夜と霧 – V.E. フランクル

大学の頃に読んだが、古本屋で見つけて再び。

「カポー」や有力な囚人だったものが耐なければならなかったことを扱うわけではなく、知られざる収容所囚人の受難を扱うのである。なぜならばカポーたちは何の腕章もつけない普通の囚人を見下していたのだった。囚人が飢え、そして飢え死にしている間に、カポーたちは少なくとも栄養の店では悪くなかった。それどころか若干のカポーは、彼の生涯に今までなかったほど、恵まれていたのであった。したがってこれらのカポーのタイプは心理的・性格的にはナチス親衛退院や収容所の看視兵と同じように判断されてよい。すなわちカポーは彼らと心理学的・社会学的に同化したのであり、彼らに協力したのだった。カポーたちはしばしば収容所の看視兵よりも手厳しく普通の囚人を悪意を持って苦しめた人々であり、例えば親衛隊員すらよりもはるかに多くの普通の囚人を殴打したのであった。

人々を集めて、囚人と看守でその人たちを分ける。するとどのようなことになるのかを人体実験するという実際の話を映画かした作品が昔あったが、まさにそれの実際の話。映画では、囚人は囚人らくしく、看守は看守らしく振舞ってゆくのだ。
実は、僕にも同じ体験はある。2人ではじめる会社で、立場に上下をつけずにやっていくという約束であったが、会社を運営していく上で、代表は必要だということになり、僕は彼に譲った。たんにそんなことでくだらない権力の取り合いをするのが嫌だったからだ。しばらくして会社がうまく進み出すと、彼が変わっていった。まあ、そうだよななと、あの映画のことを思い出した。そして僕は会社を抜けた。肩書きによって説得力を増すことは常であるが、肩書きなんて、本当にどうでもよい。質の高い仕事を積み上げていくだけだ。そうは思わない人がたくさんいる。
アウシュヴィッツの話なんかと比べるにも及ばない小さな小さな話だ。

彼はどなった。「糞くらえ!」

二、三の人間はそっと規則を犯して、靴にくっついている糞便にもかまわず枕の代わりに靴を用いていた。

君は気を悪くしないだろうな、だが俺ははっきり言おう。たかだか君だ。

他の場所(たとえば兵営の如き)における集団生活と反対に、ここでは暖色が全く見られなかった。

このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。

ドストエフスキーはかつて「私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた」と言った。

「カポー」や有力な囚人だったものが耐なければならなかったことを扱うわけではなく、知られざる収容所囚人の受難を扱うのである。なぜならばカポーたちは何の腕章もつけない普通の囚人を見下していたのだった。囚人が飢え、そして飢え死にしている間に、カポーたちは少なくとも栄養の店では悪くなかった。それどころか若干のカポーは、彼の生涯に今までなかったほど、恵まれていたのであった。したがってこれらのカポーのタイプは心理的・性格的にはナチス親衛退院や収容所の看視兵と同じように判断されてよい。すなわちカポーは彼らと心理学的・社会学的に同化したのであり、彼らに協力したのだった。カポーたちはしばしば収容所の看視兵よりも手厳しく普通の囚人を悪意を持って苦しめた人々であり、例えば親衛隊員すらよりもはるかに多くの普通の囚人を殴打したのであった。

すべての男は消耗品である。VOL.12 – 村上龍

村上龍尽いている。
kindleアプリで読んだが、一般的なウェブサイトと同じように左から右へ読み進めていく横書きになっていた。普通は書籍と同じように縦書きになっているものがほとんどで、初めて見た。確かにモバイル端末で読むとその方が親しみやすい感じもある。これには村上龍の考えが反映されているのではないだろうか。歌うクジラではある場面にくると音楽が流れるような仕組みにしたと言っていた。その音楽は坂本龍一がつくったという。

世の中に発生し変化を促す対象について、「何が起こるのだろう」と客観的にとらえるのはもちろん大切なことだが、具体的に自らがどう関与するかという発想がないとすべてが他人事か対岸の家事になってしまう。

現代でも、アフリカ・サハラ以南の内線では、ナタで敵の頭を割っても心が痛まないという民兵が確かに存在する。

日本は、尖閣諸島問題で中国に対する外交能力がゼロだということを露呈した。

年齢を経ると、読書はしだいに「趣味的」なものになりやすい。わたしは趣味的な読書を提供したくない。できれば生き方や基本的な考え方について、根本的な問いを提供したいと思っている。

期待は甘えとほとんど同義語だ。

山崎さんは、「政治は監視の対象ではありますが、期待を持ち込む場所ではありません」と書いた。

期待、奇妙な言葉だ。期待するというのは、相手に何かを望むという意味だが、経済や政治は本来は「契約」で成立していて、そういった概念から無縁のはずだ。男が女に対して「甘い期待」を抱く、というのはごく自然なことだが、たとえば、営業が取引先に期待するのも、上司が部下に期待するのも、考えてみればおかしい。契約している場合を考えると理解しやすいが、契約を交わす双方には契約の履行があるだけで期待はない。

たとえば知事に立候補する場合、期限と数字を決めてその自治体の財政を改善させるというような約束をする候補者はいない。政治の主要な仕事とは失業を減らし雇用を増やすことだという説もあるが、具体的な数字を上げ、失業者をこのぐらいに減らし、これだけの雇用を創出します、という約束をする候補者もいない。
彼らが言うのは、「※※県を元気にする」とか「若者が夢を持てる県政」とか、わけのわからない曖昧な文句だけだ。だから人々は、首長や政治家に「期待」せざるをえない。

自分はこれだけのレベルの仕事をする、と私は作品を通じて常に宣言している。編集者や出版社、それに読者の信頼を失うわけにはいかないので、売れるかどうか、大勢に好まれるかどうかは別にして、質の高い作品を書き続けなければならない。期待なんかされたくない。今の日本では、期待は甘えとほとんど同義語だ。

その店が「満足」ではなく、「感動」を与えることができたとき、「リピート率」は飛躍的に上がるのだそうだ。

小説というのは、基本的にマイノリティを代弁するものだ。社会に受け入れられない人々の声にならない声を翻訳して、人間の精神の自由と社会の公正さを訴える、それが文学である。だから文学は回答を示すものではない。

わたしは何と呼ばれようとあまり気にしない。問題は呼称ではなく、積み重ねている仕事の質だからだ。

そして、現代は変化が激しいので、政治もビジネスも学問も、適応するためには、大量の情報をインプットして、ひんぱんに長い距離を移動し、大勢の人に会ってコミュニケーションを図る必要がある。

革命のファンファーレ 現代のお金と広告 – 西野亮廣

頑張れば報われる時代は終わり、変化しなければ生き残れない時代に、僕らは立ち会っている。
面白いじゃないか。

面白いよ、確かに。僕も努力をするのは好きだし、この世界で生き残っていけると思うし、失敗したってなんとかなると思っている。しかし皆がそうではないから。しかし皆のことより僕がこの世を生き抜くことをまず考える。皆のことも少しは一緒に考える。

彼は現在、頭頂部の毛が完全にない理由を「メルカリで売った」と言い張るが、

「お金」とは信用を数値化したものだ。

金のことを考えてしばらく経つが、ようやく少しずつ分かってきた。どうやら金とは信用であり信用はお金よりも大切である。金を集めるのでなく信用を集めていく。
ちょうど少し前に、ある案件を取ることができなかった、ということがあった。見積を出して結果、断られることは珍しいことではない(まれに返事がない場合もあるが、こういうのはこっちからお断り。こちらが信用できないんだから、信用の値であるところの金を受け取る必要もなし)。
村上龍の言う信用は、自分が信用されたいと思う人やこの人とは一緒に何かをやってみたい、と思う人に信用をされたいと思い、そうできるように行動することである。僕はその会社の方と話をして、面白そうだなと思った。あまり詳しく書くといけないが、打ち合わせの席で将来的にはティファナに工場をおくこともあるかもしれないし、そういう風にしていきたい。ということを言っていて、Tijuanaといえば、Manu ChaoのTelcome to Tijuanaで、まさか旅先で数日滞在したあの街の名前が10年以上経って仕事の中で話に上がるなんて。
ちょうどその時(今現在も)、会社が始まって以来の仕事量になっていて、そういう中で、見積の後で、内容が変わって作業が増えたことを理由に、金額を釣り上げた。それがいけなかった。
実際のところ、この仕事がなくなって、量的にホッとしたところもあって、特に困るわけじゃあないが、そういうことではななく、あの会社との、あの人との信頼関係を築いていけなかったことが、残念だった。断りのメールを受けた時は、すごく残念に感じて、ちくしょーと何度も心の中で言ったし、しばらく心の中にわだかまりとして残っていた。
アンカリングとか提案の仕方に問題があったという考えもできるが、僕としては、金に関するテクニックみたいのは正直小細工くらいのもので、実効性があるものもあるが、あまり関係ないと思っている。それよりも僕という人間に大きな信頼があれば、そういう小賢しいことを考えなくても済むのだから。
少しくらい忙しくなって、それはつまり少しずつ信頼を集めている事実でもあるとは思うが、それに胡座をかくことで、信頼なんて簡単に壊れるし、無視される。僕は僕のやり方を変えずに、やっていくのが一番正しいやり方だし、正しい進み方をしていくのだと、再確認した。
急いじゃあいけない、僕の場合には、長く仕事を一緒にやれることで信頼も強くない、定期的に金も産む。それを集めればいい。

問題は「何を言ったか?」でななく、「誰が言ったか」だ。

これも大事なポイントだ。

生存競争は「弱肉強食」でなく「適者生存だ」

そうなんだよ。

AV業界に明るい友人が言うには、現在「えんとつ町のプペル」をモジッた「ちん凸待ちのアナル」というAVの企画が進んでいるらしいが、

あなたの話はなぜ「通じない」のか – 山田ズーニー

相手の好きにさせ、愛想でもこびでもふりまいて、相手に好かれ、結果を出す。そういう世渡りをしている人は、飲み屋さんにだって、大企業にだって、たくさんいる。

こういうのが、自分で自覚しながらもやめられないし、やめる必要もないと思っているのだから、それは辛い。「それっぽく見せるのだけは得意」と言って伊達眼鏡をかけている男がいて、今思うと、こういう人の達成感や充実感はどういう体験からくるのだろうと、本当にどうでもいいことを思った。

彼らの志は高い。自分の思いで人や社会と関わることを目指している。

当たり前だと思うけど、一般的にはそんなことはない。

相手の失礼な態度に、怒り散らすか、自分の感情を殺すか、選択は二つにひとつではない。じっと黙る。目で訴える。誠意を持って、そういうことはしないでくれとお願いしてみる。

その場で、状況を整理して、きちんと話ができれば良いんだが、腹を立てていると、たとえ自分が正しくても、上手に話ができなくて、あとで一人になってから冷静に考えると、相手の間違っていることにはっきりと説明がつくのだが、なかなかうまくいかない。冷静でいるための訓練と、高い教養を持つこと。

オールド・テロリスト – 村上龍

希望の国のエクソダスを読んだ後にネットを見ていると、最新の小説オールド・テロリストは、希望の国のエクソダスの後の時間設定というのを見つけて。
昔の日本文学も面白いのだが、時代背景が古い。しかし日本人だから分かることは分かる。外国文学は、もちろん外国を舞台にしているし、ちょうど希望の国のエクソダスで、主人公のセキグチが言ったように、外国文学は外国のものだ。人間としての普遍的な話は変わらないが、食物や街の情景など想像が及ばない部分がある。
その点、現代の日本の作家が書く小説には、しっかりと入っていくことができる。もちろん現代のつまらない小説を読むなら昔の日本文学や外国文学を読んだ方が面白いというのが、たくさんあると思うけど、村上龍は最高だ。まだ読んでいない作品がたくさんあるから、読んでみようと思っている。

当然、五十四歳という年齢もある。昔のような気力や体力がないし、学習や訓練のための、時間という資源が残り少なくなっている。

まだ40だし、やれる、という気持ちがあるが、この先こういう状態になっていくだろうことは分かる。今のうちにやるべきことはやる。

独り者の男の年寄りほど、寂しい人間はこの世にいないんではないですか。哀れと言えば哀れでしょう。

つまり、わたしども、年齢に関係なく、外の世界、人々とともに、と申しますか、関係性の中で生きております。外の世界や人々に押しつぶされる、それこそが不幸というものの正体であり、何とか折り合いをつけながら生きていく状態を普通、外の世界や人々を従わせたり、関わり合って変化させ、利益を得るのが勝ちであり幸福、というような風潮もあるかと思うんですが、わたしは、年齢を経るにつれて勝ちとか幸福ではなくて、普通を選びたいと思うようになったんですね。何とか折り合いをつけながら生きていくということですが、そのことには実際、普通以上の価値があると、今は確信しております。価値や幸福を超えたものかも知れない。

子犬達の悲鳴は止んだかね

今の時代、人との付き合いが得意で上手という人間がいるのだろうか。苦ではないという人はいるだろう。他人とのコミュニケーションには多大な労力が必要だ。妻と娘がシアトルに入ってから、おれは他人と話すのがおっくうになり、他人が怖くなった時期もあった。コミュニケーションの能力がなくなったからではない。コミュニケーションに必要な労力、つまり心のエネルギーが足りなくなり、やがて枯渇したからだ。

この国のメディアは、なんて悪い人なんでしょうと、なんてかわいそうな人たちなんでしょうと言う2つのアプローチでしかニュースを作れない。何も対策を取らなかったら人間はどこまでも堕落して、どんな悪い事でもするという前提がない。

カツラギがおれのことをどう思っているのかは不明だが、性的な関係を持つと、何かが台無しになってしまうような気がして怖かった。

今は不安になるのが当然だと思うことが大切なのだ。

記者になったばかりのころ、先輩から聞いて知ったのだが、たとえば大手広告代理店の電通や、通信社の共同通信などもその母体は満州にあるらしい。

可愛いというのは、おれのことだろうか。幼児以来、そんなことを言われたことはない。外見も、感が方も、おれほど可愛くない男はいないはずだ。

昔懐かしいロックに、君が異邦人だったら周囲の人々の佇まいが奇妙でよそよそしくみえることだろう、という歌詞があった。

ナガタという男はそう言って、右手で髪の毛に触れながら、カツラギの太ももをちらりと見た。完璧に変態の目つきだった。

天国で遊んできた人間より、地獄であがいてきた人間のほうが言葉に力がある。

コクトー詩集 – ジャン・コクトー

詩の理解がまずいのか、翻訳の詩に違和感を感じるのか。いまひとつ心踊るものに出会えなかったが、ひとつだけ「さとり」という詩は良い詩だった。
日本の詩人の作品を読んでみよう。

朝のマルセーユ

フランスは、昔の同僚が広告賞に参加するということで、アムステルダムだかドイツのどこかの街からバスでカンヌに入ったように記憶している。そのあとニース(海沿いにカモメがたくさん飛んでいたのを覚えている)、マルセイユと移動した。マルセイユはヨットがたくさん止まる港があり、そこから階段を登ると列車の駅があったはずだ。駅でタバコを吸いながら持っていたラジオを聞いていると、なんとTAKESHI KITANOの声が聞こえてきて、電波が悪かったが確かにビートたけしがフランスのラジオ番組で話をしていて、高揚した。

黒奴(くろんぼ)

黒に奴でくろんぼと読ますんだから、今のpolitical correctness時代には強い言葉なのだろうか。

さとり
自分に不実をしてまでも
惚れたりするのはばからしい
それよりいっそ はいろうよ
さあ、はいろうよ、この見世(みせ)へ
ここなら正気をたがわずに
誰にも恋が出来るんだ

これが唯一

グレコ

別の詩のタイトルにも「ピカソに捧げるオード」だとか詩の中に「野獣(フォーブ)派と立体派(キュビスト)の間でというような一節が出てくるのだから、このグレコはエル・グレコのことであろう。コクトーは絵も書いていたようで、この表紙の絵はコクトーが描いたもの。

大富豪が実践しているお金の哲学 – 冨田和成

金のことを考える中で、興味を持って手に取ったが、いまひとつ。一般人はこうする、小金持ちはこう、大富豪は、こうみたいなことを並べていて、確かに的を得ているところもあると思ったが、人それぞれでしょう。
こういう本を手に取って、自分は一般人には属さないことに憧れを持ったりする人間が多いのか、周りを見ても金を持つことを目的としている人がちらほらいる。彼らと話をしていても、最近はものを買うときに値段をみなくなったとか、あれを買ったとか、そんな話ばかり。面白くも何ともない。もっと心踊る話を聞かせてくれ。

英語ができないビジネスマンはグローバルで相手にされませんのでその習得は当然だとして、それ以外にちゅごく後もスペイン語もできますといった日本人の大富豪に出会ったことがありません。<中略>大富豪は効率より効果を重んじます。

結果、結果と言う発想があさましい。その国の言葉で、その国の人々と話をする喜びを感じようとしないのだから。そしてそういう人がたくさん溢れていて、金を持ったものは勝ち組として振る舞い、金を持てなかったものは負け組として振る舞う。どちらも踊らされてるんだ。金じゃあないよ。
Spinna Billが歌ってるだろう。
「形あるものお望みなら、どうぞご自由に
気持ち高ぶるモノのため、生まれてきた」ってさ。

限りなく透明に近いブルー – 村上龍

いっとき村上龍の小説を何冊か読んだ。69、希望の国のエクソダス、コインロッカーズ・ベイビー、愛と幻想のファシズム。限りなく透明に近いブルーもその中に入っていたと思っていたが、読んでみても読んだのかどうだか曖昧な感じが続く。これだけ強烈な麻薬と乱交の描写が続いて、今読んでとてもびっくりした。
坂本龍一がこれを読んで、同じような体験をしているやつがいて、その体験を書いただけで、売れやがって気に入らないち思っていたが、その後にコンロッカーズ・ベイビーを読んで、こいつはすごい。と会ってみたいと村上龍にあってみて、すぐに友達になったという。youtubeを見ると実に仲が良さそうだった。

昔、絵の具のパレットを這とっているやつを殺したが鮮やかな紫色の体液が出た。その時パレットには紫と言う絵の具は出してなかったので小さな腹の中で赤と青が混じったのだろう腐ったパイナップルそっくりの匂い、と僕は思った。

腐ったパイナップルそっくりの匂い、混血のレイ子の脇からの甘い匂いをかぐ。

ものすごい音でミック・ジャガーが歌い始めた。ずいぶん昔の歌だ、タイム・イズ・オン・マイ・サイド。

ヨシヤマは何も答えずにマル・ウォルドロンをターンテーブルに載せた。

ケイは刺したコスモスをまた歯に挟んで抜き取り、スペインのダンサーみたいにテーブルに上がって尻を振る。青のストロボが天井で点滅し回転している。音楽はルイス・ボンファのゆったりとしたサンバ、ケイは濡れたコスモスに欲情して激しく体を震わせる。

肛門に貼り付けられたバンドエイドをそっと剝いでもモコは目を覚まさなかった。

モコのまたはヌルヌルしている。柔らかい上で拭いてやり、指を入れると裸の尻が浮いた。

黒人女の匂いは汗と一緒に僕にくっつき、それを嗅ぐと倒れそうになる。内臓が発酵してしまったような強烈な匂いだ。

体を離すそうとするが黒人女の体はグリスを塗った鋼鉄のようにヌルヌルして硬い。痛みに被さるように体の中心をきりもみされるような快感が下半身に起こる。渦を巻いて頭まで昇り詰める。足の指が焼ける程熱い。肩がブルブル震え始め、大声を出しそうになる。ジャマイカの原住民が好む血と油で煮つめたスープのようなものが喉の奥に詰まっていて、それを吐き出したいと思う。

ジャクソンの肛門は巨大でめくれ上がりまるで苺のようだと思う。

あなた何かを見よう見ようってしてるのよ、まるで記録しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さな子供みたいに。実際子供なんだわ、子供の時は何でも見ようってするでしょ?赤ちゃんは知らない人の目をじっと見て泣き出したり笑ったりするけど、今他人の目なんかじっと見たりしてごらんなさいよ、あっという間に気が狂うわ。

「あんたにそんなこと言う権利あるの? 一体何のつもりよ、結婚してないからとかそんなのじゃないは一体どうすればいいのよ、どうして欲しいわけ? 愛してるって言って欲しいの? そうなの? じゃあ言うわよ、でも体にだけは触らないで、そいでもういろいろ言うのやめてよ、お願いだから」

犬の吠声を聞きラジオをつけると、ヴァン・モリソンが歌っていたドミノという歌。

第一稿のタイトルは「限りになく透明に近いブルー」ではなく「クリトリスにバターを」というものであった。

羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇 – 芥川龍之介

羅生門、鼻、芋粥、蜘蛛の糸、杜子春、秋、河童が好みであった。全体的に短編だし、僕には文体に癖がないように感じて読みやすい。
話の並びがだいたい発表順になっているよう。最後の歯車の終わりはこういうものだ。「僕はもうこの先を書き続ける力を持っていない。こういう気もちの中に生きているのはなんとも言われない苦痛である。だれか僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」そして自殺。

ちなみに、この投稿の引用からは、音声入力を使ってみている。

人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、だれでも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬけることが出来ると、こんどはこっちでなんとな物足りないような心もちがする。少し誇張して言えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。

犍陀多(かんだた) 蜘蛛の糸に出てくるこの名前は、ドラクエIIIのあのカンダタの名前は、ここからきたのだ。

なに、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです。

大金持ちになればお世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、なんと言うありがたい志でしょう。何と言う健気な決心でしょう。

御免遊ばせ。

夫の酒臭い寝息に苦しまされて、ほとんど夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打っていた。

頁をはぐりながら、

当日は午(ひる)少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。

今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。

「チチニウイン」の電報を受けとり、

「河童橋」

たしか槍ヶ岳に行く途中に通ったな。

トックは自由恋愛家ですから、細君というものは持たないのです。

『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは内治の上にも及ぼしているのです。

『汝の悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。』

キネマ

最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないようにくらすことである。

哲学者マッグの書いた「阿呆の言葉」の中の何章か。

ゴリオ爺さん – バルザック

何年か前に友人との話の中に出てきて、興味をもって読んでみたが、すっかり忘れていて、これくらいの年になってきて経験が増えてくると、小説が実感を持って面白くなってくるようで、空き時間を見つけては本を手に取り、一気に読んだ。
フランスの話なので、慣習など親しみのないところはあり、希望の国のエクソダス二出てくる「カミュやジェネは優れた作家だと思う。だが、基本的におれたちのものではなくフランス人のものだ。」という言葉が思い出された。
翻訳された文章というものも、受け取り方が日本の小説とは変わってくるので、それも含めて外国の文学は、基本的には外国人のものと言って良いかもしれない。

 

こうした家具類がいかに古び、ひび割れ、腐り、がたがたし、虫食い、片端で、めっかちで、半身不随で息絶えだえであるかを説明しようと思えば、詳しい描写をしなければならないが、そうなればこの物語の進行をあまりにも遅らせるにちがいなく、そんなことはせっかちな人々が許してくれないだろう。

いかにも物語的な物言いに心が踊る。

 

もしかしたら、ほんとうの謙虚さとか弱さとか無関心から、すべてを耐え忍ぶ人間にたいして、あらゆることを耐え忍ばせるというのが人間の本性なのかもしれない。われわれは誰でも、誰か他の人間ないし何かあるものを犠牲にして、自分の力を見せびらかすことを好みはしないか?

 

彼女の憎しみは愛情に比例したのではなく、裏切られた期待に比例したのだ。人間の心は愛情の高みを登りつめると休息を見いだすが、憎しみの感情の急坂を下るときは、めったに止まらないものなのだ。

 

ただ彼女は、身近の人間はやたらと疑うくせに、どこの誰ともわからない相手には気を許す多くの人たちに似ていた。

 

「霧のせいですよ。庖丁でぶった切らなくちゃならないほどの」

 

ふたりして木の切株みたいに眠りこけてるんですよ

 

羊肉(マトン)の残りにじゃがいもをつけあわせ、焼き梨をだしてちょうだい。

食事に焼き梨が出てくるあたりが日本とは違っている。

 

公爵夫人はウージェーヌのほうを向き、男の頭のてっぺんから爪先までなめまわして、ぺちゃんこにし、ゼロの状態に返してしまうあの不遜な目つきで彼を見た。

 

「世間て恥知らずで意地が悪いのね」と、ようやく子爵夫人が言った。「何かの不幸がこちらの身にふりかかると、すぐ友だち顔してやってきて、そのことを知らせてくれ、短刀でこちらの心臓をぐりぐりえぐっておきながら、短刀の柄のすばらしさを自慢するひとが、いつだっているものなのね。さっそくもう皮肉を、嘲笑を浴びせられるなんて! そうよ、あたしも負けていないわ」

 

そうすればあなたにも、世間というものがどういうものか、つまりお人よしとペテン師の集まりだということがわかるでしょう。

 

おれの性格を知りたいかね? おれは、おれによくしてくれる人間とか、おれとうまが合う人間には親切な男だ。

 

だから正直者ってのは、共同の敵なのさ。しかし、正直者ってのはどんな人間だとおもうかね? パリでは、正直者とは黙りこんで、仲間入りするのを断る人間のことさ。

 

もうひとつ君に忠告させてもらうとだな、坊や、自分の言葉にも意見にもこだわるなってことだ。売ってくれという奴がいたら、売ってやるがいい。絶対に意見を変えないと言って自慢する男なんて、いつでもまっすぐ進むのを務めと考えているやつ、自分は絶対誤たないと信じこんでるばか者でね。原理なんてのはない、出来事があるだけだ。

 

便箋の匂いを嗅いだあとで、彼はつけ加えた。「なんていい匂いだ! あの子の指がこいつにさわったんですなあ!」

ここら辺からゴリオ爺さんの気持ち悪い描写が目立ってくる。

 

「ああ! それをわしにくださらんか」とゴリオ爺さんは言った。「なんですって! 娘が、わしのかわいいデルフィーヌが、そこに涙を流したって! 小さいとき泣いたことのなかったあの子が! ああ! 別のを買ってさしあげるから、それはもう着ないで、わしに置いていってくださらんか。」

 

わしはあの子たちに、病気だとは思われたくないんでな。舞踏会に行くのもやめて、わしの看病をするでしょうからな。ナジーが明日、自分の子供に接吻するみたいにわしに接吻してくれる。あの子の愛撫を受けたら、わしの病気も治りましょうて。

 

この女を所有してみて、ウージェーヌは自分が、それまでは彼女を欲求していたにすぎないことを悟った。幸福を味わった翌日になって、はじめて彼女を愛したのである。愛情とはあるいは、快楽にたいする感謝の念なのかもしれない。

 

実際、どうして偉大な感情が、みみっちくて、しみったれていて、浅薄な社会などと折り合って行けるだろうか?