14歳からの社会学 – これからの社会を生きる君に

能力によって自由を楽しめる度合いが違ってくる。これは本当のことだ。でも能力がとぼしいからといって過剰にみじめにならず、自分がそこいいてもいいんだ、自分は生きていいんだ、自分は他社に受け入れられる存在だ、と思える。それが「尊厳」ということだ。

さあ君は舟を動かせるか。「失敗しても大丈夫」と思えるように、人間関係の中で育ってきたか。

誤解しないようにいうと、ぼくのいう「エリート」は、昔の日本社会で通用した「東大→官僚=自己実現」みたいなタイプの人間じゃない。「幸せは人それぞれ」のいまの社会で「それでも多くの人が幸せになれるルールがあるはずだ」と考えられるタフな人間のことだ。

自由とは自分で自分を支えることだ。でもこれが苦しくて難しいんだ。

ぼくは大学受験のとき、受験勉強は1日4時間までと決めていた。<中略>「1日4時間だけ精いっぱい勉強して入れるくらいのところに入る」コスト配分が、一番いい。

ぼくは仕事の時間を減らすことに挑戦している。まえは1日に10時間以上平気で働いていたが、仕事が楽しく苦とも思っていなかったが、仕事のための人生じゃないから。会社を軌道にのせることができたし悪くは何買ったのだろうが、もういい。今は1日5〜6時間。もう少し頑張って4〜5時間で済むようにしたい。その後は本を詠んだり絵を描いたり昼寝をする。

だから女の子は、自分を「理解」してくれる余裕がある年長の男に向かう。

君は、女の子がどうしてもっと優しくしてくれないんだ、つくしてくれないだ、心にちゃんと触れてくれないんだ、と思っているだろう。そんな君は、生身の子とセックスしてもつまらないと思うようになる「予備軍」だ。本当は女の子の心に日をつけない君が悪いんだ。

サラダ記念日 – 俵万智

あとがきで「私と歌の出会いは〜」と俵万智が書いていて、短歌は歌なのだと、つまりそれは音楽であると知った。

短いということは表現にとってマイナスだろうか? そうは思わない。とも。
短歌なり自由律俳句というものをやってみると、何を言いたいかかなり絞る必要がある。
その言いたいことをどんな言葉で言うか。そこにユーモアを込められるか。これが下手くそながら面白くて、1日に一つ、歌を詠んでいる。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のあたたかさ

通るたび「本日限り」のバーゲンをしている店の赤いブラウス

愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う

「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする

その日から生き方変えたという君のその日の記憶吾いは見えない

会うまでの時間たっぷり浴びたくて各駅停車で新宿に行く

王室と不敬罪 プミポン国王とタイの混迷 – 岩佐 淳士

タイは東南アジアのなかでは、比較的民主化が進んだ自由な国とのイメージを持たれている。しかし、「国境なき記者団」が発表したこの10年間(09〜18年)の「報道の自由度ランキング」を見ると、タイは約180ヵ国中130〜153位で、とても低いランクにとどまっっている。
<中略>だが、今やタイの「報道の自由度ランキング」(18年 140位))は、近年民主化に向かうミャンマー(137位)に逆転されている。

かつて総選挙で、反タクシン派グループ「民主市民連合(PAD)」がスーツ姿のトラやトカゲ、水牛ポスターを掲げたキャンペーンを行ったことがある。タクシン派の政治家は「動物並み」とのメッセージだ。

プチ革命 言葉の森を育てよう -ドリアン 助川

図書館を利用。
すごいサービスだよな、と思う。そしてここでも読みたい本が借りられていたりして、本好きはどこにでもいるのだと微笑ましくなる。
バンコクの古本屋では、自分が探していた本があると、これ読んだ人がこのバンコクにいたんだなと、これも嬉しくなる。
もちろんそれほど難しい本でないのだか誰が読んでいたっておかしくはないのだが。

それは、ボクらなりの畑を「意識的に」開拓することです。

ただそのためには、心について洞察を深めていくことがまず必要になります。プチ革命は、あなたの胸の中だけで起きる革命だからです。心と向かい合い、知恵に訴え、静かに平和に行なう個人革命です。

「疑問をあらわす『ば』。『今日プール行くば』。」というように使います。衣服などを切ることを『つける』と言ったり。『もうパジャマつけてるば?』。

イサーンでは疑問に บ่ ぼ

言葉について深く考える初めての経験でした。自分が大阪弁を話していることさえ気づかなかったのが、英語の音読でさえ大阪くさいと笑われましたから。ここで友達をつくるには福井弁を身につけなくてはと、必死で練習するいっぽう、これで純粋のお大阪弁ではなくなるんだなあとも思い、すこし残念でした。言葉が人間関係をつくるということを学んだと思います。大阪弁の『はる』という、ほどよいお敬語がつかえない(通じない)のがもどかしかったのを覚えています。敬語は、上下と同時に親疎も表し、ふつうは敬語をつかうと、よそよそしくなるものですが、『はる』だけは親しみを感じさせる敬語なので、とても好きです。『来た』では失礼、『いらっしゃった』ではよそよそしい、そんなおき『来はった』と言うとしっくりくるのです」

※親疎(しんそ)