すべての男は消耗品である。VOL.12 – 村上龍

村上龍尽いている。
kindleアプリで読んだが、一般的なウェブサイトと同じように左から右へ読み進めていく横書きになっていた。普通は書籍と同じように縦書きになっているものがほとんどで、初めて見た。確かにモバイル端末で読むとその方が親しみやすい感じもある。これには村上龍の考えが反映されているのではないだろうか。歌うクジラではある場面にくると音楽が流れるような仕組みにしたと言っていた。その音楽は坂本龍一がつくったという。

世の中に発生し変化を促す対象について、「何が起こるのだろう」と客観的にとらえるのはもちろん大切なことだが、具体的に自らがどう関与するかという発想がないとすべてが他人事か対岸の家事になってしまう。

現代でも、アフリカ・サハラ以南の内線では、ナタで敵の頭を割っても心が痛まないという民兵が確かに存在する。

日本は、尖閣諸島問題で中国に対する外交能力がゼロだということを露呈した。

年齢を経ると、読書はしだいに「趣味的」なものになりやすい。わたしは趣味的な読書を提供したくない。できれば生き方や基本的な考え方について、根本的な問いを提供したいと思っている。

期待は甘えとほとんど同義語だ。

山崎さんは、「政治は監視の対象ではありますが、期待を持ち込む場所ではありません」と書いた。

期待、奇妙な言葉だ。期待するというのは、相手に何かを望むという意味だが、経済や政治は本来は「契約」で成立していて、そういった概念から無縁のはずだ。男が女に対して「甘い期待」を抱く、というのはごく自然なことだが、たとえば、営業が取引先に期待するのも、上司が部下に期待するのも、考えてみればおかしい。契約している場合を考えると理解しやすいが、契約を交わす双方には契約の履行があるだけで期待はない。

たとえば知事に立候補する場合、期限と数字を決めてその自治体の財政を改善させるというような約束をする候補者はいない。政治の主要な仕事とは失業を減らし雇用を増やすことだという説もあるが、具体的な数字を上げ、失業者をこのぐらいに減らし、これだけの雇用を創出します、という約束をする候補者もいない。
彼らが言うのは、「※※県を元気にする」とか「若者が夢を持てる県政」とか、わけのわからない曖昧な文句だけだ。だから人々は、首長や政治家に「期待」せざるをえない。

自分はこれだけのレベルの仕事をする、と私は作品を通じて常に宣言している。編集者や出版社、それに読者の信頼を失うわけにはいかないので、売れるかどうか、大勢に好まれるかどうかは別にして、質の高い作品を書き続けなければならない。期待なんかされたくない。今の日本では、期待は甘えとほとんど同義語だ。

その店が「満足」ではなく、「感動」を与えることができたとき、「リピート率」は飛躍的に上がるのだそうだ。

小説というのは、基本的にマイノリティを代弁するものだ。社会に受け入れられない人々の声にならない声を翻訳して、人間の精神の自由と社会の公正さを訴える、それが文学である。だから文学は回答を示すものではない。

わたしは何と呼ばれようとあまり気にしない。問題は呼称ではなく、積み重ねている仕事の質だからだ。

そして、現代は変化が激しいので、政治もビジネスも学問も、適応するためには、大量の情報をインプットして、ひんぱんに長い距離を移動し、大勢の人に会ってコミュニケーションを図る必要がある。

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