風の歌を聴け – 村上春樹

それまで、村上といえば龍の方を読んでいて、春樹の方は手にとったことがなかったのだが、2006年から2008年の間にしていた世界一周の旅の中で、宿に置いてあったり、旅人と交換したり、古本屋で見つけたりして読み漁った。これまでに見かけなかった言葉選びや一風変わった比喩表現が面白かった。色彩を持たないなんたらと、騎士団なんたらは読んでいない。「鼠」やら「ジョニー・ウォーカー」やらに起こるファンタジーな出来事が好きになれない。文体が特に好きなので、「走ることについて語るときに僕の語ること」や「職業としての小説家」など新しい随筆も読んでいるし、その村上春樹節に声を出して笑ってしまうこともある。

もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。

「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」死んだ祖母はいつもそう言っていた。

鼠はそれっきり口をつぐむと、カウンターに載せた手の細い指をたき火にでもあたるような具合にひっくり返しながら何度も丹念に眺めた。

まるでロールシャッハ・テストにでも使われそうなその図柄は、僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げあっているように見えた。
僕がバーテンのジェイにそう言うと、彼はしばらくじっとそれを眺めてから、そう言えばそうだね、と気のなさそうに言った。
「何を象徴してるのかな?」僕はそう訊ねてみた。
「左の猿があんたで、右のがあたしだね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」
僕は感心してビールを飲んだ。

もちろん金持ちんなるには少しばかり頭が要るけどね、金持ちであり続けるためには何も要らない。人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ?」
<中略>
「でも結局はみんな死ぬ」僕は試しにそう言ってみた。
「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」
そのとおりだった。

週に一度、日曜日の午後、僕は電車とバスを乗り継いで医者の家に通い、コーヒー・ロールやアップルパイやパンケーキや蜜のついたクロワッサンを食べながら治療を受けた。一年ばかりの間だったが、おかげで僕は歯医者にまで通う羽目になった。

右の乳房の下に10円硬貨ほどのソースをこぼしたようなしみがあり、下腹部には細い陰毛が洪水の後の小川の水草のように気持ちよくはえ揃っている。

30分ばかりしてから急に誰かに会いたくなった。海ばかり見ていると人に会いたくなるし、人ばかり見てると海を見たくなる。変なもんさ。

オーケー、一曲目。これをただ黙って聞いてくれ。本当に良い曲だ。暑さなんて忘れちまう。ブルック・ベントン、「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」。

どんどんレコードをかける。クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、「フール・ストップ・ザ・レイン」、乗ってくれよ、ベイビー。

「リクエスト曲はビーチ・ボーイズの<カリフォルニア・ガールズ>、なつかしい曲だね。どうだい、これで検討はついた?」

彼女は疑り深そうに肯いてから立ち上がってレコード棚まで大股で歩き、よく訓練された犬のようにレコードを抱えて帰ってきた。

<ギャル・イン・キャリコ>の入ったマイルス・デイビス。

「ねえ、もしよかった一緒に食事しないか?」
彼女は伝票から目を離さずに首を降った。
「一人で食事するのが好きなの。」
「僕もそうさ。」
「そう?」
彼女は面倒臭そうに伝票を脇にやり、プレイヤーにハーパース・ビザールの新譜をのせて針を下ろした。
「じゃあ、なぜ誘うの?」
「たまには習慣を変えてみたいんだ。」
「一人で変えて。」

「もしもし、」と女が言った。それはまるで安定の悪いテーブルに薄いグラスをそっと載せるようなしゃべり方だった。「私のことを覚えてる?」

彼女は16歳で一文無しで寝る場所もなく、おまけに乳房さえ殆どなかったが、頭の良さそうな綺麗な目をしていた。

「今日は靴を磨かなくていいの?」
「夜中に磨くさ。歯と一緒にね。」

「きっとあんたに相談したがっているはずだよ」
「何故しない?」
「しづらいのさ。馬鹿にされそうな気がしてね。」
「馬鹿になんかしないよ。」
「そんな風に見えるのさ。昔からそんな気がしたよ。優しい子なのにね、あんたにはなんていうか、どっかに悟りきったような部分があるよ。…別に悪く言ってるんじゃない。」

エプロンをつけた30歳ばかりのいかにも貧血症といった感じの女が前かがみになって…

嘘をつくのはひどく嫌なことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく嘘をつき、しょっちゅう黙りこんでしまう。
しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない。

はっきりとした海の香りが感じられるあたりで倉庫街は途切れ、柳の並木も歯が抜けたように終わっていた。

私がこの三年間にベッドの上で学んだことは、どんなに惨めなことからでも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください – 井上達夫

モーリーがニコ生でモーリー・チャンネルというのをやっていた時に、ゲストでやってきた井上達夫氏の変わったあごひげと頭の良さそうなところに惹かれて買ったのだが、なかなか読む機会を得ず長く積ん読されていたのだが、年末に村本氏との朝生での発言などから開いてみた。

リベラリズムとは何か。リベラリズムには二つの歴史的起源があります。「啓蒙」と「寛容」です。
啓蒙主義とうのは、理性の重視ですね。理性によって、蒙を拓(ひら)く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動です。十八世紀にはフランスを中心にヨーロッパに広がり、フランス革命の推進力になったとされる。
寛容というのも、西欧の歴史の文脈から出てくる。宗教改革のあと、ヨーロッパは宗教戦争の時代を迎えました。大陸の方では三十年戦争、イギリスではピューリタン革命前後の宗教的内乱。<中略>それがウエストファリア条約でいちおう落ち着いた、というか棲み分けができた。その経験から出てきたのが寛容の伝統です。宗教が違い、価値観が違っても、共存しましょう、という。

これまでの寛容についての考え方では、人はすべての場合に寛容であるべきというわけではなく、不寛容な者には不寛容であるべきだ、とする。<中略>しかし、グレイは、不寛容な政治体制や文化に対しても、寛容であれ、という。

列に割り込んでくる奴がいる。お前には割り込みをしても文句がないんだよな?というのが僕の考えである。

カントの哲学は、理性批判でした。理性というのは、理性にできることの限界を越えて、勝手なことをやりはじめる欲望を内包している。それが「形而上学」だ、と。

自分が「忌まわしい」と思っている深淵に従って生きている連中がいて、嫌な奴だと思うが、まあ許してやる。もっと言えば、「本当は殺したいけど我慢する」、その代わり、そいつらが自分の生き方や信念に文句をつけたり干渉してくることは絶対許さない。互いに相手の蛸壺に介入するのを自制することで、自分の蛸壺のなかでは唯我独尊を守って共存する。そういうニュアンスが「トレランス(tolerance)」という言葉になくはない。
日本語の「寛容」は、それとは違いますね。寛(ひろ)く、容れる、ですから。この意味での英語は、むしろ「オープン・マインデッド」です。
自分と視点を異にする他者に対し、自分に文句をつけてこない限り、「嫌な奴だけど我慢してやる」ではなくて、そういう他者からの異議申し立てや、その撹乱(かくらん)的な影響に対し、それを前向きに受け入れる。それは自分のアイデンティティを危うくする恐れもあるけれど、あえて引き受けよう、という度量ですね。それによって自分が変容し自分の精神の地平が少し広がっていくかもしれない。
それこそが、寛容のポジだと、私は思います。

朝生なんか見てると、このポジを持っている様には見えないが、まああれはテレビショーで、あれだけで人を判断するのはよくないが、本当は殺したいけど、というような強い表現が出てくる。こいつを殺してやりたいというような気持ちにはならない。関わらないことにしようという気持ちになるだけ。やや強すぎる表現では?
寛容でありたいとは思うし、嫌いでない人間の話は聞く様に努めようと、今また思うが、やはり嫌いな人間の話まで肯定的に聞くのは簡単ではない。気持ちが出ちゃうからね。でも、寛容を思い出せるくらいの理性は残しておきたい。

つまり、自分は自分だから、他者より優遇されるべきだ、とか。自分の国だから特権的にあつかわれるべきだ、あるいは、自分の子供だから特権的にあつかわれるべきだ、とか。
そういう、当事者の個体的な同一性のみが理由になっている差別は、普遍化できない。
普遍化できない差別は、排除されなければいけない。これが、どの正義の構想も制約される、共通の正義概念の要請です。

いくら集合化された理性とか、長い歴史に裏打ちされたとかいっても、たとえば、カースト制はいいのか、と。
たしかに、カースト制にしろ、それが長く続くことで社会システムん安定化があるだろう。そして、その安定が失われると、確かにある弊害が生じるのかもしれない。しかし、それらはつねに批判的に吟味していく必要があると思う。

天皇制しかり、王制しかり。賛成派の寛容が必要にあるが、途方もない道のりを感じる。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

芦田修正によれば、「前項の目的を達するため」の一文があるので、自衛軍を持つことはできるのだとか、この一文では欺瞞が残るなど、言葉の解釈でどちらとも取れる話を聞いていると、どちらにも頷けてしまう。

句読点の位置が、読みづらさを生む感じがする。難しい言葉を並べてしまうのは、頭の良い人の悪いところか。その言葉を使わないと説明できないのか。いや、僕が言葉をしらないだけなのだ。

ゼロ秒思考 – 赤羽雄二

ふっくらボリサット氏の「お金は人を変えてしまうのか」という漫画に本の題名が出てきて。

あるトッピクを決めて、A4用紙に思うこと、考えること、対策などをメモ書きしいていくことを勧めている。1分という時間を決めて。
1.これにより頭を活性化させること、2.頭や心に在り続ける事柄を一度整理できる というのだ。

どうも自己啓発系の書籍には、胡散臭さを感じてというか、そういうものに俺は頼らなくても十分にやれているから、という考えが前に立ち、手に取ることはしないのだが、こいつからはすぐに反応が見られた。これは啓発というよりは、実勢による気づきと呼ぶべきだろう。

2番目の効果が僕には非常に大きく感じて、例えば気に入らない体験をすると、事柄によっては、そのことを何日も何日も考え続けることになり、しかも書籍に書いてあるように、その問題について大した深堀ができるわけでなく、同じところでグルグルまわっているだけ、ということがよくあって、そういう状態というのは、常にストレスを抱えている状態なので、どこかパッとしないことになる。
ところがメモ書きをはじめてすぐに、「あ、軽くなってるぞ」というのを実感できたのだ。
1分の間に、とにかく吐き出すので、初めは鉛筆を使っていたのだが、紙と擦れて鉛を紙の繊維に落としていくため、その摩擦分の時間がもったいないので、これまで書類のサイン様に使っていたLamyの万年筆を使うことにした。これがまた良くて、カリカリ々々々々と毎日10枚を書いている。
1日10枚も書いていると、これまでモヤモヤしていた日常の中での(多くの場合は人や社会との摩擦により生じる)しこりは、なくなっていて「良いデザインとは?」とか「◯◯の案件のデザインが上手くいっているが、その理由は?」とか自分の考えを深めて、まとめることができる。こういう風に深く考えられるトピックをきちんと用意しようという考えが出てくる。もちろん嫌なことがあれば、それについてメモ書きすることで、心と頭が落ち着き、すっきりとする。

この前、ちょうど最近うまくいっていない。たぶん子育てがあったり、一人になる時間が少ないのが原因っぽい気がするけど。ということを言っている友人がいたので、勧めてみたが、どうだろうな。彼に効果があるだろうか。啓発っぽくて怪しまれても嫌だけど、上手くいっているといいなあ。

編集王1 – 土田世紀

ちょうど編集社で働いている時か、博報堂に入った頃に読んだのだろうか。
主人公の熱すぎる仕事への取り組みが、見ていると過剰にも思えるが、僕の態度もある人にとっては過剰であろうし、多くの人は自分を殺して、あわよくば楽に金を稼ぎたいというように見える。金のことを言うのは、ようするにお前ら金に心を売るんだな、ということだ。そこまでして稼ぎたいのかと。

深夜特急3 インド・ネパール – 沢木耕太郎

セールの期間中にKEY BOOKSの本棚を見ていて、無性に読みたくなった。
インドへは4度訪れていて、合計で6ヶ月以上を過ごしていて、ネパールは2度、1ヶ月ほど。訪れた回数や時間は、その場所を身近に感じさせるもので、インドは日本とタイに続く慣れ親しんだ場所だ。

着いたとたんに見知らぬ人から声を掛けられ、いつの間にか車に乗ることになってしまい、どこをどう走っているのかもわからないまま宿に向かう。そして、公司とか大廈とかいった漢字の看板が林立する香港の街の中を走った時も、不安とは別に体の奥底から湧き上がってくる興奮を抑えきれなかったが、今またその派手で賑やかな街とは打って変わったくらい街の中で同じような興奮を覚えている。

デリーの空港にひとり降り立ったのは、夜だった。何もかもが初めてでビクビクしていた。運良く2人組の日本人を見つけて声を掛けたのだと思う。ひょっとすると掛けられたのかもしれない。空港の外にはタクシーのドライバーなのか、人を待っているのか、それにしてはずいぶんとたくさんの人がいた。周りは暗く、目だけがギョロギョロと白く光っていた。

仕事を始めてからは海外に出ることがなくなった。金も貯めたかったし、何よりやることがたくさんあった。数年働いて、余裕が出てからモロッコを訪れた。パリのシャルル・ドゴール空港を経由して、カサブランカまで。はじめてのアフリカ大陸だった。この時も到着は深夜だったように記憶している。空港を出るとジュラバと呼ばれるねずみ男のような服を来たドライバーに車に誘導された。タクシーはベンツだった。初めての土地だし、真っ暗だったし、空港で眠ることも考えたが、日本からの長い々々フライトで疲れていたので、「ええい、ままよ」と身を任せた。

そして、ポーターが案内してくれた部屋を見て、それはほとんど尊敬の念に近いものにまでなってしまった。
部屋に足を踏み入れたとたん、私は思わず声を出してしまった。
「凄いじゃないか!」
それは実に豪華な部屋だった。

3度目のインド。3ヶ月のインド、ネパールの旅の最後にカトマンドゥからカルカッタ行きの飛行機が遅れたか決行したかで、豪華なホテルを当てがわれた。これまでの旅を思うと信じられないような待遇であった。友人3人とプールではしゃいだ。

路地を抜け、少し広い道に出た。人通りがほとんどないため、差し込んできた陽の光にミルク色の朝靄が薄く色づきはじめる様がはっきりと見とおせるその道には、しかし、無数のカラスが我がもの顔にうろついていた。

サダルストリートには本当にカラスが多かった。カルカッタは好きな街で、はじめてのバックパックの時には、バンコク〜デリー〜アグラ〜バラナシ〜ポカラ〜カトマンドゥ、そしてカルカッタと1ヶ月を旅してきて、もう旅には慣れていた。毎日カレーばかりで飽き飽きしていた。おいしそうなパン屋を見つけたが、パンもピザカレーパンなど結局カレー味だった。当時カルカッタにはサトシと名乗る流暢な日本語をはなすインドの男がいて、彼が発した「もう商売火の車やねん」の言葉は忘れない。と調べてみるとyoutube動画にサトシ氏の姿があった。

「ここはなんというホテルなの?」
「サルベーション・アーミー、ホテルじゃない」
サルベーション・アーミー、つまり救世軍だ。

カルカッタを訪れた2度ともここを使った。吹き抜けのスペースがあって居心地が良かった。1度目はドミトリーのルームメイトが4人全て日本人だった。そういう風に配慮しているのかもしれない。

その男の顔にはいかにもブローカー風の卑しさのようなものがにじみ出ていた。

ふと原くんという男のことを思い出した。2度目のインドはゴアで知り合い、日本へ戻ると彼はハシシをいくらか日本へ持って帰ったらしく、その欠片を封筒に入れて僕の家に送ってよこしたのだ。嬉しくもあったが、やや神経を疑わざるをえんだろう。そして3度目のインドで再びゴアで再開。モヒカンになって少し様子が変わり、お互いの間にできる空気は前とは変わっていた。

また、近くにはニュー・マーケットというバザール風の一大商店街があり、そこに行けば日用雑貨はもちろんのこと、土産ものから禁制品まで手に入らないものはなかった。

おそらくこのマーケットの近くに映画館があり、そこでジャッキー・チェンの「Who Am I」を観た。インド人は大盛り上がりであったし、僕ともう一人の友人も大興奮で、映画館を出た後しばらくはカンフーのポーズをとって遊んだ。

薄暗い店だった。中に入ると、奥の帳場には眼つきの鋭い大柄の男が座っていた。

バラナシでガンジャを調達しようとしていた。ガンジス川沿いの怪しいレンガ造りの部屋に連れて行かれると、男と言い合いになり、僕は柄にもなく大声を出していた。いつもはやんちゃ度の強い友人が僕を間に入って僕とインド人をなだめた。結局あの男からは買わなかったのかもしれない。

一枚一枚ていねいに調べていくと、途方もなく汚れ、破れた五ルピー札が一枚混じっているのが見つかった。換えてくれと頼むと、これで使えると頑張る。それなら自分で使えばいい、俺はいらないと断固主張しても、相手も一歩も引こうとしない。

インドの汚い札は本当に汚れているし、破れて元の大きさの半分くらいになっているようなものもあった。ああいう経験が、僕の世界を広げたのではと思ったりする。これで良いのか。結局、何でもありだな、とあの頃よく思ったものだ。

私は香港以来の熱狂に見舞われ、毎日カルカッタの街をうろつき廻った。

あれは確かカルカッタでの事だったか、すり減った靴底のティンバーランドを丸ごと張り替えてもらった。もともとは良い靴だったが、少しツルツルと滑る素材で歩き慣れるまで少し時間が必要だったが、こういう体験が面白かった。

カルカッタにはすべてがあった。悲惨なものもあれば、滑稽なものもあり、崇高なものもあれば、卑小なものもあった。だが、それらのすべてが私にはなつかしく、あえていえば、心地よいものだった。

噂に聞くインドの三等とは、実際どのくらい混むものか、乗る前にいちど駅で確かめておきたかった。

はじめてのインドでアグラからバラナシへ向かう列車は最悪で、今思えば小さな不条理の洗礼を受けた。寝台の座席を予約したのだが、僕の席にはすでに老人男性が腰を下ろしている。ここは僕の席のはずとチケットを見せると、彼の番号もこの席だった。どちらが悪いわけでもなく、おそらくは僕がニセのチケットをつかまされたのだろう。まだまだ幼く甘さの目立った僕は、その事実に腹を立てて、老人に冷たく接していた。仕方なく席を半分ずつにして眠った翌朝、彼は僕に1杯のチャイをご馳走してくれた。

その初めての寝台列車で、すごかったのはインド人たちの熱い視線だ。夜は暗いし気にならなかったが、日本人が珍しいのか日中になると車内のインド人全員が僕を見た。ちらっと見るとかそういうのでなく、じーっと見ているのだ。負けじとこちらも見返して、目をそらしてもらうとするが、そんなことはお構いまし、いつまでもいつまでもずーっと見つめられていて、これには参った。

私が答えると、車夫は問題にならないといように顔をしかめ、チャロ、と低く呟いた。

チェロとかアーチャ、YESの時に首をかしげる仕草。

ブッダガヤにいる時、いまインドでは『ボビー』という映画がヒット中だと聞かされた。

インドの映画は有名だったので、ものは試しとアグラで一日中ついていてくれたリキシャーに頼んでインド映画へ連れて行ってもらった。内容は覚えていないし、面白く感じた覚えもないのだが、僕から見ればいくらか大げさに反応をしめすインド人たちを見れてよかったし、本来映画はああやってみたっていいものだよな。途中休憩があって、後半へ続くという仕組みにも驚かされ、僕は後半はパスをさせてもらった。

英語やフランス語やたぶん中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない言葉が三つあるが、それが何かわかるか。私が首を振ると、キャロラインが教えてくれた。
「ありがとう、すみません、どうぞ、の三つよ」

途中でいちど乗り換え、ネパールとの国境の街であるラクソールについたのが夜の九時。

僕が覚えているのはスノウリという国境の街。これはネパール側の街だろうか。国境を越えるだけで驚くほどに様子が変わった。人々はやさしく笑顔になり、食堂ではビートルズが流れて、ビールを出していた。わずか2週間ほどのインドで相当に疲れていた。

それはネパールの風景が僕たち日本人にとってはごく親しいものであったからかもしれません。

スノウリからポカラまでのバスがまた苛酷であった。晴れた日には、ポカラにあるジャーマンベーカリーというパン屋から雄大なマウント・マナスル、アンナプルナがくっきりと見えた。それはそれは大きく、青い山だった。

1泊山の上で泊まるだけという、簡単なトレッキングへ行った。サンダルでも登れてしまうような、そんなトレッキング。山小屋は本当に真っ暗で、小屋の中でネパール人とハシシを吸っていると、そいつが悪い奴に思え、何かされるのではという妄想にかられ、眠るしか無くなってしまった。

戻って挨拶をしようかと思ったが、こんなところはもういやだ、と叫んでいた彼より先に自分が出て行ってしまう事を考えると、顔を合わせるのが辛かった。それに、別れの挨拶と勘定は前夜のうちに済ませてあった。

思い切り手足が伸ばせる幸せを味わいながら、甲板に座ってチャイを飲み、河を渡る風に吹かれていると、カトマンズからの三十時間に及ぶ強行軍が、もうすでに楽しかったものと思えてきそうになる。なんと心地よいのだろう

三十時間とか三十六時間とかいう移動時間があるのだから、初めの頃は驚いた。それも含めて全部旅になったのだから、慣れというのは頼もしい。

しかし、私がベナレスに立ち寄ることにしたのは、ヒンドゥーの聖地としてんベナレスに関心があったからではなく、ベナレスという町がカルカッタに匹敵するほどの、猥雑さと喧騒ん満ちた町だと聞いたからだった。

インドの町の名前はこの深夜特急の頃から、そして僕が旅をしていたころから、そして今といくつか変わっている。ベナレスはバラナシ、ボンベイはムンバイ、カルカッタはコルカタなど。名前の響きか僕にとっての場所になっているので、僕にとってバラナシはバラナシであり、ボンベイはボンベイで、カルカッタはカルカッタなのだ。

私もリキシャに関しては狡(ずる)くなってきた。

狡猾という言葉をポジティブに使う人がいるが、この文字は狡いという言葉である。狡い相手には狡くやらないといけないのだが、僕は自分の誇りのために、自分のために生きる。

通りすがりの一軒の店にふらりと入ると、大衆食堂風の造りにもかかわらず、何も言わないうちから英語のメニューが出てきた。ベナレスは、聖地であるとともに、やはり観光地でもあるようだった。

バラナシの路地を歩いていると、軒を連ねる一軒の家の窓が空いていて、少年がファミコンのスーパーマリオをプレイしているのが見えた。声をかけて、ひとつやらせてみてくれ、とコントローラーを握らせてもらった。スーパーマリオブラザーズ 1−1。完璧な動きで旗を切って見せてやった。フロム・ジャパーン。

女はまずサリーを身につけたまま河に入り、口をすすぐ。ガンジス河は雨季の水を集めてかなりの速さで流れている。女が頭にかかっていたサリーをはずすと、そこに美しい銀髪が現れる。老婦人だったのだ。次に老婦人は、濁った水の中に、肩まで身を沈ませる。一度、二度、三度…。するとサリーはぴったりと体にはりつき、体の線をくっきりと浮き立たせる。老婦人ゆえの不思議ななまめかしさに息を呑む思いがする。

このなまめかしさが頭に浮かぶ。サリーの布地が水を含み体にまとわりつく感じ。年を重ねるごとに、自分と同じくらいまたはそれよりも上の女性に魅力を感じるようになった。この先きっと50代60代の女性になまめかしさを感じていくことになるだろう。楽しみだ。未だに若い女が良いと言っている男たちが多くいるようだが、なんて子供なんだろう。

ベナレスには野良の猿がいて、あちこち自由に歩いては悪戯(いたずら)をしているということだった。

バラナシで泊まった宿で、夕方の屋上にあがると猿が見られた。ハンピにもたくさんの猿がいたな。ハンピで知り合ったヴォヤンという当時のユーゴ人にかっこよさを感じて、今デザイナーという職業についているようなところがある。

やがて出てきたカレーを手で食べていると、主人が近づいてきて、どうしてスプーンを使わないのだ、と不思議そうに訊ねてきた。「ここがインドだからさ」私がいうと、彼はさも嬉しそうに笑って、そうかヒア・イズ・インディアか、と二度ほど繰り返して調理場へ入っていった。

こういうのがいいんだと思うんだ。どこかのバカがタイでの接客を「僕は説教しますよ」とか言っていたけど、なら日本に居ろよ。似合ってるぜ。

しかし、この近辺に都合よくブルドーザーなどがあるとは思えない。そのうえ、隣の乗客に訊ねると、カジュラホへ行くにはこの道しかないという。残る道はサトナに引き返すことしかない。もうどうにでもなれ、と私はなかば自棄(やけ)になって目を閉じた。

同じように、もうどうにでもなれ、と自棄になって目を閉じたことがある。東欧特有の曇った空と、彼らの険しく見える顔つきや、その前にブルガリアで見ていたサッカー場でボコボコに殴られた日本人の顔や、エストニアで聞いたアジア人差別の話、それにポーランドで公園でスケッチをしていると足元にドサッと何かが落ちてくる。上を見上げるが何もなく、スケッチを続けると、またドサッと。周りをみると、ずいぶん遠くの方にまだ中学生か高校生くらいの3〜4人のグループがこちらに石だか木の実を投げてきていた。グルジアからトルコの国境に向かう列車は、待てど暮らせどやって来ない。駅員がこれだという列車は駅に入ってくるとスピードを緩めたが、停車することなく、窓から飛び乗った。車内は埃が舞い、そんな中でも一応自分の番号の席まで移動して、飯も水もなく、長い移動。疲れていた。もうどうにでもなれ、と自棄になって目を閉じた。

インベスターZ – 三田紀房

今の所、大規模なサイト制作や大手企業からの注文があるわけではないので、会社の売り上げが急激に伸びるようなことはない。
じっくり一歩ずつ進んでいくのが大事だし、結局のところ、僕はそういう生き方をしているし、そういう成長のしかたが好きなのだが、早いところ、大金をつかんでしまいたい、という思いがないわけでもない。

そんな折に、投資の話が書いてある漫画ということで、まず1巻だけを読んでみた。
1巻だけなので、これからというところであろうが、投資についてはしばらくは置いておこうと思う。
まずは会社の売り上げを今よりも高い位置で安定させる。それからでも良いだろう。

ツイッターを見ていると、Valuが流行れば、周りの良く考えもしない者たちが「Valuが、Valuを」など言ってやっていたようだが、すぐにその話題には触れなくなり、ビットコインが儲かるらしいと聞けば、同じように「ビットコインを、ビットコインで」と踊っている。つい先日には、ビットコインの暴落があったようで、ヒーヒーって言っている。「สมน้ำหน้า」と言っておこう。

もちろんValuやビットコインで人生を良い方向に向けている人もいるのだろうが、その他流行っているからやっている奴らは、自分のやりたいことをよく考えたほうがいいのでは、と余計な々々々ことを思ってしまう。

1度だけの短い人生の時間を何に使うか、僕は良く、なんども考えていくことにする。
大金は欲しいが、1度だけの短い人生の目的を金にするのは、僕の人生には向いていない。
しかし、金によだれを垂らしている意地汚いやつらの吠え面を拝むためにも、自分の充実のために人生を送っているやつらが、そいういう生き方をしていても大金が手に入るんだということを見せるために、僕は大金も掴む。

吾輩は猫である – 夏目漱石

草枕、門が面白くて、有名な一冊を読んでみようと手に取ったが、思っていたよりも長くて、出来事が退屈なもので、途中を飛ばしてどんどんと読んでいくことになった。

「それじゃ、どんなものをやったんです」
「せんだっては近松の心中物をやりました」
「近松? あの浄瑠璃の近松ですか」
近松に二人はいない。近松といえば戯曲家の近松にきまっている。それを聞き直す主人はよほど愚だと思っていると、主人はなんにもわからずに吾輩の頭を叮嚀(ていねい)に撫でている。

こんな調子で、頭から終わりまで、人間の愚かしいところを吾輩の視点で見せていくわけだけど、刺激が物足りない思いがずっと続いていた。

面白かったのは、次のような言葉遊び。

「Do you see the boyか。ーなに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭いことを言わずに、引き上げてくれたまえな。死ぬか生きるかという場合だ。しばらく、しばらくって花道から馳け出してくるところだよ」

はじめの「Do you see the boy」は注釈によると「ずうずうしいぜ、おい」の音をふざけて英語化したものとあるが、こんなの当時の人はどうやって解するわけ?同じように注釈がついていたのかな。
太宰治はグッド・バイで「おそれいりまめ」という表現を使っていて、母親が言っていたような、どこかで聞いたことのあるようなダジャレだが、物書きはこういう風に笑いをいれられるのが、絵画やデザインのそれとは違っていて、実に面白い。

正直不動産 1 – 大谷アキラ

twitterのタイムラインか何かで流れてきたのが気になってkindleにて。

タイの不動産業では、日本のように、宅地建物取引業免許や宅地建物取引主任者などの資格が必要ない。ある不動産会社で仕事をしているうちに、自分でやった方が儲かるぞと考えて独立した、と話していた社長を知っている。
営業でいい成績をあげているし、同僚もいい働きをしている。それにしては、給料はそれほど上がらず、社長だけがおいしい思いをしやがって、という考えが出てくるのは当然だ。
そういう独立精神みたいなものは良いとして、やはり動機が金という側面が強くなっていくのであろう。

人に物件を探すことが喜びです、という喜びがあっても良いけど、多くはネットで探せるわけで。特にタイの場合には土地や言葉に慣れていない人が相手である。先の理由から、自分でやりたいと考える人であれば、どちらかと言えばやりやすい仕事だし、他との差別化が難しい。

この漫画のような話は、不動産業にかかわらず多かれ少なかれあるわけで、特に不動産業が悪いとは言わない。ただ、誠実さを欠くことを簡単にやれてしまったり、やる回数が多くなると、次には誠実でないことをやることに抵抗がなくなってきて、そういう人間になっていく。こちらから聞いてもいないのに、住んでいるコンドミニアムがいくらだとか、所有している物が◯◯のブランドでいくらする。そういうどうでも良いことを聞かされるとうんざりする。

ラストワルツ – 村上龍

「才能がないんて思ったらダメだ。そっちの方が楽なんだから」
みたいな村上龍の歯切れの良い物言いが好きで、希望の国のエクソダスに続いてエッセイを読んだ。KEY BOOKSの半額セールで棚に見つけて手を取った。

人はどう生きるべきかという、有名で、重要とされている問いがある。多くの文学でテーマになっているし、その問いを軸にして、文芸批評が書かれたり、あるいは、政治や経済といった大きなファクターを決めたり、政策を選んだりするときの指標となることもある。どう生きるべきか、という問いは、わたしたちの社会では、おもに精神論で語られることが多い。人に優しくとか、思いやりを持ってとか、弱きを助けるとか、自立して他人に依存しないとか、そういったことだ。
わたしは、生まれてからこれまで、「どう生きるべきか」などと考えたことはないし、今も考えない。わたしが子どものころから考えてきたのは、「どうやって生きていくか」ということだった。つまり、何をして食っていくか、という具体的で切実な問いだった。

わたしのどこかに「住まわせていただいている」というような奇妙で本質的なエクスキューズのようなものがある。

タイに住ませてもらっている、ということを思う。しかしそれにとらわれすぎると消極的になりかねないので、貢献をすることでチャラにしてもらうのだ、というやや傲慢と言って良いのかもしれない気持ちもある。どこまで言ってもタイ人ではないので、自分の国ではないところに住んでいること。そういう国という考えを抜きにしても、他人と共存していることで幾分謙虚になることは必要なことかもしれない。

社会全体が老化しているわけだが、先進国というのはだいたいそういうものだ。ただ、62歳の作家にとって、良いこともある。総体的に、若い男たちには経済力がなく、刺激的な経験も乏しく、話も面白くないので、消去法的に、おじさんにいといろなチャンスが回ってくる。その現象は、とても興味深く、かつありがたいことだと素直に喜んでいる。

日本のポップスは脳が腐るので絶対に聞かないし、世界的なムーブメントとなり得るようなポップスはもう存在しない。

こういう村上龍節が僕の人間形成にいくらか影響を及ぼしているはず。それは僕がこれからも大事にしていきたいことである。

今年、62歳になった。この歳になると、友人や知人がシリアスな病に罹ることが増えてくる。そのことを思うと、他の、たとえば、集団的自衛権や、イスラエルのガザ侵攻、それにウクライナ問題などを考えるのがとてもむずかしい。どうでもいいというわけではないが、それより切実な問題として友人たちの病のことがずっとうごめいている。

ロヒンギャや憲法9条改正など、多くの問題があるが、そういう問題を継続してニュースを追ったり考えたり続けることができない。それよりも僕の生活に直結したデザインやウェブの情報、それに絵画や音楽に時間を使ってしまうからだ。ようするに僕はデザインや芸術や音楽が好きで、政治が好きなやつが政治家になるわけで、政治も野球ファンと変わらないじゃないかと言った高橋ヨシキの言っていたことに共感する。だからって困っている人がどうなっても構わないと思っているわけじゃあないんだ。

今の子どもたちにとって、写真は、紙のアルバムのページを「めくる」という体験がない場合が多いと、ITの専門家に聞いた。今の子どもたちにとって、写真は、紙のアルバムではなくタブレット型端末やスマートフォンにおさめられているもので、「めくる」のではなく、モニタ画面をタップしたりフリックしたりスワイプしながら眺めるものらしい。そんな些細なことが精神形成と関係があるのかと言われそうだが、実は、人間の精神性というのは、そういった遊びを通した操作経験の集積によって形作られるという指摘もある。

一般的に、「本や雑誌が売れない」という状況が続いているらしい。友人編集者たちがよく言うのが、「占い、ダイエットなど健康、自己啓発本、食べ物など、どちらかといえばどうでもいいものがベストセラーになることが増えた」みたいなことだ。そんな一種の愚痴には「下らないものばかりが売れるイヤな時代」というようなニュアンスが含まれている気がする。

フェイスブックや個人のブログには、昨日誰と何を食べたという書き込みがあふれている。わたしは、あの食い物に関する書き込みをみると吐き気がする。

誰もが生きていかなければならないのだ。たとえ水商売だろうが、風俗だろうが、何とかサバイバルしている人はバカになんかできない。子賢しく立ち回ってずるく金を稼ぐ、質の悪い連中が他に大勢いる。

だが、まったく我慢しない、我慢できない人は、社会生活ができないだろう。結婚も無理かも知れないし、恋愛もできないかも知れない。

一日に8時間も楽器の練習をするのは簡単ではない。そんなトレーニングを続けたミュージシャンだけが、トップバンドから誘われる。才能とはそういうものだ。つまり、一日8時間の練習を何年も続けることができる、それが才能で、それ以外、才能というものは存在しない。

存在しない!

それは感傷を生む。わたしは感傷が何よりも苦手だ。それは、わたしが人一倍感傷にとらわれやすい性格で、それがいやだからだと思う。

先日小学校の同窓会の誘いがあった。バンコクにいるので、当然参加はしなかったのだが、当時の担任の先生とメールのやりとりをすることになった。かなりセンチメンタルな気分になり、メールは1往復でやめることにした。感傷的になって、安住するのを恐れたのだ。といって、同窓会やそれをやっている人が良くないと言っているのでは決してない。

希望の国のエクソダス – 村上龍

村上龍の小説の中で、ゼロという男が言う「結果を出した広告だけが優れた広告で、それ以外の広告には意味がない」みたいなことを言う場面をもう一度読みたくて手に取ったのだが、読み始めてすぐにこの本ではないということに気づいた。
大学の頃に1度、デザイナーになってからしばらくしてもう1度読んだような記憶がある。
デザイナーとして広告を扱っている中で、先に挙げた言葉が強く印象に残った。
あの台詞の出てくる小説は「愛と幻想のファシズム」だったようだ。

読み始めると若者の孤独や高齢化社会、考え方に甘さのある日本人などなど今まさに起きている問題や変わらぬ問題があり、グイグイと話の中に引き込まれて、仕事の合間に時間をつくってはページをめくった。
1998年から2000年に連載されていた作品のようで、調べてみると、それは村上龍が46歳から48歳の時でだった。

もしいやでなければ最後に何か日本語を喋ってくれないか? 記者に頼まれて、少年は、ナマムギ・ナマゴメ・ナマタマゴ、と少し笑みを浮かべながら、言った。どんな意味の言葉なのか、と記者が聞いたが、少年は再び印象的な微笑みを浮かべただけで、答えなかった。CNNの記者をバカにしているような、お前は何もわかっていないというような、侮辱的な微笑みだった。

おれは決して熱心な読者ではなかったがカミュやジュネは優れた作家だと思う。だが、基本的におれたちのものではなくフランス人のものだ。編集長はまるで自分のもののようにカミュやジュネを語る。

メディアに限らずこの国では集団の内側にいないと必ず嫌われる。

おれは由美子が経済にとり憑かれたことが別にいやではなかった。自分のからだに宿った生命の代償として、ある体系的な学問に興味を持つのは理解できないわけではないし、堕胎というリアルな現実に直面してファッションというコマーシャルな世界に疑問を持ったのも何となくわかる気がした。それが正しいかどうか、そんなことはどうでもいいと思う。彼女にとって、それは必要なことだったのだ。それに、経済の学徒になったからといって由美子が変わったわけではない。

その人物は今年の初めにインタビューした日本人のバレエダンサーだった。ロンドンの有名なバレエ団で活躍するダンサーで、「いろいろと大変でしょう」とおれは最初に聞いて、彼女を不機嫌にさせてしまった。別に大変じゃありません、と彼女は言った。言葉を覚えたり、食事になれたり、他のダンサーや振り付け師に受け入れられるまでは大変ですが、そのあとは普通にやっています。普通にやっていけるようになるまでが大変なんです。そのことは日本人にはわかりくいと思います。ロンドンにも多くの日本人がいますがそのほとんどは日本を背負ったままです。日本を背負わすに向こうの生活に馴染めば、普通に暮らせるようになります。

バンコクにいてもその多くは日本を背負ってというのか、引きずっている。やれタイの食事は飽きるとか、タイ語は難しいとか前置きをしているが、見ていて嫌になる。もう10年もいるというのに、タイ文字も読めずにどういうつもりなのだろう。他の例えばフランスとかロシアとか言う国で、その国の言葉も、まして英語も話せずにやっていくことができるんだろうか?親日国でよかったな。まあ、ここはフランスでもなくロシアでもないからな。

ローマだってサラセンだってモンゴルだって絶頂期のあとダメになったんだから。それも突然に消えたわけじゃなくてゆっくりと時間をかけて世界史から消えていったんだから、日本だってゆっくりと自然にダメになっていったって何の不思議もないのよ。それに、ダメになるっていったって日本人が絶滅するわけじゃないし。もともと持ってたのはお金だけで、影響力も発言力もなかったんだから、いいんじゃないかと思うけどな。経済的に二流国や三流国に落ちたって、別に何てことないんじゃない?

昔カナダの短編映画で、ああやってお尻にハートを描いて、矢を突き刺すやつがあったんですよ。他の中学でもいろいろやってるみたいだったし。人を集めておいて、カタルシスが何もないのも問題だから。

じゃあ、おれたちが今日の集会をどういう風に記事にするか、君たちにとっては非常に大事なわけだ、とおれは聞こうとして、止めた。そんなことは当然のことで、当然のことをわざわざ確認し合うほど、この中学生たちは甘くない。後藤のモンゴルの話を聞いて、涙を流しそうになるほど感動していたポンちゃんだったが、今はもう普通の顔をしてモニターに視線を戻している。よし、おじさんが君たちに有利に事が運ぶような記事を書いて上げよう、などと言うのは甘えだ。えっ、そうですか、うれしいなあ、と応じるのも甘えだ。そういう応答は意味がないが、この国ではそういうやりとりだけが基本的なコミュニケーションとして成立してきた。

去年の受注後、制作の前に客から「期待してますから」と半笑いで言われた事があって、どうにもそれがひっかかっていたんだが、その時つくれる最も良いものを作るのは当たり前の話で、わざわざそういうことを確認してくることにイラッとしたのだ。それもどういうわけだか半笑いで。もちろん良いサイトをつくって納品したが、その時に彼は「モチベーションがあがりました!」と言っていたが、あれから半年ほど経って、その会社のブログは1度しか更新されていない。

誰かに何かをしてあげたい、誰かに何かをしてあげることができる存在になりたいという思いが、どれだけ普遍的で、切実なものかをこれから日本人は思い知るようになると思う。

台湾は1997年のアジア通貨危機の影響をほとんど受けていないらしい。その理由をていねいに説明してくれたのだが、ほとんど忘れてしまった。確か、蒋介石がスーパーテクノクラートに経済制作をまかせたからだ、みたいなことだった。

例外はひとつしかなくて、それは客の襟元をサソリが這っている場合だ。そのときは、お客様、サソリが襟元を這っておりますが、と話に割って入って、注意をしなくてはいけない。

居酒屋で群れているサラリーマンを見て下さい。彼らにしかわからない貧弱な言葉で、群れの中で笑い、群れの中で叫ぶだけです。個人として対面すると何も話せない。話すこともないし、話し方も知らないし、コミュニケーションが努力なしでも成立すると思っています。フリースクールの子供達は、まず孤独です。不登校という大変な状況の中で、自分を確認しなくてはいけないので、自然と言葉を獲得しようとするわけです。彼らは本をよく読むし、これから自分はどういう風に生きていけばいいのかということを考えていて、他人の話をよく聞きます。必死で理解しようとするわけです。自分の生き方を他人に説明したり、他人の意見を理解するということは彼らにとって死活問題なわけです。

「知ってますか、関口さん。ガダルカナルにアメリカ軍が上陸したとき、四万の敵に、日本は三千の兵力で向かっていったらしいですよ。敵には大砲が五百門あったんだけど、日本軍には二門しかなかたんですよ。それでもちろん上陸した海軍陸戦隊は全滅するんだけど、その次も、三千人くらいの部隊で攻撃するんです。小出しにやるのが好きなんじゃないでしょうかね」

よく考えてみると日本に希望がないというのはどういうことですか、という質問はおかしい。日本には希望がない、ということ以外には意味がないし、それ以上の説明のしようがない。

「関口さん、ぼくらは、ちょっとですが、疲れたんです。市場というものがといういうものか少しわかりました。市場というのは、欲望をコミュニケートする場所で、まるで空気みたいに、あらういはウイルスみたいに、どこにでも入り込んできて、それまでそこにあった共同体を壊してしまうんです。共同体が持っていたモラルや規範を無意味なものにしてしまうんです。ただ、ぼくらはそういう市場を利用して資金を作ったし、大人の社会と戦ったわけなんだけど、そのルールに従うのはばかばかしいと思うようになったんですよ。もちろん市場はニュートラルだから、市場が悪いわけではなくて、市場が生み出す不均衡が悪なんです。自由主義経済は必ず敗者を生むから、勝者も敗者からの復讐を恐れて生きなくてはならないでしょ? それって、本当に無駄だと思いません? DVDプレーヤーを買ってくれなかったからといって母親をバットで殴り殺した中学生がいたでしょう? それに売春をする女子中学生もたくさんいたでしょ? 臓器を売るホームレスもいるし皮膚を売る大学生もいたでしょう? あれはぼくらの生活の隅々に市場が入り込んでいて、臓器やからだといったもともとは個人に属しているはずのものまでが売買の対象になっているということなんです。このままでは、ぼくらは、ぼくらが憎んだ大人たちとちっとも変わらない大人にしかなれないと思ったわけなんです

おれは悲しい気分になっていた。何か無駄な繰り返しが若い頃に必要だとか、そういう風には決して思わない。安心できるものに囲まれて暮らす方が平凡だけど幸福なのだとも思わない。ただ確かなことがあるような気がした。それは、無駄なことの繰り返しはおれたちを安心させるということで、そのことが妙に悲しかったのだ。

それが何かうまく言えないんですが、要するに、上の人にペコペコして、下の人には威張る、というようなメンタリティです。そういう醜いメンタリティをどういうわけか北海道と沖縄の人は持たずにすんでいるんです。