている人が良くないと言っているのでは決してない。

希望の国のエクソダス – 村上龍

村上龍の小説の中で、ゼロという男が言う「結果を出した広告だけが優れた広告で、それ以外の広告には意味がない」みたいなことを言う場面をもう一度読みたくて手に取ったのだが、読み始めてすぐにこの本ではないということに気づいた。
大学の頃に1度、デザイナーになってからしばらくしてもう1度読んだような記憶がある。
デザイナーとして広告を扱っている中で、先に挙げた言葉が強く印象に残った。
あの台詞の出てくる小説は「愛と幻想のファシズム」だったようだ。

読み始めると若者の孤独や高齢化社会、考え方に甘さのある日本人などなど今まさに起きている問題や変わらぬ問題があり、グイグイと話の中に引き込まれて、仕事の合間に時間をつくってはページをめくった。
1998年から2000年に連載されていた作品のようで、調べてみると、それは村上龍が46歳から48歳の時でだった。

もしいやでなければ最後に何か日本語を喋ってくれないか? 記者に頼まれて、少年は、ナマムギ・ナマゴメ・ナマタマゴ、と少し笑みを浮かべながら、言った。どんな意味の言葉なのか、と記者が聞いたが、少年は再び印象的な微笑みを浮かべただけで、答えなかった。CNNの記者をバカにしているような、お前は何もわかっていないというような、侮辱的な微笑みだった。

おれは決して熱心な読者ではなかったがカミュやジュネは優れた作家だと思う。だが、基本的におれたちのものではなくフランス人のものだ。編集長はまるで自分のもののようにカミュやジュネを語る。

メディアに限らずこの国では集団の内側にいないと必ず嫌われる。

おれは由美子が経済にとり憑かれたことが別にいやではなかった。自分のからだに宿った生命の代償として、ある体系的な学問に興味を持つのは理解できないわけではないし、堕胎というリアルな現実に直面してファッションというコマーシャルな世界に疑問を持ったのも何となくわかる気がした。それが正しいかどうか、そんなことはどうでもいいと思う。彼女にとって、それは必要なことだったのだ。それに、経済の学徒になったからといって由美子が変わったわけではない。

その人物は今年の初めにインタビューした日本人のバレエダンサーだった。ロンドンの有名なバレエ団で活躍するダンサーで、「いろいろと大変でしょう」とおれは最初に聞いて、彼女を不機嫌にさせてしまった。別に大変じゃありません、と彼女は言った。言葉を覚えたり、食事になれたり、他のダンサーや振り付け師に受け入れられるまでは大変ですが、そのあとは普通にやっています。普通にやっていけるようになるまでが大変なんです。そのことは日本人にはわかりくいと思います。ロンドンにも多くの日本人がいますがそのほとんどは日本を背負ったままです。日本を背負わすに向こうの生活に馴染めば、普通に暮らせるようになります。

バンコクにいてもその多くは日本を背負ってというのか、引きずっている。やれタイの食事は飽きるとか、タイ語は難しいとか前置きをしているが、見ていて嫌になる。もう10年もいるというのに、タイ文字も読めずにどういうつもりなのだろう。他の例えばフランスとかロシアとか言う国で、その国の言葉も、まして英語も話せずにやっていくことができるんだろうか?親日国でよかったな。まあ、ここはフランスでもなくロシアでもないからな。

ローマだってサラセンだってモンゴルだって絶頂期のあとダメになったんだから。それも突然に消えたわけじゃなくてゆっくりと時間をかけて世界史から消えていったんだから、日本だってゆっくりと自然にダメになっていったって何の不思議もないのよ。それに、ダメになるっていったって日本人が絶滅するわけじゃないし。もともと持ってたのはお金だけで、影響力も発言力もなかったんだから、いいんじゃないかと思うけどな。経済的に二流国や三流国に落ちたって、別に何てことないんじゃない?

昔カナダの短編映画で、ああやってお尻にハートを描いて、矢を突き刺すやつがあったんですよ。他の中学でもいろいろやってるみたいだったし。人を集めておいて、カタルシスが何もないのも問題だから。

じゃあ、おれたちが今日の集会をどういう風に記事にするか、君たちにとっては非常に大事なわけだ、とおれは聞こうとして、止めた。そんなことは当然のことで、当然のことをわざわざ確認し合うほど、この中学生たちは甘くない。後藤のモンゴルの話を聞いて、涙を流しそうになるほど感動していたポンちゃんだったが、今はもう普通の顔をしてモニターに視線を戻している。よし、おじさんが君たちに有利に事が運ぶような記事を書いて上げよう、などと言うのは甘えだ。えっ、そうですか、うれしいなあ、と応じるのも甘えだ。そういう応答は意味がないが、この国ではそういうやりとりだけが基本的なコミュニケーションとして成立してきた。

去年の受注後、制作の前に客から「期待してますから」と半笑いで言われた事があって、どうにもそれがひっかかっていたんだが、その時つくれる最も良いものを作るのは当たり前の話で、わざわざそういうことを確認してくることにイラッとしたのだ。それもどういうわけだか半笑いで。もちろん良いサイトをつくって納品したが、その時に彼は「モチベーションがあがりました!」と言っていたが、あれから半年ほど経って、その会社のブログは1度しか更新されていない。

誰かに何かをしてあげたい、誰かに何かをしてあげることができる存在になりたいという思いが、どれだけ普遍的で、切実なものかをこれから日本人は思い知るようになると思う。

台湾は1997年のアジア通貨危機の影響をほとんど受けていないらしい。その理由をていねいに説明してくれたのだが、ほとんど忘れてしまった。確か、蒋介石がスーパーテクノクラートに経済制作をまかせたからだ、みたいなことだった。

例外はひとつしかなくて、それは客の襟元をサソリが這っている場合だ。そのときは、お客様、サソリが襟元を這っておりますが、と話に割って入って、注意をしなくてはいけない。

居酒屋で群れているサラリーマンを見て下さい。彼らにしかわからない貧弱な言葉で、群れの中で笑い、群れの中で叫ぶだけです。個人として対面すると何も話せない。話すこともないし、話し方も知らないし、コミュニケーションが努力なしでも成立すると思っています。フリースクールの子供達は、まず孤独です。不登校という大変な状況の中で、自分を確認しなくてはいけないので、自然と言葉を獲得しようとするわけです。彼らは本をよく読むし、これから自分はどういう風に生きていけばいいのかということを考えていて、他人の話をよく聞きます。必死で理解しようとするわけです。自分の生き方を他人に説明したり、他人の意見を理解するということは彼らにとって死活問題なわけです。

「知ってますか、関口さん。ガダルカナルにアメリカ軍が上陸したとき、四万の敵に、日本は三千の兵力で向かっていったらしいですよ。敵には大砲が五百門あったんだけど、日本軍には二門しかなかたんですよ。それでもちろん上陸した海軍陸戦隊は全滅するんだけど、その次も、三千人くらいの部隊で攻撃するんです。小出しにやるのが好きなんじゃないでしょうかね」

よく考えてみると日本に希望がないというのはどういうことですか、という質問はおかしい。日本には希望がない、ということ以外には意味がないし、それ以上の説明のしようがない。

「関口さん、ぼくらは、ちょっとですが、疲れたんです。市場というものがといういうものか少しわかりました。市場というのは、欲望をコミュニケートする場所で、まるで空気みたいに、あらういはウイルスみたいに、どこにでも入り込んできて、それまでそこにあった共同体を壊してしまうんです。共同体が持っていたモラルや規範を無意味なものにしてしまうんです。ただ、ぼくらはそういう市場を利用して資金を作ったし、大人の社会と戦ったわけなんだけど、そのルールに従うのはばかばかしいと思うようになったんですよ。もちろん市場はニュートラルだから、市場が悪いわけではなくて、市場が生み出す不均衡が悪なんです。自由主義経済は必ず敗者を生むから、勝者も敗者からの復讐を恐れて生きなくてはならないでしょ? それって、本当に無駄だと思いません? DVDプレーヤーを買ってくれなかったからといって母親をバットで殴り殺した中学生がいたでしょう? それに売春をする女子中学生もたくさんいたでしょ? 臓器を売るホームレスもいるし皮膚を売る大学生もいたでしょう? あれはぼくらの生活の隅々に市場が入り込んでいて、臓器やからだといったもともとは個人に属しているはずのものまでが売買の対象になっているということなんです。このままでは、ぼくらは、ぼくらが憎んだ大人たちとちっとも変わらない大人にしかなれないと思ったわけなんです

おれは悲しい気分になっていた。何か無駄な繰り返しが若い頃に必要だとか、そういう風には決して思わない。安心できるものに囲まれて暮らす方が平凡だけど幸福なのだとも思わない。ただ確かなことがあるような気がした。それは、無駄なことの繰り返しはおれたちを安心させるということで、そのことが妙に悲しかったのだ。

それが何かうまく言えないんですが、要するに、上の人にペコペコして、下の人には威張る、というようなメンタリティです。そういう醜いメンタリティをどういうわけか北海道と沖縄の人は持たずにすんでいるんです。

悩む力 – 姜尚中

大晦日に鳴った電話を見ると城田さんの名前。
年明けにKEY BOOKSでセールがあること、それと「悩む力」の紹介であった。

人に本を紹介することは、あまりしないんだがという前置きの後、著者の姜尚中という人も、我々と同じように強い自我を持ち、悩みを持ちながら生きている種類の人間であること、僕が何冊か読んでいた夏目漱石が本に出てくることなど。圧倒的に読書量の多い城田さんだが、小説はほとんど読まないというが、「悩む力」を読んで何冊か読んでみようと思っているという。

まだKEY BOOKSに同じ本が一冊残っていたという話を聞き、その日のうちに早速購入。

自我とは何かを説明するのはなかなか難しいですが、平たく言えば、「私とは何か」を自分自身に問う意識で、「自己意識」と言ってもいいでしょう。

「自我」の「発見」と言えば、すぐに思いつくのは、十七世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」という有名な言葉です。

こうした自我の問題は、百年前はいわゆる「知識人」特有の病とされたのですが、いまは誰にでも起こりうる万人の病と言っていいと思います。当時は「神経衰弱」と呼ばれ、漱石の小説中に「キーワード」のように出てきます。漱石の「断簡(メモ)」の中にも、こんな言葉が見えています。「Self-consiousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり」

「自分の城」を築こうとするものは必ず破滅するーと。

いまでは「まじめ」という言葉はあまりいい意味で使われませんし、「まじめだね」と言われるとからかわれているような気分になります。でも、私はこの言葉が好きですし、とても漱石らしいt思います。すべてが表面的に浮動するような現代社会に楔を打ち込むような潔さがあると思います。まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みのそこを「まじめ」に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。

「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」

ゲーテの「ファウスト」の中に、「悪魔は年寄りだ。だから年寄りにならないと悪魔の言葉はわかりませんよ」おいう言葉が出てくるのですが、なかなか意味深長です。若者の浅知恵は、老人の成熟した知恵にはかなわないということでしょうか。

ウェーバーも漱石も神経を失調しがちでしたが、それもうなずける気がします。かれらの著作を見ていると、その一字一字が血のしたたるような苦行の痕跡なのではないかと感じます。たいへん深遠だと思いますし、それをやめなかった彼らのまじめさと精神力に打たれます。そして、かく言う私も、自分を信じるしかない、「一人一宗教」的に自分の知性を信じるしかないと思っています。自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。あるいは、それしか方法はないということを信じる。それは「不可知論だ」と言う人もいるでしょう。でも、中途でやめてしまったら、それこそ何も信じられなくなるのではないかと思います。「信じる者は救われる」というのは、究極的には、そういう意味なのではないでしょうか。何か超越的な存在に恃(たの)むという他力本願のことではない、と思います。

サービス業の大きな特徴として、「どこまで」という制限がないことがあります。だから、中には、果てしなくのめりこんで、ときには消耗しつくして自殺する人もいるといいます。阿部真大さんの「搾取される若者たち」には、「自己実現」ということに夢中になるあまり、自分にノルマを課しすぎて破滅するバイク便ライダーの話が出ています。

人間というのは、「自分が自分として生きるために働く」のです。「自分が社会の中で生きていていい」という実感を持つためには、やはり働くしかないのです。