かっこいいスキヤキ – 泉 昌之

久し振りにみうらじゅんと安齋肇のTR2を聞いていると、この漫画の話が出てきたので試しに。
構図が独特で視点が面白かった。

当時TR2をやっていたのは2005年頃で、あの頃のみうらじゅんはようやく今のボクと同じくらいの年くらいだったのかなと思ってみてみると、2005年時点で47歳ってんだから。47でチ●ポ、チ●ポってあの感じなんだから、ははっ、まだまだこれからだよな。

大至急ったって
あんた
そっちの
都合ばかり
いったってね

これはどの仕事でもそうなのかもしれない。ボク自身も含めて客は、自分の都合で早く早くと求めるが、実際に早くやるには自分で何かを進めなければならないこともあるのは横においておいて。


昔アレックスというシカゴからの男とよく会う時期があった。
いい絵を描いたし、明るくてかっこいい男だった。
彼は日本語はほんとど喋れなかったし、おそらく読めなかったのだと思うが、写真のコラージュ作品の中に「パチンコ」の「パ」をトリミングして「チンコ」としたものがあって、こんな視点があるかと新鮮に感じたことがあった。
https://momaom.gallery/category/2005/

なんだかチンコ、チンコの話が多くなった。

ペスト – カミュ

「今日、ママンが死んだ」の異邦人を読んで、ペストと転落もバンコクの本棚でなかなか読むことにはならずに長く積読していたが、このロックダウンで売れている本に入っているということで、日本で新しく購入。

そう言えば、異邦人は映画になっていたのを思い出して、ひょっとするとペストも、と思ってみるとあるみたい。https://en.wikipedia.org/wiki/The_Plague_(1992_film)
残念ながらyoutubeにはない。

ここのところ自社サイトのリニューアルに時間と頭を使っていて、入浴中にやっていた読書もリニューアルまでの残りの作業やどうやって成果に繋げていくかといようなことばかりを考えているので、まったく集中できなかった。本当はそういう風に仕事のことで熱くなった頭をクールダウンさせるために小説を読めると良いと思うのだが、猛烈にとりくんでいるので、そういう余裕がないのかもしれない。

なので、ほとんど小説が残っていない。ウェブサイトはかならず成果に結びつくものにするし、そうなるだろう。

したがって、この町で人々が愛し合うその愛し方を明確に描くことは、かならずしも必要でない。男たちと女たちとは、愛欲の営みと称せられるもののなかで急速に食い尽くし合うか、さもなければ、二人同士のながい習慣のなかにはまり込むかである。この両極の間に、中間というものはそう見かけない。これもまた特異なことではない。オランでも他のところでも、時間と反省がないままにん、人々はそれと知らずに愛し合うことをいかにも余儀なくされているのである。

戦争が勃発すると、人々はいうー「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行はしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。

天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。

よく何か良くないことがあると、「止まない雨はない」というようなことを言う。今回のコロナの件でも何度か聞いたが、「いや、待てよ。そんなこともないよな」という考えがよぎった。止まない雨だってあるし、何かの問題に苦しみその問題が解決されないままに自分の命の方が先に終えることだって世界にはたくさんあるはずだ。だからと言って悲観的に生きろということでは全くないが、なるべく現実に沿って生きていたいと思うということだ。

メランコリック

「憂鬱(ゆううつ)なさま」や「ふさぎ込んでいるさま」を意味する言葉
一時村上龍の本によく出てきたような印象のある言葉。

この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この街の市民に、あたかも個人的感情など持たぬ者のように振る舞うことを余儀なくさせた、といってもいい。

我々が、自分たちは全く妥協の余地のない状態の中にあり、「折れ合う」とか「特典」とか「例外」とか言う言葉は全く意味がなくなっていることを納得するまでには、多くの日数を要したのである。

彼らはこのようにして、何の役にも立たない記憶を抱いて生活すると言う、すべての囚人、すべて流刑者の深刻な苦しみを味わった。

これも言っておかねばならぬが、ベストはすべてのものから、恋愛とさらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛はいくらかの未来を要求するものであり、しかも我々にとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。

みんなでアジャイル ―変化に対応できる顧客中心組織のつくりかた – Matt LeMay

それが「定義は?」とい質問だ。何か言われたときに、その意味をなんとなくわかっていたとしても、あえて「定義は?」と聞いてみる。その繰り返しにより、妥協なく、本質を理解しようとする組織が出来上がる。

これはこちらから顧客へ話をする場合にも積極的に取り入れる必要がある。これまでも相手によってはこういう会話が出てきていて、そういう打ち合わせの後にはとても高揚した気分になっていて、「これだよ、これ」という気分。

アジャイルをムーブメントとして捉えると、私達が協力しなければいけないものであることが明確である。アジャイルは私たちに、オープンで協調的で思索的であれ、と言う。プロセスやツールの「正しい」実践の先を見据え、それぞれの人たちの違いや複雑さを受け入れよ、より良い方向に向かって一緒に働く方法を見つけることを求める。

相手に対する思いやりを意識することに努める。ここまで4年の経営を行ってきて、すこし思いやりをなくしていたところがあった。そうであっては自分のなりたい自分と会社になれない。もう一度思いやりを。人はそれぞれの立場で仕事に臨んでいる。思いやりを。

対照的に、アジャイル方式には、小さいながらもでき上がったアウトプットを短い周期でリリースするような機能横断チームがいる。「機能横断」という用語は、通常、プロジェクトの計画から実行までに必要とされるすべてのスキルが1つのチーム内に備わっているようなチームを指す。このチームは協力して働き、タイムボックスと呼ばれる有限で一貫性のある時間の区切りの中で、小さなアウトプットを完成させる。各タイムボックスのアウトプットは、対象者に向けてリリースされる。そこで集められたフィードバックは、将来のタイムボックスでのアウトプットの方向性と優先順位づけのために利用させる。このようにして価値のあるものが迅速に提供される。

サイト構築を担当するチームにはデザイナーと開発者の両方がいる。あなたは彼らと協力して、あなたや顧客のニーズにもとづいて、より小さなリリースに優先順位をつける。たとえば、最初の2週間のタイムボックスでは、店舗に関する情報を顧客に提供する簡単なランディングページを作ろうと決める。それから次の2週間のタイムボックスで、週ごとの特売品やお勧めを載せるだけのメーリングリストを作ることにする。4週間後には、あなたのビジネスの成長に寄与する何かを手に入れているだろう。もしかしたらそれは、あなたが思い描いていたフル機能のウェブサイトでないことだってあるのだ。

ぜひ試してみたい。短いタイムボックスでそこまでの結果が見えるので、全体の指揮もあがるだろう。

顧客中心主義は私たちの主要な目標を「上司を幸せにする」から「顧客を幸せにする」のにとても役立つ。

「ビジネスのステークホルダーを幸せにするもの」と「顧客に価値をもたらすもの」の大きな違いに注意してほしい。アジャイルの顧客第一アプローチで一番難しいのは、これら2つが必ずしも常に一致するわけではないことを認識して同僚やマネージャーに顧客のニーズとゴールが生命線であることを伝えることだ。

スケジュールや予算などの企業由来

顧客インサイトを巨大なパワーポイントで提供する習慣をやめて、小さくても構わないのでタイムリーな顧客インサイトを頻繁に提供する。

たとえ街角やコーヒーショップで誰かと話をするだけだとしても、建物から出て直接顧客と対話する。

やっぱりこれが大事で、テレワークが言われるが、全てを合理的に済まそうとするのでなく、不合理にひそむ真実をとりたい。

プロダクトやマーケティングの担当者に簡単なメールを送って、失敗に終わった電話や失注から得られるインサイトを集め、変化し続ける顧客ニーズに関する理解を共有する。

人が一緒に過ごす時間をインパクトのあるものにするために、あらかじめ会議で何を決定したいかを考えておく。

大人数での会議の難しさにあたっているちょうど今。社内での問題も解決できるようになるとよいのだが、どう切り出していいのか、また切り出すべきなのか。本当に人それぞれの立場でそこにいる。会社の文化なのか、役割を持たない人も会議に参加している。まずこれは変えていくべき。参加しなくても良く、別のことをしてもらうのか、プロジェクトに役割を持たすのか。社内でのコミュニケーションが希薄そう。信頼というよりは、ダメなところをみつけて、それを叩く。外から見ていると見にくく映るが、中にいるとイラつくのは分かる。思っていることをきちんと話して、良い方向に変えていくべきなのだが、そこまでの熱量はない。すると誰かが変わりにやるべきなのだが、そこまでの責任を? しかしここまで思った以上何かしらの判断をしなければいけない。うむ。

GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代 – アダム・グラン

中田あっちゃん動画で引き込まれて。

実際は冒頭の辺りに良い言葉を拾ったが、その後はビジネス書の翻訳本に多くあるような例をいくつも出していくというもので、冗長さを感じる。この手の本はあっちゃんのしゃべりだけで充分そう。

読むのが遅いので、1週間ほどかかったが、あっちゃんもひょっとすると一語一句全てを呼んでいるわけではないのんだろうと思う。全てを妖夢必要のある本ではないし、いくらなんでも毎日投稿するのに間に合わないだろう。速読術を身につけているのでなければ。

要するに、自分がその仕事をせずにはおれないという“意義”がポイントだ
「自分にとって意義のあることをする」
「自分が楽しめることをする」

ことビジネスとなると、極端な「テイカー社会」である。「うかうかしているとやられてしまう」という考え方が、歴史的、社会的、文化的に共有されている。

ギバーになるということは、「仕事とはいったい何のためにするのか」ということを、突き詰めるということだ。

ホーニックはこのつらい経験から教訓を学んだ ー お人好しでは勝てない、と。
だが、本当にそうなのだろうか。

誰よりも勤勉で度胸もある、厳しい意見をいうだけじゃなく協力も惜しまない。それに、レスポンスが驚くほど早い。

「しかし重要な顧客でなかったとしても、ないがしろにしていいはずがありません」

「よろしければ、お客さまのことをもう少し教えていただけませんか。私に何かできることがあるかもしれませんので」

生きるうえでの基本方針を考えれば、人はたいてい「与えたい」と思うものだということだ。

助けてもらいたいと思っている人に親切にする

「この人にどんなことがしてあげられるだろうか?」

私は弱いつながりの強さを信じる

気前よく自分の時間や専門知識を分け与えるたびに

寛容であることをモットーに人とかかわっていれば、見返りもおのずとついてくる

人を笑わせたり、楽しませたりして、世の中そ少しでもいい場所にしたいから

マイヤーが大事にしている社会生活のルールがある。それは
1遅刻をしない
2努力を惜しまない
3人に居親切にする
4道に外れたことをしない
の四つである。

ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界2 – 村上龍

2020年4月 世界はコロナにやられている。カミユのペストがやたらと読まれているよう。ボクもバンコクの書架に1冊置いてあるのだが、まだ読めていなく、アマゾンで取り寄せている所。仕方なくというか、これも読みたかったので、村上龍のヒュウガ・ウイルスを。
全体の構成が歌うクジラと似ているようで、こちらは主人公は女性だが、何人かのグループと一緒に行動する中に主人公がいたり、やたらと強い変わり者と会ったり、物足りなかった。

でも、すべてのことを実現できるわけではありません。一番に大切なことを実現して、他はその後です。

「確かに今は食糧は充分ではない、だがそれは恥ではないから隠す必要はない」

北極でもない限りウイルスはどこにでも忍び込む

というのも南極の空気はとてもきれいだから。細菌やウイルスなどが大気に舞っていないので、風邪をひかないといわれているのです。そのため、南極地域観測隊の隊員たちは、南極に向かう前には病原体を持ち込まないよう、風邪はもちろん、虫歯や水虫まで完治させてから出発するそうです。
というのがネットにあったが、南極のことだろうか。
北極や南極ではウイルスが生きられないのかというとそういうことでもないよう。

まず第一にこいつらは、とコウリーは思った。とにかくよく勉強するのだ、他に語学がうまくなる方法はない、第二に、こいつらはキャサリン・コウリーを必要としているわけではない。

疫学

伝染病の流行動態を研究する医学の一分野。また広く、集団中に頻発する疾病の発生を、生活環境との関係から考察する学問。

こういう集団の中では謝ってもしょうがないのだ。

取り扱われる商品はタイガーバームからプロトニウムまでといわれるが、

元気な人間が元気のない人に元気をあげる、これが東洋の価値観でしょう

パイロット語は英語なんだ、フランス人だって管制塔と話す時は英語なんだぞ。

フォード ブロンコ

それは生物学ではなく心理学だ、と言ったとたん交渉が決裂することをコヤマは分かっている。

われわれはできることを一つ一つやっていくだけだ

脳に疲労が溜まると人間は凶暴になり集中を欠く

「ウイルスにも種類があるのか?」
「ある、こいつはフィロウイルスという種類で、エボラやハンタウイルスの仲間だ、細菌などに比べるとウイルスは美しい形をしている、結晶に近い幾何学的な配列だ、正十二面体球体、円錐形、まわりにトゲを持つのもいるし、コロナのような輪を持つのもいる、細菌に感染するウイルスは後ろ脚で立った昆虫のような形をしている

コロナ

フランス人の金持ちは基本的に合衆国やイギリスをバカにするが、子供達には単に必要だからという理由で必ず英語を学ばせる。

運命の恋 恋愛小説傑作アンソロジー

twitterで村上春樹の超短編の物語を紹介している人がいて。その人は文庫で言うと4ページだけの村上春樹の作品だけが綴じらているものを紹介していたが、それはamazonには見つからずに、他の作家の作品が一緒になった短編集。

角田光代と山白朝子と中島京子

山白朝子という方の作品は終盤でいきなりホラーになって驚いた。中島京子という方の作品では、突然トランスジェンダーのお要素が入り込んできて驚いた。

かつて美術大学で油絵を専攻していたそうだが、確かに彼の小説を読むと、鮮やかにその場の光景が頭に浮かんだ。

彼を引き留めたい気もするし、彼の精神の行き着く世界を見てみたい気もしていた。

元祖!日本のマナーポスター – 河北秀也

ボクのデザイナーへの考えのひとつを、この方の書籍から学んだ。
「河北秀也のデザイン原論」という書籍はボクがデザイナーを目指すことになってすぐに手にして、その考え方はもちろん仕事に臨む姿勢や本の装丁、レイアウトなど心に刺さった。

河北秀也のデザイン原論 – 河北秀也

おかげで、さもしいデザイナーにならずに今のようにやれているのだと思う。
そして、ウェブデザインという業務においては、なんとかやれていて、この先も変わらずにやっていけば続けられるのではないかと思うが、今のウェブの在り方からデジタルマーケティングのスキルをもっと上げなければいけないという課題が目に見えた。前から得意ではないと思っていながらも、なんとかやってきていたつもりだが、他社との比較が出来る状況があり、課題がはっきりみえたので、しばらくはそこを突き上げていく努力をしていくことにする。

ドラッカーの予言は過去にことごとく当たっている。しかし、彼自身は自分は預言者ではない、と言っている。予言を聞きたければ芸術家に聞け、とも言っている。
現状を冷静に詳細に分析すれば、世の中はこれからそうならざるをえない、と彼は言っているのである。その彼が2020年には、世の中が大変革すると言っている。

予言が当たっているかどうかはともかく、コロナ問題がこの予言を想起せざるを得ない。

笑いの極意はナンセンスだと思う。

Sir!どうします、その吸いがら

うまいコピーが多く、コピーライティングも身につけたい。

星野リゾートの教科書 サービスと利益 両立の法則 – 中沢 康彦

本当は「トップも知らない星野リゾート 「フラットな組織文化」で社員が勝手に動き出す」というタイトルの本を買おうと思っていたのだが、教科書というこのタイトルに惹かれてこちらを購入。届いてみると、表紙のデザインがボクの好きなようなものでなく(元々アマゾンでも見ていたはずなのだが、タイトルだけに気を取られていたようで、表紙はいっさい気にしていなかった)、パラパラめくってみると、星野リゾートの4代目社長である星野佳路(よしはる)氏が経営の参考にした本を教科書として紹介するものであった。

どうなんだろう、と半信半疑で読み始めたが、実際に自分のお客さんの抱えている問題や、それを解決するためのヒントになりそうなのがいくつかあって、さっそく写真を撮って赤線を引いて、お客さんに送った。ここ最近では最も実になる一冊となった。

”その他大勢”から抜け出す
同業他社と同じ戦略を続けても、混戦から抜け出せない。
自社の強みを確認し、ライバルの動向を見極め、
「勝てる戦略」を立案し、収益力を高める。

ポーターは、ライバルとの競争環境を踏まえながら戦略を組み立て、徹底する意義を強調する。そして、企業がライバルとの競争で取るべき戦略を3つに分けて論じている。コスト競争力で優位に立つ「コストリーダーシップ」、競争相手との違いを全面に出す「差別化」、特定の領域に自社の経営資源を集めてライバルに勝つ「集中」、の3つである。ポーターはこの中から戦略を選んで、徹底すべきだと主張する。

「どんなターゲットに向かって『集中』していくのかをまず明確に決める。そのうえで、『コスト』で優位に立つのか、ライバルとの『差別化』を徹底するのかを二者択一で選び、徹底していく」

有楽の再生に当たっては、市場調査のデータを分析しながら、競合から抜け出す戦略を立てた。選択したのは「集中」と「コストリーダーシップ」だった。ターゲットを個人客に集中し、効率を高めてコストを下げ、上質なサービスの高級旅館として再生する。

ユニクロは広告などを通じて製品の機能やデザインなどの新しい魅力をアピールしている。「そのうえで、『これだけ魅力のある製品がこれほど安い』と伝える。そこにライバルに勝つ強さがある」

企業は市場での地位に基づいて、「リーダー」「チャレンジャー」「フォロワー」「ニッチャー」に分けられる。

このため採用すべき戦略はトマムと異なり、リーダー戦略である。すなわち「需要の拡大」のほか、「価格競争に陥らないこと」「同質化(ニッチャーの打ち出してくる独自のサービスをすぐに取り入れる)」に取り組むことが大切になる。
この戦略に基づいて、アルツ磐梯は割引券の乱発による価格競争をやめた。同時に、周囲のニッチャーのスキー場がそれぞれ打ち出していたサービスをすべて取り入れて、同質化対応をした。この戦略で、旧経営陣の下で赤字が続いていたアルツ磐梯は黒字化した。

サービスや製品の品質で差別化ができないとき、「アクセス」を高めることによって、他社と差別化ができる。

企業は売上を増やそうとして、製品のラインナップを増やそうとすることが多い。しかし、ライズによると、「短期的に見ると、製品ラインの拡張は常に売り上げを増大させる」が、「長期的な効果は無残」で、結果として売り上げが大きく落ち込む。そして、「マーケティングにおける最も強力なコンセプトは、見込み客の心の中にただ1つの言葉を植えつけることである」と主張する。

ライズは同書で「マーケティングの効果は、長い時間を経てから表れる」と指摘しているからである。

ハートの論文は、製造業で一般的な「保証」がサービス業にはほとんどないと指摘し、機械よりも不確かな人間が提供するサービスこそ「保証が重要」と力説している。

「お客様は誠実だということがよく分かった」

認知=知られているかどうか
知覚品質=お客様がどのように感じるか
連想=ブランドについて思い浮かべること
ロイヤルティ=リピーターとなってくれるかどうか
他のブランド資産=トレードマークなど

ブランドの価値は貯金に似ている。取り崩していたら、いつか失われる。将来を見て、積み上げていくことが大事だ

星野リゾートは「リゾート運営の達人」という経営ビジョンを掲げている。

「会社の現状をどれだけ語ったしても魅力を感じてもらえないならば、会社の将来についての話をしよう。今は残念ながらこういう状態だ。しかし、目指す将来像に向かって最短距離で進む。そう語れば、関心を持ってもらえるのではないか」

伊那食品。同社には「いい会社をつくりましょう」という社是がある。この社是に基づいて、急成長を追わず、一歩ずつ着実に伸びる道を歩んでいる。成長のスピードは緩やかだが確かで、そのありようは「年輪経営」と評される。

経営者は会社にお金も事業も残せないことがある。しかし、経営者としての姿勢は残すことができる。堂々とした生き方を示すことが「最大の遺産」になる。

成功の秘訣 六十六翁 内村鑑三
一、自己に頼るべし、他人に頼るべからず。
一、本を固とうすべし、然らば事業は自づから発展すべし。
一、急ぐべからず、自働車の如きも成るべく徐行すべし。
一、成功本位の米国主義に倣ふべからず。誠実本位の日本主義に則るべし。
一、濫費は罪悪なりと知るべし。
一、能く天の命に聴いて行ふべし。自から己が運命を作らんと欲すべからず。
一、雇人は兄弟として思ふべし。客人は家族として扱ふべし。
一、誠実に由りて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。
一、清潔、整頓、堅実を主とすべし。
一、人もし全世界を得るとも其霊魂を失はば何の益あらんや。人生の目的は金銭を得るに非ず。品性を完成するにあり。

以上

どんな経営者もいつか会社を去る日がやってくる。

オーディション – 村上 龍

どんな内容なのか全く知らず、読み始めて、オーディションが終わった辺りから物語はミステリーでもあり、僕の好きな村上龍の破壊描写へとドライブしていき、久しぶりにどんどん読みたいと思わされるもので、本当は経済の勉強をはじめたので、その本も読みたかったのだっが、それは後回しにして一気に読み上げた。

1997年の作品というと、今から22年前。
中には懐石料理やバーでの描写などで、執拗に固有名詞をあげつらうが、何かで見た村上龍本人の話によれば、これによって、よりリアルな表現をしているということなのだろう。例えば「シャンピニオン」という言葉があるが、調べてみればただの「マッシュルーム」のフランス名であり、「シューマン」というのは、ロベルト・シューマンというドイツのクラシックの作曲家で、「バトントゥアラー」というのはバトントワリングというスポーツをする者の呼称で、「トラッテリア」とはイタリア式の大衆レストランのことで、先に挙げた懐石料理は懐石料理でなく「郭料理(くるわりょうり)」で、

映画化もされていた。

だからといって相手の顔を全く見ないで話すとたぶん正確を疑われるだろうと思った。内向的な変態だと思われてしまう。

癌はその代表だが、病気で弱りながら、また苦しみながら死んでいく人間は、残される者に優しいあきらめを用意するために痛みや恐怖と戦うのではないかと、良子に感動し、感謝した記憶が青山にはある。

イノベーション・スキルセット~世界が求めるBTC型人材とその手引き – 田川欣哉

Takramラジオを聞いて、マル秘展へ足を向けて、この方の魅力を知った。
僕から見るとあまりに短絡的な言葉に落とし込んでしまうが、知的にデザインをやっていて勉強になる。僕も昔とは大きく変わって、「かっこいいからいいじゃないか」みたいなことだけでデザインをやることはないが、こういう書籍から学ぶべきものはまだまだ沢山ありそうだ。

デザインの力が注目を集めるようになったのは、インターネット以降、企業がエクスペリエンス(体験)を通してユーザーと向き合う必要が出てきたからです。そしてそのエクスペリエンスをつくるのがデザインの仕事だからです。

「課題解決のためのデザイン」と「スタイルやブランドをつくるデザイン」

渋イケメンの世界 ~美しき働き者たちへの讃歌~ – 三井 昌志

確かインドへ行くことを決めてからツイッターで知ったのだと思う。

男たちの勇ましい姿が切り撮られていて、最高にかっこいい写真が見られる。
さらに構成も良くて、はじめに写真を順番に見せていき、終わりにそれぞれの写真にコメントをつけている。

写真でも絵でも、やはりその人となりがそこに現れてくるから、そいつがどうかというのが見えるもの。
何を何故撮るか、何を何故描くか。

生きるために働く男たち。やるべき仕事に迷いなく打ち込む男たち。彼らの顔には人生がそのまま刻み込まれていた。後ろ姿に生き様がにじみ出ていた。外見にはほとんど気を遣っていないのに、痺れるほど格好良かった。

働く男は飾らない。飾らないから美しい。

マクロ・日本経済からミクロ・あなた自身へ – 村上 龍

経済や金融を学ぶために読んでいるが、昔から繰り返し読んできている村上龍節を改めて読んでいるだけで、あまり経済や金融の専門的なことを学べているとは思えないのだが、マクロの視点で経済を語る「日本の経済をよくするにはどうすればいいか」というような言い方を好む日本のマスコミだが、個人個人を一括にすることはできないので、日本の経済という言い方では語ることができない、というのはまさにそう。

ちょうど自分がやっている仕事先のアンケートで「10年後のタイの経済は明るくなっていると思いますか?」という質問があって、答えてほしいと言われたので、10年後のタイの経済のことは分からないが、10年後の自分の経済は明るくなっているように努力をする。というようなことを書いた。これが経済を学びはじめたことのこたえになっているような気もするし、なっていないような気もする。

「だいじょうぶです。伝統的な日本文化はわたしたち外国人が守りますから。外から見たほうが価値がわかるんです」

誤解されると困りますが、海外メディアの「おせっかい」に一喜一憂してもしょうがありません。ただ、仲間内では微笑ましい事象でも、他社から見ると非常に醜いという場合が多々あるということです。

ゼロサム

一方の利益が他方の損失になること。

「問題を正確に把握し、目標を設定し、解決策の仮設を立て、実行し、達成を得る」という過程は本質的にスリリングなのだということです。さらに言えば、危機に際した人間の思考過程こそがスリリングだということがも知れません。

これまで日本社会の文脈では支援や協力というのは、その実効性よりも、それがいかに自己犠牲的だったかで評価されがちだったのではないでしょうか。

スキルを磨き、しっかりと働いて、お金を稼いで、好きな人とおいしいものを食べるんだ、というモチベーションの人が増えることが、デフレを食い止める原動力にもなるのではないでしょうか。

自分自身の信頼を所属事務所に代行してもらうというようなことができません。小説を書くと言ったら本当に書く。納品の期日を守る。作品の質を保証する。損をさせない程度には売れるものを書く。そういったことを実践してきました。

人類誕生から数百万年という間、おそらくわたしたちの祖先は、老眼で目がかすみ、葉が抜け、足腰や内蔵が弱くなってきたころ、つまり四十代が生存の限界だったのではないでしょうか。

信用デリバティブ

自警録 – 新渡戸 稲造

居島一平氏の熱量に押されて購入。読んでみるとよくある自己啓発の内容と変わらぬところもあるんじゃないか、などと思いながらも、それらとはまた違う深みが感じられるのは、新渡戸稲造著だからだろうか。

耶蘇教

キリスト教の異名

男一匹たる資格は第一に勇を揮(ふる)うて己れに克つにありと思う。己れに克つものはほかに勝つこともさほど難事でない。

なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉(ほまれ)とするも、女子の働きは内助にある。しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。

なにせ初版あ1982年なので、男女の在り方が2020ではなかなか声を大にして言い難い内容。ただこれが日本人ゆえかと思えば、そのあとにイギリス人であるキングスレーの「Men must work and women must weep.」という詩を引用している。
ようするに現在は、皆様々で、男がどうとか、女がどうとか言うのを忌み嫌う人が居るわけだが、実際のところ、かくいう男性も女性もいるわけで、ある夫婦やカップルを切り取れば、能動的な男性と受け身の女性で助け合って一緒にやっていこう、という者もいるわけで。

すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を紊(みだ)すも恬(てん)として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。

あるよね。しかし、向こうにしてみれば、向こうなりの正義でやっていたりするので、こちらもいつそちら側になるかなど分からない。表裏一体なのだ。

政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措(お)いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。

これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。

こうありたい。学生時代はいわゆるやんちゃな方がかっこよいと思っていたが、長く考えが変わった。芯を持つ。

とかく人は表面に現れたことのみで測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝の中に叩き込まれんとする。溝の縁までは譲ろう。しかし溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることはできぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免を蒙(こうむ)って、あべこべに溝に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強みが発揮される。

怜悧 れいり

頭がよく、利口なこと

自分の心得の最善を尽くしている以上は、行儀作法に多少の欠点ありとするも、人はこれを宥(ゆる)すものである。自分は行儀を知らず、作法が分からぬと臆することはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際刷る値打(ねうち)なきものと思う。

世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければ良いではないか。

人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ

何人(だれ)にも可愛(かあい)がられるものは世にないと思う。もしかかる人がありとすれば、そは自己の意思なきものである。何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。

僕が友人に対して俺の飯を食いながら反対するのはけしからんという一喝は、たしかに僕の根性の曲を曝露する。しかるにこれが十二、三歳の腕白小僧の一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが潜めるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜伏する考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。

ラシャメン 羅紗緬

日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。

自己の淫奔(いんぽん)よりする者は少なく、大多数は一家のために犠牲となったのであろう。身を売る時はじつに憐れむべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾後三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲泥の差あるを発見するであろう。

「うまくやった奴が偉い奴」
ということになり了(おわ)る。僕は決して名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀(きず)つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降(くだ)る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。

負けて退(ひ)く人を弱しと思ふなよ知恵の力の強き故なり

むかしの人のいったごとく人生は棺を覆うて始めて定まるものである。

しかるに表裏(ひょうり)という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢(きたな)い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。また陽といえばよけれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。

願わくは説が違ったときは、はてな、己れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪の判断を下す前に一応は取り調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。

この度量が必要。自分の意見は全てではないし、皆が違うのが当たり前。

「可愛い子には旅をさせよ」
というは、旅は辛い、難儀である、可愛い子にはこの辛苦を嘗(な)めさせ、鍛錬させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮者は新婚旅行する。

人の力は出せば出す程ふえる

だまされないために、わたしは経済を学んだ – 村上 龍 Weekly Report

泥縄式

普段からの準備を怠り、いざ事に直面して初めて、慌てて対処に取り組み始めるさまを形容する言い回し。

逆に冷徹に全知全能のような立場で市場を見通し、経済を見通す人間がいないからこそ、人は自分の立場と自分の情報と能力のぎりぎりを絞って市場に参加し、そのような人々の間で均衡価格がシグナルとして重要な意味を持つのです。

株価が上がったり下がったりして、その都度いろいろなことが言われ、専門家の意見が分かれ、しかし結局自分の日常に変わりがなければ、わたしたちは情報に麻痺していく、という側面があります。

不安という感情がわたしたちに備わっているのは、もちろんそれがサバイバルのために必要だからです。不安がなければわたしたちは危険に対処する方法を考えようとしません。

由らしむべし,知らしむべからず、という有名な言葉は日本の特質を表しているわけではなく、その場しのぎの都合のよい慣行にすぎなかったのではないかとわたしは思います。

「人民を従わせることはできるが,なぜ従わねばならないのか,その理由をわからせることはむずかしい」という意味である。つまり,人民は政府の法律によって動かせるかもしれないが,法律を読めない人民に法律をつくった理由を納得させることは困難である,といっているにすぎない。ところが江戸時代には,法律を出した理由など人民に教える必要はない,一方的に法律(施政方針)を守らせればよいという意味に解されて,これが政治の原理の一つとなった。

ペイオフ

自分が預金している金融機関が破綻した際、その金融機関が預金保険機構の「預金保険制度」加盟金融機関であれば、預けていた金額のうち「1,000万円とその利息等」について保証されるという制度です。

キューバのカストロ政権は崩壊寸前だ、とアメリカはこの四十年間言い続けてきました。もちろんキューバは崩壊していません。

歴史的に幸福感を積極的に求めなければならなかった国民と、そうでなくても生きてこれた国民との違いということもキューバではよく考えさせられます。

二〇〇一年三月にペイオフを実施することの是非はわたしにはわかりません。ただ、今になって延期すべきだという議論が出るようなことを、実施すると明言したのはなぜなのだろうと疑問に思うわけです。金融を巡る状況は変化するものだ、そういう答えが返ってくるかも知れません。すると、そのような状況の変化は予測不可能なものだろうか、ということになります。さらにそれが予測不可能なものならば、これからは金融政策にしろ、財政政策にしろ、誰が名言しても信頼できないのではないか、ということになります。「どうせ状況は変化するもの」だからです。

「リスキーはセクシーだと女子中高生に教える」という未来証券の酒井雅子さんの提言は非常に興味深いものです。ただし、中高年に限らず、女性はいい意味で「制度的」です。彼女たちが好む「新しさ」は、すでにあらかじめ「ファッション」である必要があります。しかもそれは簡単に「飽きることができる」ものでなくてはいけません。女性には創造的価値観がないというわけではなく、価値観の変換には無謀な飛躍が必要で、いかなる意味でも女性は無謀なことには向いていないし、無謀なことを選ばなくてもいいのだという「刷り込み」が過去四百万年の人類の歴史の中で行われてきたのではないかと思います。

きっかけなどないと言った後に、「人間のすべての行動は広義の経済活動であり、重要なのは「きっかけ」などではなく、有益な経済活動の機会に遭遇しようという積極性と、機会を捉えそれを活かそうという決意と、その意志と行動を継続していくための努力だ」という風に答えると、インタビューの場は完全に白けてしまいますが、きっかけという言葉が機能している間は、日本がリスクテイク社会になることはないでしょう。

京セラ名誉会長である稲盛和夫氏は最近の講演の中で、企業統治にもっとも重要なのは本社が子会社や社員に示すことの出来る経営理念である、というようなことを言っていました。

理念、あるいはビジョンは「もっとも大事で、提示するのがもっともむずかしいもの」の一つだと思います。理念やビジョンがどうであれわたしたちはサバイバルする必要があり、食べていかなければなりません。無人島に漂着したとき、最初にすべきは理念ではなく水と食料でしょう。移民や亡命者が外国で探すのはビジョンではなく仕事です。食料や水の探し方、仕事の選び方が理念やビジョンにつながる場合もあるかも知れませんし、理念やビジョンは内部で勝手に設定できるものではなく、外部とのフェアなコミュニケーションとともに決定されていくものではないかと思います。

わたしは広義の情報である小説を書き始めるとき、卑俗な言葉を使うと「ウリ」ということを考えます。セールスポイント(死後ですね)みたいなことですが、それは読者・市場へのものではなく、自分のためのものです。つまり、これだったら自分は限界まで脳神経を稼働させるだろう、というようなモチーフの発見がわたしにとっては大事です。

一度繁栄して没落した文明が決して再興することがないのと同じで、日本の中高年が新しいビジョンを示すのは困難だと思われます。

人間の善意や良心、誠実さやモラルだけで環境・教育問題が解決できるという考え方は危険だとわたしは思っています。環境保護への経済的なインセンティブを設定しない限り、たとえば産業廃棄物の違法な投棄はなくならないでしょうし、建設省や自治体は河川や干潟や湖沼への利権がらみの観賞を止めることはないでしょう。

自立を促すものは、希望と欲望ではないかと思います。希望は、今よりも将来の方が「充実した生き方」ができる、という期待と確信で、欲望はその期待と確信を現実のものにしていこうという意思をドライブしていくものです。
そして「充実した生き方」というのは社会的に決定されたモデルがあるわけではなく、他社や社会との関係の中から、自分の想像力でイメージするものだと思います。

その設定が間違っていれば、永遠に作品を書くことができなくなったり、逆にどうしようもない作品を書いても平気になったりします。つまり、自分を偽って高いレベルに設定してしまうと、「これもダメだ。こんなのはダメだ」ということになって、結局自分が作品を書かないことを正当化する羽目になるのです。また、逆に低く設定してしまうと、作品はいくらでも書けますが、そこには規範というものがなく、小説の質は際限なく堕落します。

少し疲れていたせいか、何らかの報道規制か自主規制があったのではないか、と一瞬疑ってしまいました。そういう根拠のない疑いは脅迫神経症的な意識を生みます。わたしはいくつかのニュースショーを見ていて、あらゆるニュースが操作されて伝えられているのではないかと疑い始め、これでは本当に神経症になってしまうと恐くなりました。

ダンピング

採算を無視して商品を安売りすること。投売り。

教育は、子どもの社会的な自立のためにあるものだと思います。社会的な自立にまず必要なのは経済活動を行う能力です。何らかの労働によって対価を得なければ生きていけないということです。わかりやすく言えば、何らかの方法で食料その他サバイバルに必要なものを手に入れる必要があるということです。それは一人超然と山奥で仙人のような暮らしをする場合でも、資産家の愛人として寄生する場合でも、基本的には同じです。

おじいさんは山へ金儲けに―時として、投資は希望を生む – 村上 龍

経済や金融ということについて気になっていて、といっても投資をする予定は今の所ないのだが、商売をやっている以上は経済や金融についてある程度知識を持っていたほうがよいだろう、ということで前にもいくつか本を読んでみたが用語を解説するようなどうでもよいものばかりだったので、村上龍の書く経済本から読んでみようと思う。

つまり、政府や金融機関の誘惑に乗せられるのではなく、あるいは逆に市場に背を向けてしまうのでもなく、投資という重要な概念を知り、基礎的で本質的な知識を身につけようという目的で作られた。だまされないための方法は、たった一つしかない。「知る」ことだ。

現在から将来に向けて、自分の利益となり、自分自身の生の充実を支える何かが育っているという意識・感覚、それが希望だ。ひょっとしたら、投資と希望は同義語なのかも知れないと思うことがある。

単に幸運を待つことも、時間という大切なコストを払っているという意味では投資の一種ですが、特に「こうなりたい」という希望を持って、努力や時間といったコストをかけることは、人生における投資行為といえます。将来の何かを目指して、人生に前向きに取り組むときの意思決定は、勉強をすることも、就職の選択も、恋愛や結婚といった行動にも、その考え方にはお金の投資に通じるものがあります。人生の選択を「投資」としてとらえると見通しがよくなることがしばしばあります。

あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。二人は貧しくて、無知でした。ちなみに、貧困と無知は、人間の社会にとってもっともよくないことです。ただ、おじいさんは、明日もきっと今日と同じ日が来るだろうと思っていましたが、おばあさんは少し違いました。おばあさんは、おじいさんのような、何の能力もない男と結婚してしまったことおを後悔していたので、今日という一日の使い方によっては明日が変わってくる、ということに気づいていたのです。

弱いものをいじめるのは、面白いことなのかもしれん。だが、わたしもよくは知らんが、世の中には、もっと面白いことがあるんんではないかな。わたしたちには想像もできん面白いことがあって、それは弱いものをいじめるよりも、百倍も、千倍も、面白いのかもしれんぞ。

「それはよい心がけでございます。母親を心配させると、ろくなことはございません」

村に帰ってみると、知らない人ばかりが歩いていました。竜宮城の三日は、地上の百年だったのです。母親はとっくに死んでいて、太郎のことをたいそう心配していたということもわかりました。太郎は悲しくて、たくさん泣きましたが、泣いていてもしょうがないと思いました。竜宮城の楽しかった日々が、太郎に自身を与えていました。太郎は、竜宮城で、人生は楽しむためにあるのだということを学んだのでした。

子供や孫、それに家族が、わたしたちの幸福の条件なのかどうか、本当のところはわかりません。家族を作ったために人生がボロボロになってしまう人も、この世の中には、大勢いるのです。家族を作るだけで人生が幸福なものになるというのは、大嘘です。幸福な家族を作るためには、努力が必要ですし、不幸にならないためには、お金が必要なこともあります。

しかし、将来の不確実性を具体的に「リスク」に翻訳して扱うという方法は、生きていくうえでぜひとも身につけておくべき技術であり思考習慣です。

リスクなしにリターンは増えないが、ハイリスクがつねにハイリターンというほど世の中は甘くない

「ポチや。おまえは、わしに似て、からだも小さくて貧弱だし、力も弱そうだ。だがな。おまえの頭はおまえのもんだ。頭を働かせれば、いろいろなことができる。それにな。ここが大事なんだが、頭を働かせるのは、楽しいことだぞ」

名人のおじいさんは、一秒もかけずに、一個分のもちをちぎって投げることができました。おじいさんの手の動きは、あまりにも速くて、目でとらえることができませんでした。そのおじいさんは、もうすでに、腰が曲がっていましたが、とてもやさしそうな顔をしていました。わたしは、そのおじいさんの顔を今でもはっきりと覚えています。なぜ覚えているかというと、もちつきが、非常に楽しかったからでしょう。

インドへ – 横尾 忠則

インドへ行くのに何かインドっぽい書籍を持っていきたいと思い、前から読みたいと思っていて読んでいなかった横尾忠則氏のの「インドへ」を選んだが、結局行きのバンコクからムンバイの飛行機の中とゴアで少し、それと帰りのムンバイでの空港での待ち時間くらいしか読むことがなく、戻ってきてから読み直した。旅の間は、とかく短い旅の場合には本を読んでいる時間や余裕などないものだ。

「政治はロッキード問題などで腐敗し、精神的繁栄より物質的繁栄をよしとする国になってしまった」

現実の旅はぼくにとって、あくまでも肉体の旅、外面の旅であって、魂の旅、内面の旅は今こうして一字一字言葉にしていくこの瞬間にあるような気がするのだ。つまり旅の効果というものは、現場ですぐ現れるものではなく、旅が終了して一段落した時に、こうしてじわじわと後遺症のように内部から旅の感動が突き上がってくるのである。インドへの旅といえば、なにか大きな収穫を予期したり、大げさな覚悟を抱いたりしなければならないように思っている人達が随分沢山いると思うが、そんな覚悟はいらない。ちょいと出かけてちょいとかえってくればいい。

サブカル・スーパースター鬱伝 – 吉田 豪

リリー・フランキー、みうらじゅん、菊地成孔、ECDはじめ、杉作J太郎や松尾スズキの鬱話。

42歳を過ぎたボク自身は、親の問題が出てきて、この先仕事がどうなるかという不安もある。しかしそれでも自由に、とらわれずにやっていきたい。それはそういう問題を放棄するという意味ではまったくなく、全てを包括してやれるくらい柔軟で大きなものになりたというようなことなのかもしれない。

「サブカルというか文系な有名人はだいたい四〇歳前後で一度、精神的に壊れがち」ってことに気づいて。

鬱は大人のたしなみですよ

鬱にならない人って、自分はいいものを書いているつもりで、「寒くなったな、あいつ」って言われてるのを知らないまま一生生きてく。そんな人、いっぱいいるでしょ。二〜三年ちょっと鬱状態になって仕事も滞った人のほうがまだバネがつくと思う。

ほとんどの人も仕事で鬱になってるんじゃなくて、仕事をきっかけに人に対しての不信感や喪失感や疎外感を持つんじゃないのかな。

変わってかないと絶対気が滅入るって。プロとして技術もついたし、これやり続けてりゃ金になるしっていうことで生きていける人と、次の山を登らないと的な感じになってく人といるけど、サブカルの人っていうのは体育会系じゃない癖に、そのへんのロマンチシズムはすごく体育会系だから。対自分は飽きないかもしれないけど、対他人は飽きるよ。

四十歳になってもそれぐらいの感受性は持ってようよって言いたいよね。だってそれは大人の論理で生きていくか、感受性で生きていくかの問題なんだもん。これは中年の思春期なんだから。

こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しいですよ。

四十代は、単純に肉体が弱ってくるから精神も弱るんだろうなってボクも思ってるんですけど。

底が浅い、「これでいいの?」っていう歌詞を書いてる人は大丈夫みたい。

つまり、チョイスの幅を狭くしようってことなんだよね。サブカルって結局、何でも屋さんじゃない。だから、仕事を限定することでリハビリしていくという。

正確な引用でじゃなくて恐縮ですけど、昔、橋本治さんが著書で“ストレスを日々溶かしていくことが出来る人こそが、長く創作活動を続けていける”というようなことを書いていらっしゃったんですよ。

普通、男性はプライドが傷つくようなことを避けるし、勝ち負けにこだわるし、カッコよくあろうとすることによって成し遂げることもいっぱいあるわけじゃないですか。僕、そこでカッコよくあろうと思わないところがあって。

蔓延する偽りの希望 (幻冬舎文庫―すべての男は消耗品である。) – 村上 龍

もう一度村上龍の本を読んでみている。
古い本だが、本質的なことを言っているので、今読んでもためになる。

村上龍の分析と的確な言葉選びが本当に好きで納得できる。

それでも二十代のような文体ではもう書けないかというとそんなことはない。言葉は失われたわけではなくて脳のハードディスクに眠っているだけで、それを取り出すのに時間がかかるようになっただけだからだ。
綿密な描写をはじめると脳が少しずつ活性化してくるのがわかる。ウォームアップに時間がかかるようになっただけなのだが、それでも脳が退化をはじめていることに変わりはない。

経済は人間の精神に影響して文化となってしまう。狩猟民族が貯蓄という概念がないのと同じで、終身雇用幻想を文化としている国では、たとえば「個人」とか「リスク」とか「インセンティブ」といった概念がない。個人がリスクを受け入れるという言い方は、終身雇用幻想の規範から外れることだけを意味する。

わたしは作品を作るとき競争を意識している。作品の質はもちろん、どれだけ幅広いテーマとモチーフを書くことができているか、「現代」を描きながらどれだけの普遍性を獲得できているか、そして商業的にどのくらい普及し利益を上げているか、海外のマーケットではどういう評価をされているか、そういったことである。

また長く続いた非競争社会の弊害はさまざまな文化的領域、つまりコミュニケーションの中にも溢れている。たとえば日本人は結婚してしまうと男女とも努力をしなくなる傾向がある。友達になってしまうと甘え合うという特徴もある。「あいつは友達なのだからこれくらいのことはやってくれるだろう」みたいなことだ。

経済のメカニズムを知れば知るほど、巷に溢れている小説や映画やテレビドラマが現在の日本に必要かどうか疑問に思えてくる。それらの多くは、結果的に変化の痛みと矛盾をごまかすためのものばかりだからだ。

不況だと大騒ぎするわりには、過去のどの時期と比べてどのくらいの割合で景気が悪いのか、それをどの程度の水準に戻せれば景気の回復と言えるのかという基準のようなものがわからない。まさかバブルの頃を基準にするわけにもいかないだろう。

日本語で建前と本音と言うときに、それは誠実とか誠意に関係がなく、自分の利益を隠すか隠さないかの違いでしかない、という指摘をしたのは片岡義男だった。
本音で接するというのは相手に誠実に接するという意味ではなく、自分の利益となることを正直に伝えるということだ。したがって、本音には必ず甘えが含まれているし、本音の中には差別意識などが隠されていることが多い。

また魅力のある他人と親しくなるためには自分のほうにも魅力が必要だ、という事実も曖昧にできる。

当たり前のことだが、不要なものは自然になくなっていく。今の日本に希望がないのならばそれはきっと不要になってしまったのだ。

希望は、ネガティブな状況においてのみ必要なものだ。希望を持って生きるHIV感染者はエイズの発症が遅いという統計もあるそうだ。

さあみんなでリスクを取りましょうという政府の言うことを信じて、事業を始めようとする大学生がテレビなどで紹介されるようになったが、彼らは一様にバカ面をしている。

これこれ。

金融界には統合と合併の嵐が吹いているようだが、要するにリストラの口実を作っているだけだという人もいる。

当たり前のことだが、近代化を達成し一度、経済的繁栄を享受した国には没落の可能性が生まれる。没落の可能性に目を向けている人は日本の将来に悲観的だし、繁栄の要因しか見ていない人は楽観的になっている。要するにそれだけだ。

多くの人は幻想によって癒やされている。メディアからは、親の愛情は何よりも強く愛情さえあればさまざまなトラブルもすべて解決するというような嘘の情報が流れている。誠心誠意尽くせば、誰もが自分のことをわかってくれるとうような嘘も機能している。
テレビドラマから小説からニュースショーのアナウンスまで、日本の言説はそういう嘘で塗布されている。だが、日本でも現実はリアルだ。ただ、リアルな現実が塗布されて隠されているので、人々は恐怖や不安やストレスを消費することができない。リアルな現実への反応としてのネガティブな感情や意識を人々は自分の中に抱え込んでしまう。そういう恐怖や不安やストレスが実は普遍的だと言うことに気づかない。
それは将来が不安だから消費せずに貯蓄する傾向が強まっていることとパラレルである。みんな何に投資すればいいかわからないし、何を買えばいいのかもわからない。
誠心誠意頑張ればコミニュケーションが成立するという嘘は悪質だが、安易なので需要は多い。いまだに日本の常識として通用している。何をどう伝えるか、また何をどう受け取るか、ということがコミニケーションの基本だが、そういった事は問われることがない。
誠心誠意というのは具体的にどういうことなのだろうか。例えば英語しか理解できない人に日本語しか話せない人が誠心誠意頑張って意思を伝えるという文脈は笑い話でしかない。誠心誠意頑張るのではなく単に英語を学んだ方が明らかに有効だが、そういったことはほとんど誰も言わない。

親から大事な言葉を聞いていない、と言うケースも多い。ごめんね、と言う一言を親が言わなかったために、それが傷となって残り、自己評価が低くならざるを得なかったという女の子を私は何人か知っている。

MBA=マヌケ・バカ・アホと言われている人間が金融界にも大勢いるらしい。

「このままでいいのか日本経済」というような見出しはあらゆるおじさん雑誌にはほとんど毎日踊っているが、そこにエッセイや論文寄せている人にしても、対談をしている人にしても、恐ろしく巨大な「日本経済」に対して何事かを為しうると本気で考えているのだろうか。自分のことを心配したほうが良いのではないかというような人々が、あえて日本を憂い、日本の未来を考えているというのが現状だ。

異文化への真摯な興味を持つインテリ以外、日本に関心を示す西欧人などはほとんどいないと言うのが現実だからである。
そしてそのような現実は、藤田嗣治などの画家たちがヨーロッパに渡った頃から、実は変わっていないのだと思う。それに、西欧に理解され、広く読まれる小説が、日本文学として本当に優れた作品なのだろうかという根本的な疑問もある。その国固有の文化というのは、その国以外にはその独自性を正確に伝えるのは極めてむずかしいが、そのことが逆に固有の文化たり得る要因にもなっているのだ。

西欧諸国はどうして文化的に世界をリードしようとしたのだろうか。それは、西欧文化を広めることが支配を容易にするからだ。また文化的な尊敬が得られれば、政治的な国際協調においても、経済交流においても、交渉を有利に進められることを知っていたからだ。

援助交際でも、引きこもりでも、いじめでも、同級生からの恐喝でも、ストーカーでも、大切なのは恐怖や不安をシェアすることだ。誰でもいいから手当たり次第に相談することだ。

ひょっとしたら日本人は音楽やダンスに限らず「〜が好き」という概念が未発達なのではないだろうか。あるいは、〜が好き、ということと、〜に依存する、と言¥いうことを混同しがちなのではないだろうか。〜が好き、という感情は、人間にとってもっとも基本的なもので、しかもわかりにくいものだ。わかりにくいという意味は、それが個人的な嗜好に左右され他人にはわかりにくいということと、個人と言う概念が未発達な国で、果たして個人的な思考というものが存在しうるのかという疑問でもある。

「あそこでスパートしたときに何を考えていたんですか?」みたいなことを平気で聞くキャスターやレポーターがいる。スパートしようと考えてスパートしたに決まっているのに、平気でそういうことを聞く神経は信じられないが、昔からそうだったし、今後もきっと当分は変わらないのだろう。

「それでも私は日本が好き。だって山にも海にもきれいな自然が残っているし、何より私は日本人だから」と言うようなことを平気で口にする人が最近多いが、日本人だから日本が好き、と言うのはある意味で当然のことだ。外国語を一から学習するのは楽ではないし、日本語が通じるというだけでも、日本人にとっては日本のほうが住みやすいのは当たり前だ。
食事だって、おいしいソバや寿司などがある海外の都市は限られているし、日本人だったら日本の食生活の方が快適に決まっている。日本人が日本に住むメリットを充分に認めた上で、それでも海外に出たほうが人生を有利に生きられるのではないかと考える若者が増えているということなのだ。

テレビは、いろいろな意味で驚異的なメディアだった。まず、非常に多くの人が同じ疑似体験をするということはそれまでになかった。また、家族全員が受動的になるという体験もそれまでにはないものだった。

有利に生きるというのは、アドバンテージを持つ、というような曖昧なことではない。それは、高価でおいしいイタリアンレストランで食事ができるとか、広い家に住めるとか、他人からこき使われなくて済むとか、そういったミもフタないことなのだ。

白痴 3 – ドストエフスキー

読了。
1巻は順調に面白く読めていたのだが、2巻3巻となるにつれて、なんだかよく分からなくなっていった。
翻訳ということ、設定に没入しづらいことなどが理由であろうか。何とか読み切ったが残念。

あなたとは何でも全部、一番大事なことまで話したい。話したくなったらね。だからあなたのほうも、何ひとつ私に隠しちゃだめよ。私、せめて一人でも、自分自身と話すように何でも話せる相手がほしいの。

フランス語の単語で、他の多くの言葉と同じく、ロシア語の語彙に加わったものであります。

私見によれば、作家はたとえ平凡な存在の中にさえ、面白くてためになる要素を嗅ぎ分けるよう心がけるべきである。たとえば、有る種の平凡な人物の恒久不変の平凡さそのものんが、まさにその人物の本質をなしているというよおうな場合、あるいはもっとましな例だが、そうした凡人がなんとか凡庸とマンネリの域を脱しようと渾身の努力を払ったあげく、結局はひたすら不変恒久なるマンネリの域を一歩も出ぬままに終わってしまうような場合、そうした人物はむしろ一種独特な典型性さえ獲得するのである。ちょうど凡庸な人物が、なんとかいまのままの自分から脱却しようとして、独創的というべきほどの資質をまったく持たぬまま、しゃにむに独創的かつ独立的であろうと試みるようなケースである。

実際問題として、たとえば、金持ちで家柄もよく、見た目も上品で教育も有あり、頭も悪くなければ人柄も善良なのに、それでいて何の才能も、特質も、奇癖さえもなく、自分自身の思想のかけらさえもなくて、完全に「皆と同じ」人間でしかないとしたら、それほど腹立たしいことはないだろう。財産はあるがロスチャイルドほどではなく、家柄は立派とはいえ何かで顕彰されたためしは一度もなく、容貌は上品だがいたって表情に乏しく、立派な教育を受けていてもその使い道を知らず、頭は良くても自分の思想を書いていて、情はあっても広い心はなく……といった具合で、万事こんな調子なのである。こうした人間は世の中にうようよしており、一見そう思えるよりもはるかに多いほどだが、あらゆる人間集団と同じく、彼らもまた二つの種類に大別される。すなわち、浅薄な者たちと、「はるかに小利口な」者たちである。前者のほうが幸せだ。たとえば浅薄な「凡人」は、ごく簡単に自分を非凡で独創的な人間だと思い込み、そして何のためらいもなくその空想を楽しむことができる。

「おそらく、ただ笑わせるための冗談だったのではないですか」
「おっしゃることは分かります。愉快な笑いのための罪のない嘘ならば、たとえ下品なものであれ、人の心を傷つけたりはしません。ただ話相手を喜ばせようとして、いわばひたすら友情のために、嘘をつく者すらおります。しかし、もしもそこに相手への軽視の要素をちらつかせ、そしてまさにそうして軽視ぶりによって、相手との関係に辟易していることを表現するような輩がいたら、高潔な人間のとるべき道はただひとつ、そっぽを向いて絶交し、侮辱者に対して身の程を知らしめてやることでしょう」

「さもありなんですな」

ともかく人間、気分には勝てないもので、エリザヴェータ夫人もとうとう自制がきかなくなって、ヒステリーの発作に屈してしまった。

たとえ不幸でもちゃんとモノが分かっていたほうがましですよ。たとえ幸せでもただ…馬鹿にされているよりは。

さっきあんなにむき出しにぼくに反論したので、こんどはその埋め合わせにぼくのご機嫌をとっているわけだ、はっはっ! あなたはまったく子供ですねえ、公爵!

その行いによりて彼らを知るべしとは、うまく言ったものです!